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日本史についての雑文その144 縄文時代
こうしてユーラシア大陸では異文化や異民族同士の戦争や征服、殺戮が広まっていったのですが、その背景には食糧不足や部族の大集団化、遊牧や都市国家の出現、馬の家畜化などの要素が存在するのです。ところが縄文時代の日本においてはこれらの条件はほとんど満たされておらず、それゆえに戦争や征服よりも、異文化や異民族同士の協力関係のほうが優先されるようになったのです。
すなわち、縄文時代の日本は森林や海や川の食糧資源が豊富であったので必ずしも農耕や牧畜は必要ではありませんでした。また、森林の食料資源を採集するために山間に小集団に分かれて居住することが多く、人間集団が大集団化することもありませんでした。

そして結局、遊牧や牧畜という生活スタイルは生まれることはなく、それゆえ都市国家も生まれることはありませんでした。交易自体は海洋民族によって海上路で行われていましたが、部族集団がどうしても小規模ですから大きな軍事力が生まれることもなく大規模戦闘が行われることはありませんでした。
農耕は遅くとも4千年前には導入されていたようですが、日本の豊かな自然資源の中では採集の補助的役割であったようで、生産手段の更なる選択肢の多様化を進めただけのことでした。また島国であるので大規模な外来農耕民の進出というような事態も無く、当時の農業技術力では山岳地への農地の進出も無理であったので農耕民と他の部族とのトラブルも起こりませんでした。
また、どうやら縄文時代の日本列島には馬も存在しなかったようなので、軍事力として馬を使うこともなく戦争が大規模化することはなかった上に、馬を農耕に使用することで生産性を上げることも出来なかったので、農耕民が発達して他の部族とトラブルを起こすことも抑制されたのでした。

このように、ユーラシア大陸の場合とは違い、縄文時代の日本においては異文化や異民族との間では敵対や征服よりも、共生や協力といった関係性を選択するほうが自然であったのです。それは日本人の民族性が原因であったというよりも、縄文時代の日本の地勢や風土によってごく自然にそうなったのだと解釈したほうがいいでしょう。
むしろ逆に、縄文時代の日本の自然条件が波状的に流入する異民族同士の共生協力関係を促進させ、そうした状態が何千年も継続し繰り返されていくことによって、そうやって混在混血して6千年前ぐらいに出来上がっていった日本民族という集団の民族性が規定されていったのではないかと推測されるのです。
つまり、異なった文化に出会った時に過剰に敵視したり警戒したりせずに、相手側の文化の長所を取り入れ短所は排して、自らの文化の足りない部分を補ってより良いものにしていこうという考え方です。これが外来文化への受容性の高さと換骨奪胎の能力の高さに通じるのであり、日本文明の根本的原理である「和」にも通じてくるのです。
こうした「より良いものを目指して新しいものを取り入れよう」という精神性は、縄文時代の日本列島の自然環境がその実現を可能にしたものではありますが、それにしても、もともとそうしたメンタリティーや向上心を持った人間でなければ実現できないものでした。それはやはり、2万年前に獲物を追ってはるばる日本列島へ南下してきた新モンゴロイドの狩猟民も、1万4千年前から波状的に日本列島に北上してきた旧モンゴロイドの海洋民も、アフリカで10万年前に生まれた現生人類が長い旅路を経て、その中でも最も遠くまで、より良い土地を求めて最後まで旅を続けて最終的に辿り着いた、最も向上心に溢れる人たちであったからでした。
日本列島から更に何処かに旅立っていったという集団がいない以上、日本列島は一種の最終到達地点であることは間違いなく、日本列島へやってきた人たちというのは、最終到達地点に辿り着くまでは納得しなかった好奇心と向上心に溢れる人たちということになります。
そういった人たちが2万年前から1万4千年前を経て6千年前までの間に日本列島で異文化同士の出会いを果たし、縄文時代の日本の自然環境によってその交流を容易に促進させ、何千年ものそうした経験の中で、異文化を受容して換骨奪胎して自らの文化を向上させていくテクニックを磨き上げていきつつ、混血を重ねて日本民族を形成してきたのです。
