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日本史についての雑文その116 水野忠邦
こうしたアヘン戦争の緒戦の情報に幕府が揺れている最中、1841年1月に大御所の徳川家斉が死去いたしました。家斉は1817年から寛政の遺老を排除して側近政治を始め、その後、1837年に将軍職を退いてからも大御所として実権を握り続け、その死までの延べ24年間、家斉とその側近たちによってインフレ政策が継続されたのでした。
この期間を大御所時代というのですが、この時代を再び簡単に説明すれば、貨幣改鋳によって生じた益金を幕府の収入とし、その収入を使って家斉が贅沢三昧をするという時代でした。それだけ見ればとんでもない時代のようですが、通貨供給量が増えたことによってインフレとなり、商品物価が上がったので商業や製造業が潤い、工場制手工業が発展し、国内市場が成熟していき、大衆文化が大きく花開いた時代でもありました。
もともとは家斉が贅沢したいために寛政の改革以来の緊縮政策を撤廃したことからこうした流れとなったのであり、幕府が大衆社会の発展を目標としていたわけではないのですが、結果的にこの時代は、近代日本への準備期間として非常に重要な時代となったのでした。

しかし、商品物価が上昇し続けた一方で、米価は下落を続け、米経済への依存度の高い武士階級の生活や、領主経済を圧迫し続けました。米価の下落にしても、もとはといえば物価が高いために各藩が大坂の米問屋に米を担保に借金をしたために上方に米が集中し上方の米価が下落したことが原因であり、とにかく物価高騰が武士階級の困窮の原因なのです。
その物価高騰の原因が幕府の収入増加のための貨幣改鋳政策なのですから、構図としては「幕府が儲けるために他の藩や一般武士が困窮してもいい」という政策ということになります。果たしてこれが武士階級の棟梁たる征夷大将軍の行う幕府政治のあるべき姿といえるのでしょうか?
いや、このような政治をやっていては、幕藩体制は維持することが出来ないでしょう。幕藩体制というものは、そもそも兵農分離によって土地から引き離した武士階級を幕府や藩が食わせてやることによって成り立つシステムなのです。幕府は生産手段や独自の収入源を喪失した武士階級の救い主でなければいけないのです。
もし、幕府が武士階級の困窮を救済することなく、逆に武士階級の困窮を助長するような政治を続ければ、武士たちは自力救済に走るしかなくなります。つまり武士が生産手段や独自の収入源を持つようになるということで、これはつまり武士の半農化であり、この時代の農民というのは半分商人みたいなものですから、半商人化ともいえます。現に財政が逼迫した各藩は自力救済のために専売制に手を出して半商人化し始め、幕府支配から自律的になろうとしていました。
そうした武士階級の半農化、半商化は幕藩体制以前の戦国時代の武士の姿への回帰ということになり、つまり幕藩体制の崩壊ということになります。
つまり、大御所時代のような、幕府だけが安泰で武士階級を救済しようとしないような政治は、いずれ幕藩体制の自壊へと繋がっていくことになるのです。

ではどうすればいいのかですが、将軍家斉の放蕩をやめて幕府の無駄な支出を単に減らすだけでは意味はありません。それで幕府財政が潤ったとしても、それによって他藩や一般武士が困窮するような物価高騰政策、つまりインフレ政策、言い換えれば貨幣改鋳政策をズルズル続けていれば、結局、武士の心は幕府からは離れていくでしょう。
つまり、貨幣改鋳の益金などあてにしないで済むように幕府の税収構造の健全化を図らなければならないのです。幕藩体制下においての「税収の健全化」とは、つまり、年貢収入の増加ということを意味します。そもそも年貢収入が減ったために、貨幣改鋳の益金などをあてにせざるを得なくなっていたのです。
しかし年貢収入を増加させて貨幣改鋳を止めれば物価が下がるかといえば、それだけでは足りないでしょう。物価の高騰は、幕府のインフレ政策がその追い風にはなっていますが、それだけが原因ではないからです。
物価高騰の原因になっているのは、工場制手工業の発達と国内市場の多元化によって、生産者やそれに近い在方商人達による商品物価の引き上げを求めるベクトルが強くなってきていたからです。
何故そうした在方商人たちの意見が通りやすくなっているのかというと、彼らの市場に占めるシェアが大きくなってきたせいで、旧来の大都市の問屋や、専売制を行う各藩の当局とも商取引上で密接に関係を深めるようになり、お互い持ちつ持たれつの関係を築くようになったため、市場において在方商人、大問屋、各藩当局らとの間で慣習的な取り決めが生じるようになっていて、そこにおいて物価が自然と決定していくようになっていたからです。
物価高騰はこういった自然的なシステムにおいて決定されていたのであって、幕府が物価の引き下げを図ろうとすれば、こういった複雑に入り組んだシステムに切り込んで解体していかなければいけなくなるのです。

