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日本史についての雑文その123 皇国意識
幕藩国家の生み出した成果は大衆社会や商業資本、国内市場など、そして、武士道や勤勉哲学などのような伝統的価値観です。それらが爛熟期の後期にはだいたい出揃い、そして、それらの幕藩国家の成果を駆使して新しい国民国家を建設していく新興勢力である「国民」という存在が、幕藩国家爛熟期の最後の10年ぐらいから少数派ながらもその先駆者たち、例えば佐久間象山や島津斉彬などが明らかな姿を現して活動し始めるのです。
そして、そうした「国民」という存在を形成することとなった「国民意識」もまた、幕藩国家の生み出した成果によって生み出されることとなったのです。特にそれは伝統的価値観に拠るところが大きいといえます。そして特にその伝統的価値観の中でも、尊皇攘夷思想が国民意識形成の大きな要素となりました。

それは、まさにその先駆者的「国民」の代表格であった思想家の佐久間象山の理想とした社会モデルの「東洋の道徳と西洋の科学技術の兼備」にしても、「東洋の道徳」とはつまり日本的な伝統的価値観のことを指しているのであり、それは武士道や勤勉哲学という部分も確かにあったのでしょうが、朱子学者たる象山が国家原理として言及している以上、それは水戸学的な文脈の尊皇攘夷思想を意識したものであると考えるほうが自然というものでしょう。
排外的な攘夷思想と象山の「西洋の科学技術の兼備」という考えとは合致しないという意見もあろうかとは思いますが、象山のポリシーは「夷の術を以って夷を制す」ですから、開国して西洋の技術を吸収し改良して西洋を凌駕していくことこそが究極の攘夷だということになり、象山としては全く矛盾は無いのです。
この「究極の攘夷は開国」という当たり前の論理は、しかしこの後しばらくの間主流派になることはなく、それにより幕末の混乱が引き起こされることになるのですが、結局はそうした開国攘夷論が主流派となり明治維新が成し遂げられ、その後の明治の歴史はその路線で進められ、日露戦争においてひとまず「夷の術を以って夷を制す」という目的は達成されることとなるのです。

1840年代に外国船が日本近海に出没し、それに対抗するために佐久間象山や江川英龍、島津斉彬らによって西洋の科学技術が研究され、その強大さが認識されるようになると、国民意識が高まってきたのですが、その国民意識の受け皿は、既に幕藩体制が形骸化していましたから、幕府ではもう務まらないということになります。
そこで国民意識の求心力としての受け皿は朝廷ということになってくるのです。こうして尊皇攘夷思想が国民意識の形成に深く関係してくることになるのですが、こうした尊皇攘夷思想も幕藩国家において国学や水戸学において伝統的に培われてきた価値観に基づいたものでした。
水戸学にしても国学にしても、重要視されたのは「万世一系」という日本独自の観念であり、それらの合体したものである尊皇攘夷思想においても「万世一系の天皇によって統治される日本の独特の国体」という、日本の国体観が生じました。そして、それが対外的危機感の中で、そうした日本独自の国体を守ることが日本を守るということと同義とされたのです。
確かに漠然と「日本を守る」と言われても、具体的に何を守ればいいのかピンとこないものです。「万世一系の天皇による統治」というものを守るのがイコール「日本を守る」ということだと説明されれば非常にわかり易いし、自分が何をすればいいのか明快です。とにかく天皇を守ればいいわけです。こうして対外的危機感が高まっていく中で、国民意識形成の触媒として、天皇への求心力が高まっていったのです。
実際、広く国民意識を形成していくためには、誰でも分かり易い求心力となるものが必要だったのであり、それはつまり、より多くの国民のコンセンサスを得られる求心力といえば、長い年月の伝統に裏打ちされたものでなければならないわけです。またそのような伝統的価値観に繋がった存在でなければ、国民意識の核となる愛郷心、つまり素朴なパトリオティズムに訴えることは出来なかったのです。そしてこの時期においてそれは天皇以上には最適の存在が見当たらなかったのが実情でした。
つまり、対外的危機感が国民意識形成のために伝統的価値観に裏打ちされた存在を必要としたというのが、この1840年代に尊皇攘夷思想が急速に受け入れられ、同時進行して国民意識が形成されていく事態についての最も的確な説明となるでしょう。

