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日本史についての雑文その121 雄藩の改革
さて、天保の改革が失敗に終わり、幕府が武士階級を救済できないということが確定したことによって、これで武士階級は自力救済していくしかなくなったのであり、つまり「武士が土着し生産活動に従事すべき」という傾向に更に拍車がかかっていくことになったのです。
武士が土着化して生産活動に従事するという方向性を藩政レベルで実践してきたのが国産品の専売制であり、それをベースにして1830年代から各藩において始まった藩政改革の流れは、こうした新文明の時代の流れに沿った改革でした。

こうした藩政改革は「武士の土着化と生産活動従事」という方向性を積極的に認めつつ、身分制の厳格化や農民の移動制限などによって農業や商業への圧迫を加えるのではなく、むしろ藩の専売制の下に藩内の産業を統制して振興を図るという、藩全体を挙げての富国強兵政策であったという点で、幕府の天保の改革とは決定的に違うタイプの改革でした。
つまり、各藩の藩政改革は幕府の天保の改革のような「幕藩体制を維持するための改革」ではなく、むしろ各藩の経済的自立や土着化を進めることで各藩の戦国大名化を進め、幕藩体制を崩していく方向の改革であったといえます。そうであるからこそ、天保の改革とは反対に、時代の流れに合った改革として、成功していく場合が多かったのだといえます。

ただ、これらの藩政改革は基本的には藩財政の再建が大目的ですから、まず藩財政の借金を処理しなければいけませんでしたし、そのうえで藩の専売制の下に藩内の生産者や商人らを相当強引な手法で従わせる必要もありました。そのためには藩権力を使った強権的なトップダウン型の改革を行う必要がありました。
そうなると、藩内での藩当局と商業資本との間の力関係が重要になってくるのであり、商業資本よりも藩当局のほうが強い藩では藩政改革に成功し、逆に藩当局よりも商業資本のほうが強い藩では商業資本を従わせることに失敗し、藩政改革も失敗することになるのです。
つまり、商業資本が発達して大きな力を持っていた関東や畿内、東海などの日本の経済先進地域にあった藩では、藩当局が商業資本に押し切られてしまい、ほとんど藩政改革を成功させることが出来ず、藩財政は健全化されず弱体化していった一方、商業資本が未発達であった中国、四国、九州の僻地であった西南地方や、東北や北陸の諸藩などのほうが藩当局によって商業資本を押さえ込んで藩政改革を成功させる事例が増えたのです。
また、これら僻地の藩には外様藩が多く、外様藩は譜代藩に比べて石高が大きく家臣の人数が多く、つまり藩全体の人口の中で藩士の占める比率が高く、その分、領民に対して藩当局の支配力が高いわけで、そのうえに領内の商業資本が未発達であったわけですから、藩内のパワーゲームで容易に藩当局が勝利を収め、商業資本をその統制下に置くことが可能であったのだといえます。
そしてまた、僻地の外様藩の場合、その膨大な人数の藩士の中の多くは城で行政官僚をしている上士ではなく、もともと土着して生産活動に従事しながら少ない禄を食む「郷士」という存在であったのですが、藩が専売制という一種の生産活動に携わるようになると、こうした郷士のキャリアが役に立つようになり、郷士が活躍するようになってきました。こうした郷士の存在も外様藩の藩政改革におけるアドバンテージとなったのでした。
一方、商業資本の勢力が強い関東、畿内、東海などの藩は、だいたいが石高が小さい譜代藩で、家臣の数も少なく、藩士も官僚的で生産活動のスキルも低かったので、だいたいが商業資本に圧倒されて専売制の確立にも失敗し、藩政改革は上手くいかず弱体化していき、幕末の政局において存在感を発揮することもなく終わっていったのでした。
それに比べて、藩政改革に成功して富国強兵を成し遂げた西南、東北、北陸の雄藩、例えば薩摩、長州、土佐、肥前、宇和島、会津、福井、長岡などの諸藩は幕末の政局で大きな影響力を発揮していくことになるのです。