特に面倒な抵抗勢力は、専売制に手を出したことによって領内の生産者たちと複雑な利害関係を結ぶようになり、土地と深い関係を持つようになり土着性を高めた大名たちでした。
幕藩体制初期の頃は、全国どこの領地でも藩の収入は年貢米のみでしたから、大名は全国どこに転封になっても、毎年機械的に年貢米を徴収していればよかったわけで、つまり土着性に乏しかったわけです。いきなり見知らぬ領地に転封になっても、何処でも同じように米作が行われていたわけですから、大名としては困ることは無かったのです。
ところが、専売制によって領内の各種生産者や在方商人たちと複雑な取引関係を持つようになると、大名はその土地を離れてはやっていけなくなるわけです。つまり大名に土着性が生じてくるわけで、これは大名が生産手段や独自の収入源を持つということで、幕藩体制にとっては良くない兆候です。これはある意味、戦国大名化といえるものだからです。
また、大名が領内の農民や商人と運命共同体のようになることによって、大名が武士階級の代弁者よりもむしろ、農民や商人の代弁者のようになることも問題でした。これは物価引下げの大きな障害になるだけでなく、大名の半農化、半商化であり、身分制度の厳格さの危機でした。幕藩体制というものは厳格な身分の区別があってこそ成り立つものであり、それが曖昧になることは幕藩体制の危機に直結するのです。
幕府としては、大名が幕府の統制に服するものであり、武士階級の利益のためにのみ働くものであるということを徹底する必要がありました。そのためには大名の土着性は否定されなくてはいけませんでした。
こうした構造的問題を解決してこそ物価を引き下げて武士階級を救済することが出来るのであり、幕府が武士の棟梁としての務めを果たして、幕藩体制を維持することが出来るのです。また、既に大御所時代を通して武士の困窮は極まっていたので、そうした現実の貧困に対する目に見える応急的な救済策も必要となっていました。

幕藩体制を倒壊から救うためには、このように課題が山積していたのでした。ところが大御所時代においては幕閣は、家斉の側近たちに阻まれてこうした課題にまともに取り組むことも出来ず、家斉の放漫政策の追認をするしかなかったのです。
こうした状況に強い危機感を抱いていたのが1834年に40歳で老中に就任した水野忠邦でした。彼は早急に幕府の在り方の改革をしなければ幕藩体制が維持できなくなるという危機感を強くしていたのですが、いかんせん家斉在世中は側近政治に阻まれて、なかなか思うに任せない状況が続いていました。
忠邦は先述のように尚歯会や洋式軍備への理解や、アヘン戦争への的確な対処などを見ても分かるように、非常に政治センスの優れた人物であり、頑迷な保守派とは違います。しかし開明派というわけでもなく、忠邦の政治のベクトルはそういった保守や開明といった座標軸とは違う座標軸上のものなのです。
一言で言えば忠邦は「改革派」ということになるでしょう。それも筋金入りの改革派で、改革に全てを賭け、手段は選ばない「改革パラノイア」という感じの人物です。
とにかくその幕政改革に賭ける執念は半端なものではなく、忠邦はもともと25万石の唐津藩の藩主だったのですが、唐津藩主は老中になれない家格であると聞き、23歳の時に自ら幕府に願い出て浜松15万石に転封してもらったといいます。
10万石も石高が減れば多くの家臣をリストラせねばならず、家臣は路頭に迷うわけですから死活問題です。だからこの転封は家臣に猛反対され、結局、家老が一人諫死までしているのです。それでもあえて忠邦は転封を強行したのです。そこまでして老中になって、そこまでして幕政改革をしたかったわけです。
この改革への異常なる熱情と、そのために全てを切り捨てる冷血ぶり、なんだか小泉純一郎前首相を彷彿させるキャラクターですが、こういう人物にかかれば、保守派であろうが開明派であろうが関係なく、改革のための手駒として使える人間は何でも使うし、使い捨てたり裏切ったりすることにも何ら抵抗はありません。真の意味で仲間や同志といえる相手はいないのでしょう。

