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日本史についての雑文その134 文明の変質期
15、350年?375年 C文明の変質期前期(+)/D文明の胎動期前期(+)

この時代においては前の時代の文明再生計画をそのまま文明成長計画に移し変えて実行していき、修正期のように量的な急成長は遂げられませんが、前の時代からの努力が実を結び、安定と質的な成長、つまり成熟は達成されてC文明はこの時代の終わり頃には完成することになると言えます。

この時代においてC文明にとってこうした良好な結果を得ることが出来る理由は、前の時代に引き続き、まだD文明が育ちきっておらず自律的発展をするまでに至っていないため、C文明再生の営みとD文明創出の営みが渾然一体となっており、しかもこの時代においてはD文明が勢力を広げてきており、そのD文明の力をC文明が統制できているため、C文明とD文明の相乗効果を全てC文明の成熟に活用することが出来たからでした。
しかし、こうした成熟は新規D文明の力に拠るところが多かったので、それによって得られる社会の成熟とは、つまり社会の変質にも繋がってくるのです。つまりこの時代は安定と成熟の水面下で社会構造の変化が進行しているわけで、次の時代に入ると、こうした変化に対応できるD文明と、対応できなくなってくるC文明との差が生じてくることになるのです。
この時代におけるこうした変質が水面下での進行にとどまっているのは、この時代におけるD文明の広がりが水面下のものにとどまっていたからです。次の時代になると、こうした社会の変質に対応してD文明の発展が表面化し、D文明がC文明とは異質なものであるということが認識されるようになり、D文明がC文明とは別に自律的に動くようになり、それに合わせて社会の変質も表面化することになるのです。
そもそも、前の時代から引き継いだ、この時代における文明成長計画というものは2つの相矛盾した計画を同時進行させるという至難の試みであったのです。すなわち、「C文明の再生計画」と「D文明の創出計画」という2つの計画は、それら両文明が互いに同等の実力を有していた場合は互いに並び立つことの無いものであり、本来的には相克関係にあるものなのです。
そして、この時代においてはD文明を統制下に置いてD文明の成果をも有効利用している故に深く意識はされないのですが、C文明再生の試みというものは本来的にはあくまでもD文明が育ってくるまでの時間稼ぎのための延命措置に過ぎないのであって、もしD文明がC文明から独立していけば、進取的要素を失ったC文明の再生のほうも遠からず限界が見えてくるはずなのです。
つまり、2つの計画の同時進行などといっても、あくまでも本命は「D文明の創出計画」のほうであり、「C文明の再生計画」はそのための時間稼ぎがその本質であるのです。
ところが前の時代からこの時代にかけて、まだD文明が未成熟であったために、C文明がD文明を上手く統制できてしまい、それによってC文明が恩恵を蒙ることが出来たのです。これはあくまで一時的な状態であり、D文明が力をつけてきて自律的に動くようになれば本質的には統制は不可能になるのです。
しかし前の時代からこの時代にかけての成功体験によってC文明側の為政者は勘違いをしてしまい、このまま引き続きC文明によってD文明を統制可能だと思ってしまうようになるのです。
そういうこともあり、この時代に人格形成期を送った世代は、この時代の安定と成熟に満足し、次の時代においても同様の文明成長計画でやっていけば更なる成長を見込めるものだと思うようになるのです。この予想はC文明もD文明もひっくるめた文明全体の予想としてはそれほど外れてはいないのですが、C文明維持を目的とした立場でそうした見通しを持つ人は見通しを誤ることとなるのです。


16、375年?400年 C文明の変質期後期(?)/D文明の胎動期後期(+)

この時代においても前の時代から引き続き文明成長計画が実行されていきますが、この時代になると、文明の成熟によって文明が社会のあらゆる部分に浸透していき、その分、外的刺激を受けるリスクが高まります。また、文明の成熟によってもたらされる社会変化への対応を文明自身が迫られることになります。
そうなると、外的刺激や社会変化に対する対応力に優れたD文明と、対応力に欠けたC文明との間に差異が生じて、今までは渾然一体となっていた両文明が離れるようになり、それぞれが自律的に活動するようになります。これはD文明が前の時代において社会変化が水面下で進むにつれて徐々に力をつけてきたことによるものでした。それがこの時代に入っての外的刺激や社会変化の増大によって一線を超えたのです。
このようにしてD文明がC文明から自律的に動くようになることによって、外的刺激や社会変化によって刺激を受けてD文明はどんどん発展していくようになり、それによって更に外的刺激や社会変化を誘発していくという相乗効果を発揮するようになっていくのです。
こうした社会との変化の連動関係をD文明が独占するようになり、C文明はこのように表面化してくる時代の変化から次第に取り残されていくようになります。
そしてこの時代の終盤にはD文明が社会への影響力を行使するようになり、C文明は社会を動かす主導権をD文明に奪われはじめます。これはそもそも改革期にC文明再生計画が立てられた時から約束されていた結末なのであり、C文明はD文明が成長してくるまでの時間稼ぎを見事にやり通したということなのです。
C文明自体は修正期の急成長に対応できずに矛盾を内部に抱え込んだ時点で、それ以上の発展は望めない状態だったのであり、その後は文明原理のリニューアルや原点回帰などの工夫でなんとか延命してきたのが実情で、特に変質期に入ってからの社会変化に対応できていたのは実際にはD文明の発展による効果をC文明維持のために使っていたからであり、そのD文明がC文明から離れて自律的に動くようになった状態においては、もはやC文明には時代の変化に対応する力は無く、C文明はその実質的役割を終えようとしているのだといっていいのです。
逆にD文明のほうは、今までむしろ足枷となっていたC文明から離れたことによって身軽になり、外的刺激や社会変化との相乗効果によって伸び伸びと成長を加速させ、これによってとうとうこの時代の後半にはC文明システムの限界値を超えて、社会は再び更なる成長に踏み出すことになるのです。
しかしC文明側の為政者は、このような現実の流れがあるにもかかわらず、未だにC文明によってD文明を統制可能であると考えて、この時代の終盤になって反動政治を行います。しかし進取の要素を欠いた改革は単なる復古にしかならず、しかも社会変化が相当に進行したこの段階では大して時計の針を戻すことも出来ず、この試みは失敗します。
それによって、むしろC文明の足腰を弱める効果を発揮してしまい、D文明はこれをきっかけに完全にC文明から自立して全く別個に動くようになり、これ以降はD文明によって時代が牽引されて大きく成長していくようになります。そしてその新しい成長と変化に対してC文明の制度はついていけなくなっていくのです。
こうした流れが明白になった時点でこの時代は終わりますので、この時代に人格形成期を送った世代は、C文明よりもD文明のほうに惹きつけられるようになり、次の時代においてはD文明の成長や発展に参加していこうとして、C文明はあまり省みられなくなっていくのです。
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