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日本史についての雑文その117 天保の改革
1841年に大御所の徳川家斉が死去した後、老中首座の水野忠邦が天保の改革において、まず着手したことは、幕閣の人事刷新でした。要するに、家斉時代の側近勢力を一掃して、自分の息のかかった者達で固めたのです。こうしてまずは忠邦が自由に改革の腕を振るえる環境を作ったのです。
そして、弛緩しきって信頼が地に堕ちていた幕政への信頼感を取り戻すために、家斉側近勢力やそれにへつらっていた者達を追放する際に、単に追放するだけではなく、多くの者の処分を与え、風紀の引き締めに厳しい姿勢を示しました。

幕政の決定権はほとんど忠邦に集中するシステムとなり、開明派では先述の江川英龍や高島秋帆などが重用され続け、一方、忠邦の腹心として風紀粛清を担当する目付職には保守派の鳥居耀蔵をあてて、その任にあたらせました。
先述したように、天保の改革の目的は幕藩体制の立て直しであり、幕府が武士階級の守護者であることを再確認させることが目的でした。そしてそのために具体的にやるべきことは、端的に言えば物価を引き下げることでした。
そのためにはまず、インフレ政策であった貨幣改鋳政策を取りやめねばなりませんでした。貨幣改鋳政策はもともと、家斉らの豪奢な生活などで消費される幕府の莫大な支出を賄うためのものでしたから、貨幣改鋳を中止するためには、まずはそうした浪費を止めさせなければいけませんでした。
家斉在世中はそれを止めさせることが出来なかったわけで、改革は第一歩目から立ち往生してしまっていたというわけです。それが家斉の死によって道が開けたのです。そういう意味合いで、まずは家斉の側近で贅沢を推奨していたような者達を追放し処分し、幕府財政における贅沢を戒めたのです。

これで無駄な財政支出をカットし、貨幣改鋳も止めて通貨流通量を減らしてインフレにストップをかけてデフレ経済に移行させました。そういうことをすると景気が失速するのは寛政の改革時にも立証されたことなのですが、忠邦はそういうことは全く意に介していなかったようです。
むしろ意識的に景気を失速させて大衆社会の弱体化を図ったようなのです。何故なら、物価高は幕府のインフレ政策だけが原因ではなく、本質的には華美や享楽の傾向を強めてきた大都市の民衆の生命力によって自律的に引き起こされてきたものでもあることが忠邦には分かっていたからです。
ですから、忠邦は大都市の大衆社会の華美や享楽の傾向に対して苛酷なまでの抑圧を加えることにしたのです。寛政の改革期にも似たような抑圧が加えられましたが、その時は朱子学的な理念の貫徹や風紀粛清が目的であり、それに違反したものに対する取締りの強化がその本質であり、大衆社会の破壊や商業資本の壊滅まで志向したものではなかったのですが、今回は根本的に性格が違ったものでした。
忠邦の場合は、大衆社会を弾圧することが第一義的な目的であり、その弾圧が苛酷すぎて大衆社会や商業資本が壊滅してもそれでも構わないという徹底したものでした。いや、むしろそれを望んでいたフシもあります。忠邦は武士階級の利益代表として、武士階級の生活を圧迫する大衆社会や商業資本に対して全面戦争を仕掛けたのです。
そのために、まずは徹底的な倹約令を出しました。農民の衣食住、冠婚葬祭、年中行事、娯楽、遊芸に至るまでことごとく華美を制限し、装身具の価格は制限され、旬の食材を求めることさえ禁止され、違反すれば物品は没収され、違反者は手鎖の刑に処されました。
また、江戸町民の憩いの場であった芝居小屋や歌舞伎、寄席にも弾圧を加え、芝居小屋や歌舞伎は場末の浅草猿若町へ移転させられ、江戸歌舞伎の看板役者であった市川団十郎(七代目)は江戸から追放処分を受け、また天保の改革前は江戸に約500軒あった寄席は15軒へと激減させられました。
そして出版統制も厳格となり、幕府学問所によって、読本や戯作、人情本、浮世絵など、狂歌や怪談、遊話の類までのあらゆる出版物が検閲を受けて、没収や執筆禁止、手鎖などの処分を受けて弾圧されました。
ここまで徹底した抑圧政策は、風紀粛清というよりは、もう大衆社会への嫌がらせに近いものがあり、大衆社会そのものを叩き潰そうという意図が明らかであったと思われます。こうした大衆文化抑圧政策の具体的プランを忠邦に進言したのは目付の鳥居耀蔵でした。鳥居はコチコチの朱子学者の保守派でしたから、常々江戸の大衆文化を潰してやろうと思っていたのでしょうが、それに信任を与えた忠邦の思惑は、大都市の消費文化を冷え込ませることで物価統制を容易にするためであったと思われます。まぁ結局は、忠邦もまた、大衆社会など潰れても構わないという考えでは鳥居と一致していたということです。