そもそも保守派にしても開明派にしても、忠邦とは向いている方向、見ているものが全然違うのです。この時代の幕臣の多数派は保守派ということになりますが、彼らの保守の対象は徳川家であり、徳川幕府なのです。つまり徳川将軍家や徳川幕府さえ安泰であれば他の大名や武士などどうでもいいという発想であり、こうした保守派の発想が家斉の放漫政策を支えていたのです。彼ら保守派はひたすら将軍の顔色を窺い、幕府を守ることしか考えていないのです。
一方、この時代の幕臣の少数派であった開明派は、外国の脅威に目を向けて日本という国家を守ることを考えている人達であり、これは逆に視野が広すぎて、日本を守る主体は必ずしも幕府でなくてもいいし、幕藩体制である必要もないということになります。
忠邦だけはただ一人、このどちらでもなく、「幕藩体制を守る」という一点に向けて凝り固まっていたのです。忠邦の考える幕藩体制においては、「幕府が武士階級の棟梁として務めを果たす」ということが不可欠であるのですから、幕府だけが安泰であればいいというわけにはいきません。時には徳川家が泥をかぶってでも武士階級の利益を守るべきであるというのが忠邦の考える幕府のあるべき姿であり、そういう幕府であればこそ幕藩体制を守れるという考え方でした。ただ徳川家さえ安泰であればいいという一般的な保守派とは忠邦の考え方は、根本的部分では相容れないものでした。
また、忠邦も開明派と同じように外敵から日本を守らねばならないという使命感を持っていましたが、それはあくまで幕藩体制が強固であってこそのものであり、根本的に体制変革をしてまで国防を優先するところまで徹底したものではありませんでした。つまり忠邦の中では日本よりも幕藩体制のほうが重いのであって、それ故に忠邦時代の洋式軍備の整備も不徹底なものに終わったわけですが、まぁこの時期においては幕府首脳の誰がやってもこのぐらいの意識であったとは思われます。

このような改革の鬼のような水野忠邦が、1834年に老中に就任したのは天保大飢饉の最中のことで、とりあえずは飢饉への対応に追われましたが、そうこうしているうちに1837年には11代将軍の家斉の引退を受けて、新将軍の家慶を補佐して次第に新たな改革政治を志向するようになりました。家慶も忠邦を信頼し、1839年には老中首座へと昇進させて、幕政改革を任せようとしていました。
こうした中で1839年には蛮社の獄が起きたのですが、この時も忠邦は独特の改革優先姿勢を示しています。忠邦は、もともとは開明派の尚歯会に理解を示しておきながら、一方では幕政改革の手駒として使える保守派の鳥居耀蔵の暴走は黙認し、開明派の中でも幕政を批判した渡辺崋山や高野長英は見殺しにし、幕政改革に有用な江川英龍は鳥居の追及から守って重用し続けたのです。忠邦の中での価値基準が「改革に有用か否か」のみであったことの一例といえましょう。
しかし、こうした忠邦でも、大御所の家斉が健在な間は、家斉やその側近たちに阻まれて、幕政の根本的な政策転換を含んだ思い切った改革には着手できませんでした。そして、とうとう1841年に家斉の死去を受けて、また天保大飢饉の後処理も一段落し、忠邦が本格的な幕政改革に着手して、大御所時代の政策を大転換していこうという天保の改革が始まるのです。
そして、これが「幕藩体制を維持していく」という目的をもった最後の政治努力ということになるのです。
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