KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その122 国民の登場
1840年代のナショナリズムの勃興の要因としては、内的要因と外的要因があり、それらの要素が相互に作用し合ってナショナリズムを刺激していきました。
内的要因としては、1843年に天保の改革が失敗に終わった後、再び大衆社会が活気を取り戻し、それにつれて工場制手工業は更に発展し普及が進み、その原料供給源も労働者市場も商品市場も、各藩の垣根の中には収まりきれなくなってきて、ボーダーレス化を求める社会的欲求が高まり、それは日本全国を完全に単一の市場とするように求めるようになってきました。それは各藩の為政者の意識において「藩」より「日本」というものを強く意識させる作用を生じたのです。

そしてその先には、商品市場を海外に求める潜在的欲求が生まれてくるのでした。そうなれば、産物交易を行う藩当局者の意識として「自藩と他藩」という視点だけでなく、「日本と外国」という対比の意識が生じてくることとなったのです。そうやって外国を意識するようになってくると、ますます日本という存在が意識されるようになってナショナリズムが掻き立てられるのです。
そして、その「外国」というものが概念的な存在ではなく、実際に具体的姿をもって意識されるようになってきていたのが、1842年のアヘン戦争後の日本周辺の様相であったのです。これが外的要因ということになります。
すなわち、アヘン戦争の結果、清国が門戸開放されたことによって世界は欧米諸国による1つの市場に一体化され、日本近海にも欧米各国の商船が定期航路を開き、頻繁に往来するようになり、日本にたびたびアプローチしてくるようになったのです。これは、1842年に日本の海防方針が転換されて、異国船に砲撃してこないようになったことがオランダ経由で欧米諸国に通達されたからでもあります。
アヘン戦争終結の1年後の1843年にはイギリス船が八重山諸島に現れ、1844年にはフランス船が琉球に来航し通商要求をし、また欧米で唯一日本と通商していたオランダ国王が幕府に開国を進言する国書を提出していますが、翌1845年に幕府はこれに拒否回答をしています。その年にはアメリカの捕鯨船が浦賀に漂流民を移送しに現れ、イギリス船が琉球と長崎に現れて通商を要求しています。
幕府としても意味もなくオランダ国王の忠告を無視したというわけではなく、なんとか開国を先延ばしにして、その間になんとか対等外交を展開できるだけの防備態勢を整えようという思惑だったのです。そのために阿部正弘政権のもと、幕臣の江川英龍を中心として洋式軍備の整備に努めていたのですが、これが保守派の妨害でなかなか順調に進んでいませんでした。

そうした中、1842年に老中兼任で海防掛に任ぜられた信州松代藩主の真田幸貫の兵学顧問であった朱子学者の佐久間象山はその年に江川に弟子入りし西洋兵学を学ぶこととなりました。この入門の際に象山は友人に宛てた手紙で、アヘン戦争後の清国の情勢を述べた上で「国家の基礎を固めて海岸防御の備えをすることが本邦に生を受けた者のとるべき姿である」と書いています。
ここに幕府や藩などの垣根や、職務意識などを超えた「日本」という我々の住む国土や郷土を守ろうという素朴な愛国心、愛郷心、つまり一種のパトリオティズムが表明されているのです。もちろんこの当時の日本人の多く、特に庶民のほとんどは素朴な愛郷心は誰もが持っていましたが、それが日本という国家へ向かうナショナリズムに直結するような、こうした意識にはまだ到達していません。しかしアヘン戦争という一大事件に深く問題意識を抱いた佐久間象山という思想家の中には、少なくともアヘン戦争終了時の1842年時点では明らかに幕藩体制を超越したナショナリズムが形成され、それが彼の中のパトリオティズムに全く自然に直結していたのです。
そして、この後に更に頻繁になってくる外国船の出没という不気味な事態の進行の中で、この象山の抱いた愛国心が少しずつ賛同者を得て広がっていくことになるのです。