こうした忠邦や鳥居の大衆文化への弾圧政策に抵抗したのが江戸北町奉行の遠山景元や、江戸南町奉行の矢部定謙でした。そもそも当初の鳥居のプランでは、芝居小屋や歌舞伎、寄席などは廃止させられるはずだったのですが、遠山の抵抗でなんとか浅草への移転や、寄席の15軒制限などで妥結することが出来たのでした。
遠山景元は旗本の遠山景晋の子息でした。ちなみに遠山景晋はニコライ・レザノフが来航した際に対応した長崎奉行で、つまり遠山景元は名門の旗本の家に生まれたということです。しかし、若い頃は家出して江戸の町屋に住み、無頼の徒とも交わり、体に刺青を彫っていたともいわれます。その後、家に戻り家督を継いで北町奉行になっていたのですが、そういうわけで庶民の生活の実態に造詣が深く、忠邦や鳥居の政策を非現実的で非人間的であるとして批判したのです。
こうして、なんとか浅草で存続を許された芝居小屋の関係者が遠山に感謝して、天保の改革後にしきりに「名奉行・遠山の金さん」ものを上演したわけです。遠山の正式名は遠山金四郎景元でしたので愛称が「金さん」というわけです。これが桜吹雪の刺青で有名な「遠山の金さん」シリーズの起源なのです。もちろん諸肌見せてのお白州のお裁きのシーンは完全に創作ですが。
しかし鳥居も巻き返しを図り、まず讒言によって南町奉行の矢部を失脚させて、自ら南町奉行に就任し、おとり捜査なども駆使して江戸市中で厳しい取締りを行い、江戸市民に忌み嫌われました。1843年には忠邦に進言して北町奉行の遠山を閑職の大目付に転身させ、江戸市政から排除することにも成功しました。こうして、しばらく江戸市民は抑圧され続けることになるのです。

さて、こうした大衆文化への抑圧を進める一方、忠邦は物価引下げのために1841年と1842年の二度にわたり株仲間解散令を出しました。これは幕領も藩領も問わず、都市の大問屋によって作られる株仲間を解散させる布達でした。忠邦はこれらの株仲間が中間利潤を得るために物価を吊り上げているという見方をしており、株仲間を廃して市場原理を働かせれば自然に物価が下がると予想していたのです。
確かに貨幣改鋳政策を止めたぐらいでは物価は下がらないのであって、原因は社会構造的問題であるということは忠邦の睨んだ通りだったのですが、それは大衆文化を抑圧したり株仲間を解散させたぐらいで解決するほど皮相的な問題ではなかったのです。そのあたり、忠邦の認識はまだまだ掘り下げが足りないものだったと言えるでしょう。
実際は都市に商品をもたらしていたのは既に大問屋ではなく、各地方の在方商人たちなのであり、都市に流れ込む商品の物価を決定しているのも大問屋の会合ではなく、生産地の農民や商人達、各藩の専売制の当局などのせめぎ合いの中で、原料価格や労働賃金などによって左右されつつ決まっていたのが実情でした。
だから都市の大問屋の株仲間を解散させたところで、物価引下げの効果はほとんど無く、仕方ないので忠邦は、鳥居らに命じて町奉行所や町名主を使って強権的に物価引下げを図る羽目になりました。このため江戸市中では物価、地代、賃料、労賃などが強制的に引き下げさせられ、違反者は厳しく取締りを受け、ますます不景気に拍車がかかることになったのです。

