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日本史についての雑文その147 黄河文明
農耕や牧畜がユーラシア大陸で始まったのはおそらく約1万年前のことで、6千年前、つまり紀元前4000年ぐらいには牧畜から遊牧という生活スタイルが生まれ、それが西アジアに交易を行う場所としての都市国家を生み、都市文明を生む契機になったのです。そして都市文明が紀元前3000年ぐらいには王朝や王権を生み、その軍事力が戦争を生みました。
西アジアに居住していた人達というのは人種的にはコーカソイドで、それらのうち北部の乾燥地帯に住んでいた人達が遊牧民となり、南部に住んでいた人達が農耕民になりました。都市国家を作る契機となったのは遊牧民の自給自足困難な生活スタイルだったのですが、その遊牧民の需要に応えて都市国家を作ったのは農耕民でした。古代都市文明の担い手は農耕民だったのです。

よって、古代都市文明において王朝を作り軍事力を組織したのは農耕民のほうであり、この紀元前3000年?紀元前1000年頃は農耕民のほうが軍事的に優勢で、農耕民が遊牧民を圧迫していたのです。
特に紀元前2000年頃に都市文明が馬車を発明し、それを戦車として軍事転用するに及んで、農耕民は遊牧民に対して圧倒的に有利になり、農耕民の王朝は膨張して大帝国を築くようになり、またこの農耕民の都市文明は遠方に伝わるようになりました。こうしてインダス文明や黄河文明が生まれていったのです。
そして、農耕民の大帝国が作られるようになると、遊牧民もまた西アジアの中心部からどんどん圧迫されて押し出され、周辺へ移動していきました。こうして紀元前2000年ぐらいからユーラシア大陸で民族移動が生じるようになっていきました。

東アジア方面においても、黄河より北方の乾燥地帯に遊牧民が居住し、黄河より南の河川の流れる地帯には農耕民が居住していました。
この東アジアの場合は、北方の遊牧民は主に新モンゴロイドで構成され、南方の農耕民は主に旧モンゴロイドで構成されていました。そしてこの旧モンゴロイドの農耕民は元来はスンダランドに居住していた海洋民でもあったので操船に長けており、内陸の河川を船を使って移動する交易の民でもありました。
この旧モンゴロイドの農耕民の本拠地はシナ南部の長江中流域で、ここが長江文明の本拠地ということになるのですが、交易の場としての都市国家が最も必要とされるのは農耕民と遊牧民の接触する地域ですから、それはより北方の黄河中流域ということになります。
なぜ中流域なのかというと、黄河は上流域では激流で両岸は断崖絶壁であり、また下流域は黄土の沈殿により大平原が泥の海と化して、どちらも渡河が不可能だからです。しかし黄河を境にして北に遊牧民、南に農耕民が住んでいる以上、その接触によって交易を成り立たせるためには黄河の渡河は必須条件です。それが唯一可能なのが黄河中流域の洛陽付近なのであり、それゆえこの地点で黄河文明が生まれたのです。
最初は南方から水路に乗ってやってきた商人が黄河中流域の洛陽付近の渡河点で北岸に船をつけて、集まってきた遊牧民に南方で採れた農作物などを売りつけるようになりました。この南方商人は長江中流域方面からやって来たのであり、旧モンゴロイドの農耕民と同族ですが、農耕よりも水路を使った交易を主な生業にしている人達で、「夏人」と呼ばれていました。「夏人」は商人と同義語です。
この夏人の商人たちが定期的に黄河渡河点に来航するようになり、どんどん取引量が増えてくると行ったり来たりするのが非効率になり、現地に夏人の常駐駐在員を置くようになり、奥地から商品が集まってくるのを待つようになります。こうして黄河渡河点付近に交易ポイントとしての都市が発生しました。
続いて、その都市の駐在員の生活を支えるために都市の近くで食糧を生産するようになり、更に駐在員の数が増えてくると食糧の需要が高くなり都市周辺の現地の部落が都市の夏人商人と取引するようになり、その際に現地部落を代表して都市と交渉する酋長の権力が強くなっていき、ついには酋長は現地民を束ねて蛮人の小王国を作るようになります。
また一方、渡河点付近の複数の夏人都市の同盟の盟主的な存在で、各都市間の利害を調整したりトラブルを処理したりする役割が必要となり、これも「王」と呼ばれるようになり、王の支配する都市が「王都」と呼ばれるようになっていきました。