そういうわけですから6千年前の時点では、既に日本民族といえる集団は形成されており、彼らは森林で狩猟や採集を行い、近海や河川で漁労を行い、多彩な石器や土器などを駆使し、自然崇拝の宗教観を持ち、船で交易を行ったりしていたのです。
もちろん主に狩猟採集を行う民や、主に漁労を行う民など、役割分担や棲み分けはなされていましたが、それはもはや民族性の違いではなく単なる役割分担に過ぎず、似たような言語を話し、似たような習俗や信仰を保持する同一の民族集団を形成していたといっていい状態であったのです。
そして、列島内での異文化交流の経験の中で、この日本民族は外来文化の受容に応用可能なマニュアルを既に身につけていたのであり、このマニュアル自体が日本民族の民族性とは切っても切れない関係となっていたのです。

ここから日本民族による外来文化の受容の歴史が始まるのです。いやこの6千年前以前の時点の文明の受容も一種の外来文化の受容には違いなく、同じことを繰り返していくことになるのですが、この後の時代においては日本文化の核というものがある程度固まった状態で外来文化を受け入れていくという局面になり、外来文化と伝統的価値観との立場の違いがどんどん明確になっていくという意味で、例の24時代区分の外来文化受容マニュアルという完成形に向けての整備段階に入っていくということになります。
ただ、縄文時代に歴史記録が残っているわけではないので、具体的に何時どういう外来文化が受容されてきたのかは分かりません。ただ確かなことは、日本列島が海に囲まれている以上、外来文化の受容には船が欠かせないのであり、外来文化の受容に海洋民が主導的役割を果たしたことは間違いないことです。
この時代にも波状的に日本列島に移住してくる人はいたのですが、その流入ルートは、日本海を渡って山陰や能登や新潟へ来るルートと、対馬海峡を渡って北九州へ来るルート、東シナ海を渡って九州や四国や瀬戸内地方へ来るルート、シナ南部から台湾や沖縄を経由して南九州へ来るルート、南方地域から黒潮に乗って太平洋沿岸地域へ来るルート、太平洋諸島から小笠原諸島を経由して関東南岸へ来るルートなど、全て海の道です。
これらのルートで日本へやって来た様々な人達が外来文化も携えていたのだと推測されますが、彼ら自身が海洋民であった場合もあるでしょうが、だいたいは彼らの移動を海洋民が媒介したか、あるいは彼らから外地で外来文化を仕入れた海洋民が日本に文化を伝えて、もともとの外来文化の民そのものは日本に来なかった場合もあったことでしょう。
先述の農耕の導入に関しても、もともと1万年前ぐらいから華南の長江中流域に居住していた旧モンゴロイドの部族が畑作や稲作をやり始めて、それが長江下流域やシナ南部、インドシナにまで広まってきてから、東シナ海ルートや沖縄ルート、黒潮ルートなどで遅くとも4千年前には日本列島に伝わっていたのだと思われます。
これらの地域で農耕を行っていた旧モンゴロイドは日本に渡ってきていた海洋民族とルーツは同じで、特に海岸近くに居住していた人達は彼らもまた海洋民族でもあった可能性が高いので、自力で日本列島へ渡ってきたのかもしれません。
しかし、それにしても農耕は日本へ伝わっても牧畜は伝わらなかったわけで、それは牧畜を行っていたユーラシア内陸の新モンゴロイドが航海技術を持っていなかったのだから日本列島まで牧畜が到達しなかったのも当然といえば当然なのですが、ここでもやはり海という自然の要害が障壁となって日本文明の風土に合ったものは取り入れて、そうでないものは撥ね付けるという選択的透過性が早くも発揮されているのです。
あるいは実際は牧畜も伝わっていたのかもしれません。ただそれはやはり海というフィルターを通して伝わってくる過程で日本側に主導権を握られる形になり、つまり牧畜民族の大量移入という形をとることが出来ないために、日本民族の側で不要だと判断されれば拒絶されてしまうことになったのではないかとも思われます。農耕に関しても同様に、あくまで主導権は受け入れる日本側にあったのであり、農耕は有益と判断されたから受け入れられたのです。そういう意味でも、この頃には既に日本民族は海という障壁を有効活用して外来文化の選択的透過性を使いこなすようになっていたと言っていいでしょう。