しかし、こんなことをしたところで江戸の物価が幾分下がるだけのことで、江戸の武士はいくらか救われるかもしれませんが、全国の武士のほとんどは物価高に苦しみ続けることになります。
そこで、全国の在方商人の物価値上げ要求を押さえつけるためには、各藩が忠邦のように毅然とした物価統制を行う必要があったのですが、そもそも各藩当局も専売制に手を出していたので領内の商人や農民と運命共同体的関係にあり、苛酷な取締りなど不可能でした。
そうした領民との癒着関係の元凶が各藩の専売制にあると見てとって、忠邦は1842年に各藩の国産品の専売制を禁止する命令を出しました。
確かに各藩の専売制は、各藩の政策を武士優先よりも領民優先に傾けるものでしたし、身分の境界を曖昧にするものでしたから、そもそも忠邦の目指す政治とは相反するものでした。また、そもそも各藩が専売制によって自律的な土着性の高い財政基盤を持つことは、幕府による各藩への統制力の低下に繋がることでしたので、これも忠邦の理想とする幕藩体制とは相反するものでした。ですから、専売制の禁止は忠邦の改革の当然の帰結でもあったといえるでしょう。
しかし多くの藩はこの禁令を無視しました。専売制は諸藩にとって既に死活的事業となっており、このような幕府の布達一枚で中止したり出来るものではなくなっていたのです。こうして天保の改革は各藩の大名権力とも正面から対決する様相になってきたのです。
あるいは、これが家康・秀忠・家光の頃であれば簡単に幕府の禁令に大名は従ったのかもしれません。幕藩体制が生まれた頃には体制維持のベクトルにもそれだけの勢いがあったでしょう。しかし、この天保期にもなると、幕藩体制も陰りが見えてきており、勃興してきた大衆社会や商業資本と結びつくようになってきた大名権力の勢いが拮抗してくるようになってきていたのでした。
このように改革の成果はなかなか上がらず、江戸市中が深刻な不景気に陥ったにもかかわらず物価はなかなか下がらなかったので、武士階級も含めて民の不満は危険水準まで膨れ上がり、忠邦は武士階級の当座の救済と民衆への懐柔のために、1843年には寛政の改革時からお馴染みの棄捐令を出し、武士の借金の利子を破棄したり、借金の金利の上限を下げたりしましたが、ほとんど焼け石に水の効果しか上がりませんでした。

さて、このように物価がなかなか下がらなかったために、倹約令の効果を相殺して幕府の財政支出もなかなか減らず、貨幣改鋳を止めた分、幕府収入の半分を占めていた改鋳差額の益金の減額分を補う財政収入が必要になってきました。
そしてそれは年貢収入の回復増加によって補われるべきというのが忠邦の考えでした。もともとの幕藩体制の在るべき姿は、武士階級の経済を圧迫する市場経済の存在しない米経済オンリーの経済体制でしたから、米作に関わる農民が増えて、米の生産量が増え、年貢収入が増えれば増えるほど、幕藩体制の立て直しを図る忠邦にとっては好都合なわけです。
そこで、まずは米作に携わる農村人口を維持するために、1843年には「人返しの法」が発令されました。これは、地方の農民が新規に江戸の人別帳に加わることを禁止する法律で、江戸に流入してくる人口を抑制し、農村人口を維持して年貢収入を回復させることが目的でした。年貢収入回復と都市大衆文化抑圧の一石二鳥の名案でしたが、実際は抜け穴だらけで実効性はほとんどありませんでした。
それでも年貢収入は回復させねばいけないわけで、1843年に今度は「免直し」が幕領の全代官に命じられました。これは、農村の収穫量の実際を詳細に調査することで、要するに検地のやり直しでした。つまり、農民と代官所との間で長年かけて訴訟や一揆などの歴史を通じて築き上げてきた暗黙の取り決めを全て白紙に戻して、厳格な年貢の取立てを行い年貢収入の回復を図るというものでした。
これは18世紀前半に徳川吉宗が定免制を導入してから、それに対する農村の反対運動が起きて、その後、権力側と民衆側との間のせめぎ合いと和解を繰り返して築き上げてきた信頼関係、言い換えれば「慣習法による支配」の歴史の完全否定であり、歴史無視の反動攻勢といえるものでした。
しかも、なんとしても年貢収入を増加させるため、検地作業に使用する竿の長さを細工したりする不正も行われたため、農民の反発を招き、再検地反対一揆が続発し、更にそのような状態で領地経営も立ち行かなくなることを憂慮して、各地の代官もこの政策を、あまりに苛酷に過ぎるとして猛反発し、結局この施策は撤回されたのです。
幕府の命運を賭けた大改革の主要な施策が、民衆の一揆によって撤回させられるなどということは前代未聞で、それだけ民力が強まってきていたのであり、また同時に幕府権力がそれだけ弱体化してきていたということでもあるのです。こうして、天保の改革は、当初の目的であった物価の引き下げと幕府財政の安定という部分では、完全に暗礁に乗り上げ、ただひたすら庶民の恨みを買い、大名の反発を招いただけという状態に陥っていったのでした。
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