つまり夏人の都市国家の王は商人の頭であり、都市国家同盟内における流通を管理し、商品の流通に「税」をかけてそれを王自らのポケットマネーにして、その金を使って王は交渉事や警察権行使などを行うのです。
そして、この都市国家は堅固な城壁で外界の現地人の居住区とは区切られているのですが、この城内に入って取引に参加するために都市国家と友好関係を持った周辺の蛮人の小王国の部族はこの都市国家に「租」といって農産物の現物を納め、労働力を提供し、兵役に就くようになりました。
こうして都市国家を中心として、その周辺の幾つかの友好的現地人小王国との連合体として王国が形成されるようになったのです。もともとは都市国家に「税」を納める商人のような城壁内の住人が「夏人」であり、城壁外の蛮人を「夷」といったのですが、このように一定の領域を持った王国が形成されるようになっていくと、都市国家に「租」を納め労役や兵役を提供する周辺の民もまた王国の民として「夏人」ということになり、この王国に友好的でない周辺の民が野蛮人と見なされ「夷」と呼ばれるようになったのです。
この「夏人」はもともと城壁の中の民という意味でしたから、「中の夏人」という意味で「中夏」と言われ、これが「中華」になったのです。こうして「中華」と、それに対比する「夷」という概念が生まれたのです。この「中華」と「夷」によって構成される世界認識が「華夷秩序」というわけです。
そして中華の民となった都市国家周辺の現地人たちは城内の定期市で遠方から来た種々雑多の商人たちと取引することになるのですが、この定期市の参加者は言語がバラバラで通じないので、もともとの夏人の東南アジア系の言語をとりあえず市場内の共通言語として、更にその文字として漢字を作って筆談で話が通じるようにしました。
周辺の中華の民である現地人たちも自分たちの元来の土着言語だけでは不便なので、この城内の共通語である夏人の言語と土着語を混ぜ合わせた混合語を作り上げていきました。これがシナ語の方言になるのであり、都市国家群の近辺に住んでいた部族はこの混合語を使う機会が多かったので土着語は廃れてこの混合語が主に使われるようになり、都市国家群から離れた地域の部族の交易担当者である支配階級は土着語と混合語のバイリンガル状態になっていきました。

こうして見てみると「中華」や「夷」とは元来は地理的概念ではなく、また優劣の概念でもなく、単に内と外を区別する概念に過ぎないことが分かります。広大な「夷」地帯の中にポツンポツンと「中華」エリアが点在しているのが元々の姿であり、そうした点在する定期市の組合員が「中華」の民であり、非組合員が「夷」の民であるという区別に過ぎないもので、別に本来は「中華」が文明的に優れていて「夷」が文明的に遅れているなどということではなかったのです。そのような歪んだ思想が成立するのは10世紀に宋が建国されて以降のことです。
また、「中華」や「夏人」といっても、それは特定の民族を指すというわけではなく、都市国家を中心とした王国の支配下に服する者であれば人種や民族には拘らない概念であったといえます。王国に敵対する「夷」であっても、王国に忠誠を誓えば「中華」の仲間入りをするわけで、そうやって「中華」の民というのは構成されていったのであり、それが漢民族の原型となっていくのです。漢民族は元来、人種的概念でも文化的概念でもなく、政治経済的概念なのであり、漢民族という人種も民族すらも実際は存在しないのです。
ただ、黄河中流域の渡河点である洛陽近辺には都市国家が集中し、それぞれの都市国家の周辺の現地人たちも多くが「中華」に編入されていくと、この一帯は「中華」エリアばかりで埋まり、「夷」エリアが存在しなくなりました。こうして黄河中流域エリアは一種特別な巨大な一塊の中華ゾーンを形成するようになり、「中原」と呼ばれるようになりました。
こうして「中華」は「中原」という地域的概念にもなり、「中原」と呼ばれる黄河中流域の中華ゾーンを中心に据えた世界観が作られるようになりました。すなわち、中華の民が住む「中原」の東西南北に「夷」の住むエリアが広がっているという世界観です。
これらの「夷」のうち、東に住む夷を「東夷」、西に住む夷を「西戎」、南に住む夷を「南蛮」、北に住む夷を「北狄」と分類して呼称しました。これらは元来は民族的概念ではなく地理的概念でした。例えば、そもそも中華の都市国家の中核を担っていた夏人自体がもともとは「南蛮」地帯に住んでいた夷であり、「中原」で王国を営む夏人と全く同族の夏人が「南蛮」地帯にも住んでおり「夷」に分類されていたのです。
つまり、同じ民族でも中原に住んで都市国家の支配に服していれば中華の民となり、夷の地に住んで都市国家の支配を受けていなければ夷として扱われるというわけです。しかしこの地理的概念が定着していくにつれて、それらの地域に住んでいる民族そのものが夷や蛮族として扱われるようになっていきました。ただ同時に、中原自体が次第に膨張していくようになり、中原に呑み込まれた夷地帯に居住する民族は中華の民に編入されていくようにもなり、そういう意味でも中華と夷の区別は曖昧な部分もありました。
また、元来の意味での「中華」と「夷」の区別の概念も消滅したわけではなく、特に辺境の夷地帯においてはそうした概念のほうが主流であり、広大な夷エリアの真ん中にポツンと「中華」としての都市国家のエリアが存在するという状態が存在していたのでした。
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