象山はこの江川のもとでの学習の成果を同年1842年に「海防八策」としてまとめ、主君の幸貫に提出しました。その「海防八策」においては、数千門の大砲を鋳造して諸藩に分配し全国の海岸要地に砲台を築くこと、西洋流の大船を健造し海軍を充実すること、学校教育を盛んにして庶民に忠孝や節制を教えること、賞罰のけじめを明らかにして民心の団結を図ること、能力重視の人材登用制度を作ることなどが提言され、高い評価を得ることとなりました。ただ実際に幕府がこの象山の提言を受け入れ実行したというわけではありません。ペリー来航までは幕府の反応は鈍かったと言わざるを得ないでしょう。
しかし、ここで注目すべき点は、まず大砲を諸藩に分配するという点で、既に象山の中では国防に関しては幕府も藩も分け隔てなく、日本という国家を守るために一致協力するものと位置づけられている点です。これは、そもそも幕臣でもない象山を弟子として西洋兵学を授けた師匠の江川英龍にしても同じ考え方でした。
更に注目すべき点は、師匠の江川においてはそれほど顕著ではなかった海軍の重要性が強調されている点です。実際、アヘン戦争の戦闘を観察してみれば、砲台だけでは西洋の艦隊を撃退することは困難であり、海防を確実なものとするためには海軍は必須のものなのです。しかし幕府には大船建造の禁令があったのでそれを主張することは憚られていたのですが、象山はそれを明確に主張したのです。
そして、学校教育や民心の団結、人材登用などにも言及しているのは象山が単なる洋学者ではなく、もともと政治学的な朱子学の高名な学者であったからこその特色であり、しかもそれが決して観念論ではなく、具体的かつ的確な提言になっているのが高い評価を受けた所以でしょう。
実際、大砲や大船などのハードだけ整備しても仕方ないのであって、それらを扱う人材の育成や登用、その人材の供給源である庶民社会の団結こそが真に国家を守る決め手となるものなのです。つまり社会のシステムこそが重要だという発想です。

ただ、その場合の社会のシステムとして象山が理想とした形は、「東洋の道徳と西洋の科学技術の兼備」であり、あくまで西洋から導入すべきは科学技術であり、社会システムは伝統的価値観に則ったものであるべきとしたのです。
これは確かに正論なのですが、しかし西洋の技術を真に使いこなすためには、西洋文明の原理そのものを理解し体現しなければいけないのです。表面上の技術だけを導入してもそれは借り物であって、西洋諸国と対等に戦えるレベルのものにはならないのです。
だからといって、伝統的価値観を全部捨てて丸ごと西洋文明に取り替えてしまうというのもいけません。西洋にも道徳はありますが、それはあくまで西洋人の伝統に則った道徳であり、日本人が真に血肉にして身につけられるものではありませんから、そういうことをすれば日本は道徳不在の国となってしまい民心のまとまりもつかず無政府状態に陥ってしまいます。国家を維持するためには伝統的価値観、つまり「東洋の道徳」は不可欠なのです。
結局は匙加減の問題なのであって、東洋の道徳を核としながらも、西洋の科学技術を使いこなすための西洋文明のシステムやソフト的部分をほどよく受容していくのが肝要なのです。
ただこの象山の理論形成期であった1840年代は、未だ鎖国時代であったという制約もあり、まだその西洋の科学技術の把握自体が手探り状態でありましたし、西洋の社会システムなどはまだ未知のものであり、また幕藩体制や鎖国体制が建前としては絶対的な価値観となっていましたから、それらと異質な西洋社会システムや開国論などを大っぴらに肯定出来るような環境ではなかったということは考慮しなければいけないでしょう。
ただ、象山は「国防のためには庶民も含めた社会システムの整備が必要」という境地までは到達しているわけであり、これは伝統的価値観には則ったものであったとしても、とにかく旧来の幕藩体制とは異質な何らかの社会システムの必要性にあと一歩で繋がる境地にまで達しているということです。

