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日本史についての雑文その143 文明の誕生
このヴュルム氷期終了後の1万4千年前から始まる時代を日本では縄文時代というわけですが、この時代は日本列島が急速に湿潤な気候になり森林が広がり狩猟採集資源が豊富になりました。同時に気候と海流の変化で漁労資源も豊富になり、従来から居住していた新モンゴロイドの草原狩猟民族は森林での狩猟や採集を行うようになり、新来の旧モンゴロイド海洋民族は沿岸地域で漁労を行うようになりました。
ところが日本列島は海岸線と山岳部が非常に近く、この狩猟採集民と漁労民は非常に頻繁に接触するようになり、次第に混血して同一化して、狩猟も採集も漁労も行う新しい民族集団を形成していくようになったのです。

何故ここで殺戮や征服のようなことが起きなかったのかというと、まず基本的に日本列島の食資源が非常に豊富であったので、僅かな食資源を奪い合って殺し合ったりする必然性が無かったからでした。またそもそも狩猟採集民と漁労民とでは利害がぶつかり合うこともなく、同じ獲物を奪い合うこともありませんでした。むしろ互いの技術に興味を持ち、学び合おうという気持ちのほうが強くなるもので、相手を殺戮してしまっては学ぶことは出来ません。
それに、漁労民のほうは船で波状的に移動してきただけであったので大集団ではありませんでしたし、狩猟採集民のほうも山岳部では大集団で固まって住むのではなく分散していましたから、こちらも大集団ではありませんでした。そうした小集団同士が出会った場合には、殺戮し合うよりも協力し合ったほうがお互いに得るところが多いのです。
漁労民はもともと海洋民族ですから船を操作するのですが、船を操るのは共同作業を要し、漁労も共同作業によって効率の上がるものでした。同様に狩猟も採集も共同作業で効率の上がるものでした。そして日本列島の無尽蔵の食資源は、この時代の技術力では共同作業でいくら効率を上げてもまだまだ尽きるようなことはありませんでした。つまり共同作業で効率を上げれば上げるほど豊かになり、無駄な争いは起こす必要もなく、起こさないほうが豊かになれるのでした。互いがこうした考え方を持っているわけですから、狩猟採集民と漁労民が出会っても殺戮よりもまず協力関係を模索するようになるわけです。

そもそも、まず殺戮が検討されるというのは、少数の人間が家畜などを使役して行うことが可能で、さして共同作業が必要でない牧畜や遊牧を行う社会の発想なのです。牧畜や遊牧の場合は、敵を殺戮して家畜や牧草地を奪ってしまったほうが豊かになれるのです。
元来、牧畜にしても農耕にしても、農業の一形態なのですが、農業というものはヴュルム氷期終結後の気候大変動によってユーラシア大陸において動物が激減して狩猟を生業としていては生きていけなくなったために1万年前ぐらいに苦肉の策で始められたものです。
このうち湿潤であったユーラシア南部では主に旧モンゴロイドやコーカソイドによって農耕が行われるようになり、乾燥化したユーラシア北部では主に新モンゴロイドやコーカソイドによって牧畜が行われるようになったのです。特に乾燥化したユーラシア北部は牧畜以外に生業の選択肢が無く、しかも平原なので大集団を形成することが多く、そのくせ、あまり共同作業や大人数を必要としなかったものですから、征服したり強奪したりすることが多く、あまり別々の集団同士で協力関係になることは無く、仮にあったとしても、それは共同して他の大集団と戦う時なのでした。
また、牧畜民は狩猟民よりも日常的に動物に接する頻度が高く、家畜を日常的に殺し解体し去勢したりして、動物を殺したり傷つけたりすることに慣れているので、刃物や武器を使って生き物を殺めることに抵抗感が少なく、人間の殺戮に至る閾値が農耕民や狩猟民などよりも低いのです。
そして、牧畜が大規模化するようになると牧草の消費量が増え、新たな牧草を求めて定期的に居住地を移動していく「遊牧」という生活スタイルが6千年前ぐらいに西アジアにおいて発祥し牧畜民の間で広がるようになると、ますます征服や殺戮の起こる頻度は高くなっていきました。
ただ、牧畜民や遊牧民が特別に残虐な性向を持っていたというわけではなく、残虐行為に対する抵抗感が少なかったというだけで、戦争や征服という行為そのものを特別に好んだというわけではなく、人命を特別に軽んじたというわけでもありません。彼らは彼らなりの価値観で人間愛に溢れていたのです。
むしろ戦争や征服を誘発したのは都市文明の誕生であったのであり、これに関しては遊牧民も農耕民も双方に責任がある問題なのでしょう。