佐久間象山の言う「東洋の道徳」が尊皇攘夷思想であり、日本の万世一系の国体観であるとするならば、それに基づいた国民意識とは、言い換えると「皇国意識」であるといえます。近代日本の国民意識は、もともとは欧米などのような民主主義をベースにしたものではなく、皇国意識をベースにしたものであり、皇国の国体を守ることが国民の役割であり、国民は元来から「皇民」でもあり「草莽」でもあったのであり、国体護持が国民を一体化させる共通目標として近代日本の国民国家はスタートしたのです。
それが日本の国民意識の独特なところであり、「東洋の道徳と西洋の科学技術の兼備」たる所以であるといえるでしょう。そして、幕末期を経て、この「西洋の科学技術」という部分が、その科学技術を使いこなすために西洋文明そのものの受容が必要であるという認識に至り「西洋の文明」そのものに入れ替わることとなり、近代日本社会は「東洋の道徳と西洋の文明の兼備」という様相となるのです。
それは言い換えると「皇国意識と近代合理主義の兼備」ということになり、それは兼備や融合でもあり、時にはそのバランスを崩したりして葛藤や分裂ともなったのです。そして国民意識もまた、ときに融合し、ときに分裂していくことになったのです。いや、この「皇国意識」を広く「伝統的価値観」と言い換えれば、その葛藤は現代の日本をも呪縛しているといえるでしょう。
しかし時には葛藤も引き起こすものの、近代日本における国民意識においてはこの伝統的価値観と近代合理主義は両方とも不可欠の両輪であり、伝統的価値観は素朴なパトリオティズムに繋がっているのであり、近代合理主義はその愛郷心を一つに纏め上げるステーティズム、つまり国家主義に繋がっているのです。このどちらかが欠けても、近代日本という国民国家は成立しないのです。どうも最近は前者のほうが欠けた状態で後者のみが強調される傾向が強いようで、これも伝統的価値観の衰退の弊害であろうと思われます。
またあるいは、こういった「皇国意識と近代合理主義の兼備」という組み合わせそのものが大きな意味では、皇国意識が天皇統治に繋がり、近代合理主義が民衆政体に繋がり、これらが組み合わされることによって天皇大権と民衆政体が同居するという近代日本の政治体制に行き着くのであり、これは天皇が民衆の代表であるという「君民共治」という日本の古来からの独特の伝統に見合ったものであり、この幕末期の「皇国意識と近代合理主義の兼備」という発想こそがこうした日本独自の伝統を近代において新たな形に甦らせる契機になったとも解釈できるのです。

まぁとにかくそれは後のことであり、この1840年代には対外的危機感の高まる中で国民意識形成のために万世一系の皇室の伝統的権威が求められていたのであり、国防意識の強い武士層に急速に皇国意識が浸透していったのでした。
そうした動向を背景に、当の朝廷でもそれに呼応して権威回復の動きが活発になりました。朝廷では光格天皇の時代から古来の伝統的な朝廷儀式の復興や天皇稜の調査などを精力的に行い、幕府から自律的な朝廷の伝統的権威の復興を行ってきましたが、その光格天皇が崩御されたのが1840年のことで、その跡を継いだ仁孝天皇もその路線を受け継ぎ、1846年には孝明天皇が即位されました。
この1846年は外国船の日本来航ラッシュの年であり、イギリス、フランス、デンマークの船が琉球や浦賀や長崎に来航しており、そして浦賀にアメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルが来航して通商要求した年でもありました。
このビッドルの要求をこの時も幕府は拒絶したのですが、ちなみに、これによってアメリカ側はもう穏便な交渉では日本を開国させることは出来ないと悟り、この次には強硬姿勢で臨もうと心に期して、準備万端整えて1853年にペリー艦隊を派遣することになるのです。

そして、この1846年に突然、即位したばかりの孝明天皇が幕府に対して海防強化の勅書を下したのです。その内容は、「近年異国船が来航していると聞くが幕府は海防を強化して適切に処理して朝廷を安心させよ」というような感じで、別段大した内容ではないのですが、そもそも幕府は異国船来航情報は朝廷には一切報告していなかったはずなのに、朝廷は全て知っていたわけです。
これはどうしてなのかというと、京都の公家と縁戚関係にある雄藩で対外情報のルートを持っていた藩、具体的には水戸、薩摩、肥前などから情報を得ていたのです。
そして、朝廷は勅書と同時に、今後は最新の対外状況を朝廷に報告するように幕府に要求したのです。その根拠として、1807年に蝦夷地で起きたフヴォストフ事件を幕府が朝廷に報告した前例を挙げ、その前例に倣い、今後も報告してほしいと要求したのでした。
まぁどうせ報告しなくても大名家から伝わってしまうのですから、幕府としても朝廷の要求を呑んで、まずはその年1846年の異国船来航状況について朝廷に報告書を提出し、その後も対外情報は朝廷に逐一報告するようになったのです。
その後も異国船は頻繁に日本各地に来航しますが、特に通商要求などはなく、しかし幕府は朝廷にそれらを逐一報告し、朝廷からも1850年に再び海防強化の念を押す勅書が出され、そうこうしているうちに1853年のペリー来航に至るのです。

