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日本史についての雑文その118 改革の挫折
こうして天保の改革が行き詰っていく中、1841年も1842年も、隣の清国からはアヘン戦争の憂慮すべき情報が続々と幕府にもたらされ、老中の水野忠邦はそれへの対応にも追われ、江川英龍や高島秋帆に命じて洋式軍備を導入させ、また薪水給与令を出して海防政策を改めたりしました。
しかしアヘン戦争情報において最も忠邦を戦慄させたのは、イギリス東洋艦隊による清国の西南沿岸の諸都市への砲撃の被害の甚大さでした。

清国の場合、首都の北京は内陸都市であったのでその直接攻撃には晒されなかったのですが、日本の場合、その政治的首都である江戸は臨海都市であり、外国艦隊に江戸湾への侵入を許せば、その艦砲の射程内に江戸城も入ってしまうのであり、まさに清国の沿岸都市のように全く為す術なく一方的に攻撃に晒されることになるのです。
これは清国の場合よりも深刻な日本のウィークポイントであり、早急に対策が必要な部分でした。そのためには、まず何がなんでも敵艦隊を江戸湾に侵入させない態勢の整備が急務であり、そのために1841年には江川英龍に命じて江戸湾を巡視させ、狭い江戸湾の入り口、特に浦賀と富津を結ぶラインを押さえることが重要であることを再確認しました。
それを基本として江川を中心に江戸湾防衛計画が練られ、1842年には浦賀の南にある川越藩と、富津の南にある忍藩の両藩に、相模と房総の江戸湾岸の警備を命じ、更に浦賀の北に羽田奉行を新設し、浦賀―富津ラインの南側の江戸湾岸は川越・忍の両藩が、北側の江戸湾岸は幕府が羽田奉行を通じて直接防備を担当するという態勢を整備したのです。

しかし、もしそのようにして江戸湾への敵艦隊の侵入を防げたとしても、固定砲台しか持たず艦隊を持たない日本側は江戸湾の外側の制海権は敵艦隊に握られてしまうことになります。そうなるとどうなるかというと、江戸湾の入り口を敵艦隊に封鎖されて江戸に物資が入らなくなり兵糧攻めにされてしまうということです。
そこで、そうした事態への対応策として忠邦は1843年に印旛沼堀割工事の着工を発令しました。これは太平洋に流れ込む利根川と江戸市中へ流れる検見川を印旛沼を介して結びつける水路を開設するという壮大な土木工事で、5つの大名家に命じて普請が行われました。
当時はこの工事は洪水対策や新田開発などのためと説明され、その真の計画意図は全く公表されなかったのですが、水路の幅を五百石船がすれ違えるだけの長さを厳格に守るよう命じられていたことからも、これが、銚子から江戸への物資輸送水路の開設を目的とし、その真の目的が、外国艦隊に江戸湾入り口を封鎖された際の江戸への内陸兵糧輸送路の確保であったことは明らかでしょう。
ただ、アヘン戦争情報を忠邦が独占して幕閣にもあまり洩らしていなかったため、巨額の費用を負担させられて動員された諸藩も、藩財政に壊滅的な打撃を蒙りながらも、その工事が真に何のためになされており、川幅を狭めるよう幕府に進言しても全く聞き入れられない理由も全く分からなかったのでした。
このような秘密主義で諸藩に負担をかける大工事をして内陸補給路ぐらいしか作れないのだったら、いっそ全てを明らかにして艦隊を作ったほうがよほど有意義なようにも思えるのですが、海防態勢の自信の無さを表明することでの幕府の威信低下を恐れ、大船建造の禁制を破ることによって鎖国体制が終焉することを恐れる忠邦は、そうした思い切った決断は出来なかったのでした。