6千年前に西アジアで生まれた遊牧という生活スタイルは、定住性を持たないために生産品が非常に偏る傾向にあり、肉製品や乳製品以外の生活必需品を自給自足できないため、農耕民との交易という行為を絶対的に必要とするのであり、農耕民と遊牧民の居住区の間に交易のための場として西アジアにおいて初めて「都市」というものが作られるようになったのです。これが都市文明の始まりです。
この都市が発展して都市国家になり、様々な遊牧民や農耕民が交易のために集まるようになりました。すると必然的に多くのトラブルが発生するようになり、それらを裁定するための存在が必要になり、その裁定人は裁定に強制力を持たせるために軍事力の裏付けを必要とし、こうして強大な軍事力を有した王という存在が生まれるようになりました。これが王朝の誕生で、だいたい今から5千年前ぐらいのことです。
遊牧民は定住性を持たずまとまりも無かったので、王はだいたい農耕民の代表であったわけですが、その軍事力は6千年前に家畜化された馬と、5千5百年前に発明された車を合体させて、4千年前に発明されたスポークによって車輪の疾走性を高めて兵器として実用化された馬車によって強化されていきました。
このように、馬車という強大な軍事力を手にしたのは農耕民のほうでした。遊牧民は定住していないので工芸品などを作る能力が無く、馬車は作れなかったからです。そういうわけで農耕民が軍事力を持った王を押し立てて、都市国家の主導権を握るようになり、4千年前ぐらいから、この馬車という輸送力によって都市文明は大きな広がりを持つようになり西アジアでは大帝国が生まれるようになり、また馬車の輸送力によってこの都市文明のスタイルが西アジアから各地に伝播していき、例えばインダス文明や黄河文明などが生まれるようになったのです。
しかしそもそも、この都市文明の生まれる背景には遊牧や農耕という生活スタイルがあるのであり、これらをひっくるめた農業というものがもともと食資源不足の解決策として始まっているわけですから、都市国家周辺の土地というものは基本的に食糧不足状態なのです。それなのに都市文明が栄えることによって人口の集中が起こり、ますます食糧不足が慢性化します。そうなると各部族間の争いが激しくなるわけで、こうして都市国家周辺で戦争や征服が頻発するようになったのです。
特に都市国家の最大の軍事力を握っていたのは農耕民の王でしたから、初期の戦争や征服はむしろ農耕民が遊牧民を圧迫して、その牧草地を奪って農耕地を拡張するようなことが多かったようです。そうして遊牧民から農耕民に生業を変えるような部族も増えてきたようです。
特に西アジアをはじめとしたいわゆる4大文明などといわれるような古代都市文明の興った地域で行われていた農耕は畑作が主であり、畑作は稲作とは違い同一耕作地での連作が難しいので、生産力を上げていくためには耕作地を増やしていくしかないのです。だから農耕地拡張の欲求が強いのです。このあたりは稲作農業に慣れた日本人には分かりにくいところです。
そうやって農耕民が領土を拡張していき、馬車などの機動力も駆使して民族移動や征服を行うようになり、それに押された遊牧民が更に移動して別の遊牧民を押し出したり、農耕民と衝突したりして、4千年前ぐらいからユーラシア大陸で大規模な民族移動と民族紛争が生じるようになってきたのです。
そうして圧迫された遊牧民が、農耕民の馬車に対抗するために直接に馬に騎乗する能力を磨き上げ、3千年前に騎馬遊牧民が出現することになりました。これにより遊牧が非常に効率化するようになり、騎馬遊牧民は東ヨーロッパからモンゴル高原まで広まるようになりました。そして騎馬遊牧民は騎馬戦術を磨き上げ、農耕民の馬車に対抗する軍事力となって、農耕民の都市国家に対する脅威となっていったのです。
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