こうしてまた何千年もの間、様々な外来文化が受容されて、既にこの頃には日本文明の核が確立していますから、必要なものだけ日本化されて受容されて日本文明の改良が為されていくようになったのです。
まぁ農耕に関しても、この4千年前の段階の受容に際しては、すぐに農耕が狩猟採集に取って代わるということにはならず、ほんの一部で行われた実験的なものに止まったようです。狩猟採集だけで生活の糧は足りたということもありますし、この時点では日本人の意識がまだ農耕社会への転換を求めてはいなかったのでしょう。
そういう意識という面では、古代においては文化や技術は宗教的なものと一体化していましたから、様々な外来文化を受容するということは、様々な外来の宗教的価値観を受け入れるということでもありました。そこで宗教的混乱を避けるために、従来の素朴な自然信仰から発展して、新たな外来の神をどんどん取り込んでいける包摂的な多神教体系が形成されるようになりました。これが神道の基礎となったのです。これによって、価値観体系である宗教すらも自由に受容可能な態勢が整備されていったのです。
この4千年前ぐらいの時点では、まだこうした価値観受容体系が形成途上で、まだ農耕の技術以外の、農耕文明の本来の核の部分は受け入れられていなかったのではないかと思います。だからこの時点ではまだ技術のみの農耕の受容であったのであり、技術としてのみであれば、縄文時代の日本人にとっては農耕はそれほど価値のあるものではなかったのでしょう。
とにかくこうして縄文時代の歴史を通して、日本には数え切れないほどの種類の多種多様な外来文化が流入し、それらを運んできた外来人たちは列島において確固たる同一性と存在感を示していた日本民族に同化されていき、日本文明の改良や向上のカンフル剤となっていったのでした。彼らもまた、この日本列島を最終到達地点として選んだのであり、最終到達地点にまで辿り着くまで満足することのなかった向上心溢れる者達だったのです。

こうして、縄文時代の終わり頃の紀元前400年頃には既に、外来文化をどうやって取捨選択し、どのぐらいの世代や時間をかけて受け入れて、どのくらいの世代や時間で伝統的価値観を改良し、どのくらいの世代や時間を費やして外来価値観を日本化して、どのくらいの世代や時間をかけて次の文明サイクルに引き継ぐのかという、例の600年文明サイクルの連鎖システムの原型のようなものは出来上がっていたのではないでしょうか。
そうした態勢が日本国内で既に整っているところへ紀元前400年頃に稲作文化がまた新たな外来文化として伝わったのであり、それは日本民族の既に確立された外来文化受容システムに則って受け入れられたのではないかと推測されます。
縄文時代1万4千年は、日本民族の形成期であると同時に、こうした外来文化受容システムとしての文明サイクルシステムの形成確立期間として、日本の歴史において大きな意味を持っていると思うのです。
これは、縄文時代の終わりになってこのような文明サイクルが突如出現して、その後に弥生時代以降の歴史時代が始まったというふうに解釈するのではなくて、縄文時代1万4千年という膨大な時間の中で徐々にこの文明サイクルは出来上がっていき、おそらく5千年前ぐらいから4千年前ぐらいにはこの文明サイクルは既に稼動を始めており、弥生時代以降の現在までの2千年余りの歴史時代はその後半部分であり、本質的には縄文時代の文明サイクルの営みが延長されてそのまま行われているに過ぎないというふうに解釈すべきものでしょう。
ただ、この文明サイクルに外来の抽象的な価値観の受容システムとしての高度な能力が備わるようになり、その完成を見たのは、今から2千5百年前ぐらい、つまり紀元前500年ぐらいのことではないかと思います。それによって本質的な稲作文明というものの受容が可能になり、弥生時代への移行が可能になったからです。
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