むしろ逆に、忠邦は更なる秘密主義で強権発動を行い、大名家や旗本の不審を招くことになるのです。それが天保の改革に引導を渡すことになる「上知令」の発令だったのです。
この1843年に発令された上知令は江戸や大坂の周辺の藩領や旗本の知行地を召し上げて幕府の直轄地とするというもので、「取締りのため」という意味不明な理由しか公表されませんでしたが、これは先述の幕府が直接に江戸湾岸や大坂湾岸の海防を担当するという計画を実施するために、入り組んだ領地の整理が必要になったという、軍事的な理由によるものでした。
軍事的理由が発端ではありましたが、忠邦としてはここで諸藩の大名家の持つ領地への土着意識、領地や領民との運命共同体的考え方に対抗しようという考えもありました。本来の幕藩体制とは、藩は幕府に従属するものであり、幕府の命令ひとつによって転封や改易などは自由自在に行えるものであるはずでした。幕府初期の頃はそうでありましたし、忠邦はそのようであるべきと考えていました。だから国防上の必要があれば、理由などいちいち説明せずとも、幕府の考えひとつで領地召し上げなど当たり前だという意識があったのです。
一方、各藩の大名家のほうでは長年親しんだ領地を特に失政も無いのに召し上げられることには納得がいかない領地意識がありましたし、そもそも領内での農民や商人との間の複雑に入り組んだ利害関係は簡単に離れ難いものとなっていたという実情もあり、突然の領地召し上げには領民の反発も必至という状況もあったのです。
そこに火に油を注ぐように、江戸や大坂の領民たちに幕府が多額の海防筋名目の御用金の供出まで命じたものですから、上知令の対象地域の領内は騒然として、一気に不穏な情勢となりました。大名や旗本に年貢の前貸しなどを行っていた領民がその返済を求めて運動を起こしたりするようにもなりました。
このような混乱を引き起こしながら、領地を召し上げられる大名や旗本への代償はわずかなもので、大名には辺鄙な替地を、旗本にはわずかな金額を支払うのみで、事実上の改易に近いような仕打ちとなったので、当該の大名や旗本からは猛反発を招くことになりました。
それに呼応して、全国の大名家や旗本も、専売制禁止令や理不尽な印旛沼水路工事の強行などで溜まっていた不満を爆発させ、御三家や幕閣、大奥などに上知令の撤回を盛んに働きかけました。
忠邦にとって致命的であったのは、この上知令が譜代の小藩や少身の旗本を苦しめる政策であったため、天保の改革の本来の目的であった「幕府が武士階級の利益を守る」というポリシーに矛盾していたという点でした。これは幕臣保守派としても受け入れ難い状況でしたし、あまりにも反対意見が多すぎたために、それに逆らって上知令を強行することによって幕府や徳川家に疵がつく恐れもあり、お家大事の保守派としては上知令強行には反対せざるを得ない状況でした。また、失敗続きの天保の改革を見て、忠邦を見限る動きも出てきたのです。
そういう状況を受けて、保守派の筆頭であった鳥居耀蔵が忠邦を裏切って、上知令反対派に寝返り、天保の改革に関連する機密資料を全部、忠邦の反対勢力に横流ししてしまったのです。
それによって忠邦は窮地に追い込まれ、更に反対派に回った大奥などに後押しされた将軍の家慶が上知令に反対を表明し、将軍の名のもとに上知令を撤回したのです。こうして将軍の後ろ盾を失った水野忠邦は、その6日後に老中を罷免され、後任の老中首座には阿部正弘があてられ、こうして1843年9月に天保の改革はわずか2年半ほどの短期間で挫折し失敗に終わったのです。
その晩、江戸の民衆が数千人集まり、忠邦の屋敷を囲み、鬨の声をあげて石を投げ込み、番所を打ち壊したりしたが、役人はそれを制止しきれませんでした。このようなことは前代未聞のことで、それほど江戸の民衆の天保の改革への恨みは大きかったのであり、また、民衆の力がそこまで大きくなってきていたということでもあるでしょう。

こうして天保の改革が挫折したことによって、印旛沼の工事も完成間近で中止となり、藩の専売制も都市の株仲間も復活し、人返しの法も都市の様々な禁制も撤回され、寄席や歌舞伎も復活し、市川団十郎も江戸に戻ってきました。
鳥居耀蔵は忠邦を裏切った功績によって南町奉行職に留まりましたが、半年後にフランス船の琉球来航事件を契機にした外交問題の紛糾で老中首座の阿部が一時的に身を引き、忠邦が短期間、老中首座に復帰したため、大目付の遠山景元と結託した忠邦によって鳥居は追放され、身柄は丸亀藩にお預けとなり、1868年の明治維新による恩赦まで延々と軟禁状態に置かれることとなりました。
その後ほどなくして忠邦も再辞職に追い込まれ、更に不正が発覚して隠居謹慎となり、また、遠山景元は鳥居の追放後、南町奉行に就任し、江戸の市政を担当し、1852年、ペリー来航の前年まで南町奉行を務めた後、隠居しました。
以上が、幕藩体制維持のための最後の努力となった天保の改革の顛末ということになります。
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