そして、象山においてはその「西洋の科学技術の導入」という部分においても、決して提言やお題目だけに終わらず、「夷の術を以って夷を制す」という戦略の実践のために、実際に彼自身がありとあらゆる西洋文明の産物を製作していったのです。
何故そのようなことをしたのかというと、象山の考えとしては、西洋文明の製作物、例えば大砲でも火薬でも写真機でも電信機でも、またガラスでもワインでもブタの飼育でも、とにかくなんでも自分で実際に作ってみればその原理が分かるのであって、原理をつかめばそれを応用したり改良したりできるのであり、応用や改良が出来なければ西洋に追いつき追い越すことは出来ないということだったからです。
つまり、象山が西洋の品物をなんでもかんでも片っ端から自家製作していったのは、それらを作ること自体が目的なのではなく、それら個々の西洋文明の産物、すなわち「夷の術」の「原理」を知るためだったのです。それが象山にとっての「夷を制す」方法論だったのです。
また、象山の思想的同志といってよい薩摩藩主の島津斉彬なども、1851年には図面だけを頼りに蒸気機関を作り、蒸気船の建造に着手し、1852年には大砲鋳造のための反射炉の建設にとりかかるようになりました。これも「夷の術」の原理を知るためであったのです。
これは決して薩摩藩のみの利益のために行ったことではないのです。何故なら、例えば反射炉は肥前藩から資料を回してもらって作ったものであり、そうして得た知見を薩摩藩は次には水戸藩や幕府にも提供してそれらの反射炉建設に協力しているからです。つまり、反射炉を作ることも勿論大事な目的ですが、それ以上に反射炉に関する「夷の術」の原理を把握し更に改良していくことが大事だったのです。そしてそれは幕府や藩のためではなく、日本という国家の防衛のための一致団結した努力だったのです。こうしてナショナリズムは形成されていきました。
しかし、ここまでくれば、それら個々の西洋文明の産物の背後に共通して存在する「西洋文明そのものの原理」を把握して身につけることの重要性や必要性に思い至る境地まであと一歩なのだといえるでしょう。

このような佐久間象山の思想が、例えば日本が開国して、より多くの西洋の科学技術や社会制度に関する情報が入ってきて、幕藩体制に替わる新たな国家観が出現して自由に国家について論じられるようになった場合、また、ガラスや写真機などよりも遥かに大規模な「夷の術」、例えば軍艦を実際に建造したり運航したり、本格的な洋式軍隊を編成したり運用したりするような機会があれば、象山の思想においては超えられなかった一線を越え、一歩を踏み出して、西洋文明の原理そのものの受容の必要性を唱える思想へと発展していくのは必至であるといえるでしょう。
つまり、1840年代の象山の思想の段階ではまだ西洋の科学技術のみにしか関心が向いていなかったのは時代的な制約なのであって、象山の思想そのものの中には潜在的には西洋文明に包括して関心の向かう要素があったのであり、それが1853年のペリー来航以降の時代の激動の中で顕在化して、近代日本社会を作っていく原動力になっていくのであり、それを担っていくのは象山の思想の後継者たちということになるのです。
すなわち、1851年に象山は江戸に砲術の塾を開き、そこに勝海舟、橋本左内、桂小五郎、坂本竜馬などが出入りして象山の実践的な西洋文明受容の方法論を学んでいくことになるのです。それが1853年以降の激動の時代の中で、彼らの裡で消化吸収され化学変化を起こし、西洋文明の原理そのものへの関心へと向かわせることとなるのです。

こうした象山の西洋文明受容思想や国民意識は、外国からの脅威という外来的要因だけではなく、幕藩国家において伝統的に形成されてきた様々な成果があって初めて作られ得たのであり、それらを使って作り上げられたものだったともいえます。
つまり、西洋文明の産物を図面や資料だけを頼りに自家製でどんどん作ってしまうという実践的な発想というのは江戸儒学の実践的な知を重んじる伝統によるものでありましょうし、またそれらを自家製で作ってしまえるということは、江戸時代の庶民の知的レベルが大変に高かったということであり、また非常に勤勉だったからだということになります。それらは幕藩体制下において成長してきた大衆社会というものが背景にあって形成されてきたものです。その大衆社会を支えるのが商業資本であり、国内市場なのです。
また、そうして得た知見を幕府や藩の垣根を超えて活用していこうという考え方は、幕藩体制下における武士道の到達点である「公共に対する忠」によって為せる業でしょう。その「忠」の向かう先の「公共」とは何なのかというと、それが「日本」という国家ということになり、ここに国民意識が生ずるのです。
そして、西洋文明を知ることによって、その強大さを知ることとなり、それに対抗する意識が強くなり、ますます国民意識は強くなっていくのです。1840年代の段階では西洋文明を知る人間自体が少ないので、国民意識を持った「国民」と呼ぶべき新興勢力は、まだ佐久間象山や島津斉彬をはじめとした少数派に過ぎないのですが、1853年の黒船ショック以降は西洋文明に関する情報量が大幅に増えて、「国民」が激増していき、「国民」が新しい時代を切り開いていくのです。
そのように「国民」が国民意識を以って築き上げていく新しい時代、新しい文明、幕藩国家に替わる新しい国家の形は「国民国家」と呼ぶべきものでしょう。つまり、幕藩国家文明300年の歴史の後を引き継ぎ、現在に至るまで継続している新たな文明サイクルの名が「国民国家文明」だということです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。