例えば、薩摩藩では藩主の島津重豪から全権委任された調所広郷が1827年から藩政改革に着手し、大坂や江戸の商人から借金の証文を取り上げて250年ローンの無利子返済という事実上の借金踏み倒しを強行し、幕閣に賄賂を贈って訴訟をうやむやにさせる一方で、奄美大島などでの黒糖栽培で過酷な収奪を行って専売制を確立し大儲けし、更に蝦夷地との密貿易で仕入れた昆布などの海産物を、琉球を隠れ蓑にした清国との密貿易で売りさばくという密貿易システムを作り上げて、更にその決算用に贋金製造にまで手を染めました。このように相当無茶なことをやって藩政改革を成功させたわけですが、これほどの強権を振るえるほどの政治力が藩当局にあったということでもあります。
また、肥前藩でも1830年代に藩政改革が断行され、まず藩財政の借金は100年ローンや1000年ローンなどの事実上の踏み倒しで破棄し、膨大な家臣団を駆使して領民の反対を抑え込み国産品の専売制を独占統括し、農民の商人化を抑えて農業に専念させる一方、農地改革を行い小作人の小作料を減免して生産性を高め、年貢収入を増大させ、財政を再建して藩政改革を成功させたのです。
長州藩でも1837年から村田清風による藩政改革が始まり、藩士の借金を藩が肩代わりする代わりに、元金の返済を37年間据え置くという、これも事実上の踏み倒しによって破棄し、一方で領内の産業調査を緻密に行い、そのデータを基に産業振興を図り、国産方を設置して専売制を展開し、そうして得られた産物を他国船に売りつける産物交易を盛んに行い、財政再建を果たし藩政改革を成功に導きました。
このように諸藩の藩政改革は相当に強権的な改革で、藩内の領民や商人の反発を招く可能性が非常に高いものでしたので、膨大な家臣団によって領民の一揆を抑え得る外様の雄藩でなければ成功しないものであったと言えます。
また、非常に危ない橋を渡るような改革であったため、藩内の上級武士は尻込みしてやりたがらず、中下級武士が中心になって、言わば責任を押し付けられてやらされたというような形のものが多かったようです。薩摩藩の調所にしても、長州藩の村田にしてもそうですし、実際、調所は1848年に密貿易発覚を恐れて自殺することになるし、村田も1844年には追放されてしまうのですから、本人達にとってはあまり割に合ったものではなかったといえます。しかし、これがきっかけとなって、これら雄藩の藩政の実権が中下級武士に移り始めることとなったのです。

こうして1840年頃には雄藩の藩政改革が成果を上げてくるようになり、これらは幕藩体制にとっては危険な存在として立ち現れてくるようになったのです。そうした状況に危機感を感じて1841年に水野忠邦が天保の改革を行い、各藩に対して国産品専売制の禁令を出したり、上知令で圧迫を加えようとしたのです。
しかしその天保の改革も1843年には失敗し、幕府の無力が立証され武士が自力救済していかなければいけなくなる状況が確定すると、武士の土着化と生産活動への従事の傾向は急速に進み、個々の武士のレベルにまで浸透していくようになりました。
そうなると、天保の改革以降の1840年代、弘化・嘉永年間においては雄藩の各藩の藩内でも、もともと土着化し生産活動にも従事していた階層の武士である「郷士」のセンスがより多く求められるようになり、郷士の発言力が増していったのです。そして、そうした郷士の意見も反映できる下級武士出身の能吏である「有司」と言われる人材が登用され、彼ら有司によって藩政の実務が執り行われるようになっていったのでした。
それだけ藩や武士に経綸の才覚、つまり経営や商売の才覚が強く求められるようになってきたのです。こうなってくるともうこれは幕藩体制維持とは全く逆の方向の改革、雄藩の富国強兵、言い換えると戦国大名化を志向する改革となっていくのです。
もちろん、これらの藩政は海防目的を超えた過剰軍備や密貿易という非合法なものを含んだものでしたから、幕府の目を盗んで行われる部分も多く、幕府としてもそれをなんとか尻尾を掴んで取り締まろうともして、雄藩の側でも裏から幕閣に働きかけて抜け道を作ったり、イタチごっこを繰り広げることにもなったのですが、次第に雄藩の藩政改革の成果のほうが上がってくるようになってきました。
そして、この改革の担い手である雄藩の有司たちの中から、後に桂小五郎や西郷隆盛、大久保利通など、幕末の志士たちが現れてくることになるのです。

そうした有司たちによる藩政は、天保の改革以降の1840年代から1850年代は、藩内の産業をますます振興し、国産品を専売して藩外へ輸出する産物交易を拡大していき、そうやって得た利益を軍備に回しました。長州藩では産物交易は幕府に睨まれ1843年以降自粛していたが1850年ぐらいから復活させ、活発に展開するようになりました。
特に薩摩藩に関しては、1844年にフランス、1845年にイギリスの艦隊が琉球に来航して通商を要求し、結局1847年に琉球に限り貿易を認められたので、これをきっかけに洋式軍備を整備するようになり、また肥前藩は長崎警固の任に就いていたので、オランダ商館とのコネクションがあり、両藩ともそうしたルートから得た知識や、幕府の開明派の江川英龍などから得た知識などを駆使して精錬所や反射炉、溶鉱炉なども建設し、自力で大砲を鋳造したり軍艦建造を計画したりして独自に洋式軍備を整備するようになっていきました。こうした各藩における独自の洋式軍備の整備などは、かつては考えられなかったことなのですが、アヘン戦争による危機感の高まりは、こういうことも可能にするようになってきていたのです。
こうして薩摩藩は琉球を介して事実上、イギリスやフランスと密貿易をするようになっていき、更に利益を上げていくようになり、藩内の産業を振興させて産物交易を更に海外貿易にまで拡大させたい長州藩や肥前藩も1850年頃にはそれへの参入を狙うようになっていきました。このあたりを見ると、後に激しい攘夷論を唱える長州藩も、最初は全く攘夷論ではなく、むしろ積極的な海外交易推進派であったことが分かります。実際、開国論が長州藩の本音なのであって、攘夷論は政略的に唱えていただけだったのです。