朝廷としては、対外的危機感が朝廷の権威を高める作用を持っていることを意識して、対外問題については朝廷の意向が反映される形を作ったことになります。つまり、この孝明天皇の代になって、伝統的権威の復活だけでなく、実質的な権力の回復も図るようになったのです。実際、このように対外問題についての朝廷の発言権を容認してしまったためにペリー来航以降の幕末政局は紛糾して幕府は苦しい立場に陥ることになるのです。
ただ、この孝明天皇の場合、そこまで深く考えてのことではなく、本当に異国船のことや海防のことが心配だったのであろうと思われます。何故なら、孝明天皇は外国人恐怖症といってもいいくらい極端な排外的攘夷思想の持ち主で、自分の治世中に外国人との通商を受け入れるようなことがあっては皇祖に申し訳が立たないと真剣に憂えていたのでした。
これは水戸学的な外国人を殊更に蔑視したような尊皇攘夷思想を天皇に周囲の公家が吹き込んだのが原因であったのですが、天皇がこういう状態ですから、尊皇思想に篤い人々はみんな天皇に同調して極端な排外主義者にならねばいけないのであって、お陰で極端な排外的攘夷思想が孝明天皇の治世下の時代、つまり幕末期においてははびこるようになってしまったのです。これが幕末の政局を混乱させる原因となったのです。
ならば尊皇思想を止めればいいと思われるかもしれませんが、尊皇思想は国民意識形成のためには欠かせないのであり、国民意識は国防と国家統一の要でしたから、結局、いくら排外的思想の原因になっても尊皇思想を捨てるわけにはいかなかったわけです。

しかしこれは孝明天皇の尊皇攘夷思想への理解が少し感情的で極端なのであって、確かにグノーシス的な復古神道をベースにした尊皇攘夷思想には過激な側面はありますが、それを政治学的に消化した佐久間象山らの構想する国民国家論においては、本来は尊皇攘夷思想と開明政策は何ら矛盾なく同居することが可能なのです。
皇国意識とはつまり「万世一系の皇室を戴く日本の国体」を外国から守るための一種の国民意識なのであって、皇国意識の本来の目的は国防のためのものなのです。そして国防のためには西洋の科学技術「夷の術」が必要なのですから、開国は究極の攘夷に通じるのであり、皇国意識と西洋の科学技術とは矛盾せず同居できるものなのです。
だからこそ、1845年に象山に弟子入りして西洋の科学技術や西洋文明を学び、後には海外渡航まで企図する吉田松陰が、1851年に水戸藩の会沢正志斎を訪ね薫陶を受け、皇国思想に目覚め、それを受けてむしろ会沢よりもよりラディカルな一君万民論を唱えるようにもなるのです。
それは天皇こそが日本の国体を世界でも独特のものにしている原理なのであって、国家は天皇が支配するものであり、天皇のもとに万民は平等であるという思想でした。つまり幕府や藩の権威を否定する過激思想であり、このような思想が生まれたことによって、各藩の下級武士たちは藩を超えて直接に天皇に帰属意識を持つことが出来るようになり、倒幕や幕藩体制の解体が可能になったのです。
幕藩国家文明300年の最末期において、とうとうこういう思想が出現することとなったのです。幕藩国家文明の終幕は、外からはペリーによって、内からは松陰によって引かれることになったといえるでしょう。
そして、松陰がここまでラディカルに皇国思想を極めることが出来たのも、象山の影響によって会沢やその他の人士よりもより切実に対外的危機感を強く持っていたが故であろうと推測されます。そして、そうであるからこそ、国体をなんとしても守るために西洋文明を学ぶことが必要であるとして国禁を犯してまでも松陰は海外渡航を企てるのです。
このように、皇国思想と西洋文明受容とは本質的には矛盾しないからこそ、明治維新は結局、「天皇の主導による文明開化」という形で成立したのであるし、その際の五箇条の御誓文の一節に「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」という一文が入ることになったのです。
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