こうした有司たちによる藩政改革は、雄藩の富国強兵を図るものであり、それぞれ自藩の利益を第一優先に考えるエゴイスティックなものでした。これは幕藩体制とは真っ向から対立し、雄藩の力でもって幕政に影響力を行使していこうともするものでした。
もちろん、いかに藩政改革を成功させて富国強兵を成し遂げたからといって、雄藩が徳川幕府を超えるほどの実力を有したわけではありません。しかし、一定程度の幕藩体制からの自立した地位を築いたのは確かであり、雄藩は幕府にとっても無視できない勢力に育っていったのでした。
こうなると富国強兵を成し遂げた雄藩の群雄割拠の状況にもなりかねず、まさに戦国時代の再来ともなる可能性も出てきました。荻生徂徠の予測通りに考えれば、この雄藩の藩政改革はまさに雄藩の戦国大名化に他ならず、このままいけばまた戦国時代に戻るはずであったのです。しかし実際の歴史は、戦国時代の復活にはなりませんでした。

それは何故かというと、荻生徂徠の時代にはまだ存在しなかったナショナリズムというものが1840年代に生じてきていたからなのです。ナショナリズムとは、言い換えると藩の垣根を超えた国民意識であり、それが戦国化を具体的に防止する形となって現れたのが中央政府直属の土着的でもなく生産活動も行わない、武士の軍事力ではない正規軍としての「国民軍」という存在であり、この武力があったからこそ、1868年に最大の藩であった徳川家の領地を没収し、1871年には全国の藩の領地を没収するという廃藩置県を断行できたのであり、また、1877年には士族の反乱を鎮圧して武士階級を消滅させることにも成功したのでした。
このように、ナショナリズムというものの出現によって、土着化し生産手段も持った武士階級による戦国時代の再来を阻止し、その上、武士階級まで消滅させてしまうことになるとは、さすがに荻生徂徠にも想定外の出来事であったと思われます。
ここまで激しい社会変革をもたらしたナショナリズムは、つまり民主主義思想に通じるものであったのであり、ということはつまり、それは更に全体主義にも繋がるものであったということです。そういう意味で、ナショナリズムの発生やその為したことには功罪両面があるのですが、とりあえずはこの1840年代から更に幕末維新期にかけては雄藩の群雄割拠化によって日本がバラバラの内戦状態に陥ることを阻止するという有意義な役割を果たした側面が大きかったといえるでしょう。

そもそも藩政改革によって富国強兵を成し遂げ強大になったからといっても、雄藩はこの1840年代や幕末期の途中までは反幕府姿勢であったわけではありません。例えば薩摩藩や長州藩のような関が原の戦いで徳川家に敗れた外様藩などは潜在的には反徳川家なのですが、それでも反幕府というわけではありませんでした。
幕藩体制は天保の改革以降は形骸化していましたが、それでも実力的にまだまだ幕府が最強であったということもありますし、なんといっても徳川家は朝廷から武家の棟梁と認められていたわけで、各大名家の所領も徳川将軍家によって安堵されているのであり、それに叛旗を翻すというのはやはり武家としては名分の立たないことなのでした。
ですから、雄藩の考えていたことは、むしろ幕藩体制が形骸化していたからこそ、その形骸化した幕藩体制のシステムを利用して、自らの実力を背景にして傀儡の徳川将軍を立てて幕政を牛耳ろうというものでした。これは室町時代末期の細川家や山名家、また戦国時代の大内家、三好家、松永家などのような発想と大差なく、こういう考え方こそ、まさに歴史の証明しているように戦国乱世を招く考え方であったのです。
幕末期の途中から、こういう思考を乗り越えて雄藩が幕府を倒して新たな統一政府を作るという発想に到達することが出来たのは国民意識の勃興と普及によるものであり、また雄藩の内部において倒幕方針を主導した下級武士たちはその国民意識によって藩という枠組をも超越し、幕藩体制そのものも消滅させて国民国家を作ることが出来たのです。
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