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日本史についての雑文その148 氏族社会
このように黄河中流域の洛陽近辺に「中原」と呼ばれるエリアが形成されるようになり、そこでは都市国家を中心とした王国が多数存在し、その王国の民は「中華」と呼ばれたわけですが、それは多民族混淆状態であったのです。「中華民族」や「漢民族」などという単一民族が存在していたわけではなく、「中華」を構成していた民族というのが実は中原の周囲の「夷」を構成していた民族の混淆したものであったのです。
つまり、「夷」地帯においてはそれぞれの蛮族が民族ごとに分かれて居住していたのであり、その同じ民族が東西南北から集まって混淆して居住していたエリアが「中原」地帯であるという見方も出来るのです。

ではその「中原」の周囲に居住していた「夷」がどういった民族集団であったのかというと、まず「東夷」というのは黄河下流域の湿地帯に住む民族で、旧モンゴロイド系の海洋民でした。そして「南蛮」というのは長江の流域やシナ南部に住む民族で、旧モンゴロイド系の農耕民や海洋民や河川の交易民でした。
この「東夷」や「南蛮」は基本的には同じ系統の民族集団といっていいでしょう。だいたいは太陽や鳥や大蛇をトーテムとして船を航行する術に長け、稲作を行う旧モンゴロイドで、起源は南方のスンダランドであり、つまり縄文時代の最初に日本列島に渡ってきた旧モンゴロイドと根っこが同じというわけです。
また、「北狄」は黄河北岸の内モンゴルやゴビ砂漠方面に住む民族で、新モンゴロイド系の遊牧民や狩猟民でツングース族、モンゴル族、トルコ族などに分かれていました。この「北狄」の遥か祖先にあたる新モンゴロイド、特にその中でもツングース系に連なる系譜の人達は2万年前?1万4千年前にかけて日本列島に渡ってきた新モンゴロイドに近しい血筋であったといえます。
そして「西戎」はオルドスや黄河上流域方面に住む民族で、新モンゴロイド系のチベット族やコーカソイド系のイラン族で、遊牧民でした。イラン族、つまりアーリア人はもともと西アジアに居住していたコーカソイドの遊牧民でしたが、西アジアの都市文明が戦車や馬車の発明によって巨大帝国を作るようになった紀元前2000年頃に押し出されるように東方へ移動を開始し、中央アジアを経由してイラン方面とインド方面へ移住していきましたが、この時、南下せずに更に東進し黄河上流域まで達して、中には新モンゴロイドの遊牧民と混血した集団もいたようです。
これらの東西南北の夷たちのうちの一部には、中原に移住して都市国家の周りで農耕に従事して中華の民となる集団もいました。例えばおそらく西戎の一派であったイラン系の集団によって西アジアの戦車や馬車などは伝えられたのでしょう。

こうした夷の地域に四囲を囲まれて、夷の種族が混交した人達によって黄河中流域に中原が形成されるようになりました。ここでは、もともと都市国家の周囲の現地民の酋長が作った小王国が「邑」となり、それぞれの邑を支配する現地部族はそれぞれの「氏」を名乗り「氏族」を構成しました。
もともと同一の起源を持つ大きな血縁集団である部族は共通の「姓」を名乗っていたのですが、同じ部族でも居住地ごとに違う「氏」を名乗るようになり、氏族に分かれるようになっていったのです。1つの邑につき1つの氏族が治めていたということになり、それぞれの邑ではそこを治める氏族の祖先の祭祀が行われていたようで、祖先崇拝が重んじられたようです。
この邑が幾つも集まって都市国家に属して、都市国家の王の支配する王国を形成していました。この邑の中には、中華の民となった夷の氏族の支配する邑もあったでありましょうし、また、中華化した夷の氏族の支配する都市国家や王国も存在したでしょう。
これらの邑を支配する氏族が都市国家の王の支配を受け、都市国家に租を納めて労役や兵役を提供していたのです。つまり都市国家やそれを中核とした王国を支えていた基本単位は氏族だったのです。初期の中原の社会はこうした氏族社会でした。
これらの氏族の中で特に力のある氏族や権威のある氏族が都市国家の王となり、都市と邑を束ねる王国の世襲の王族となっていったのです。この都市国家の王国ではその王族氏族の始祖が神として祀られていました。大地母神と結婚した氏族の祖神の子孫が現在の王族であるということです。神の子孫である故に王には権威があるのでありその支配には正統性があるのであり、それ故に都市国家や氏族社会では祖先祭祀が絶対であったのです。このそれぞれの氏族の始祖神がそれぞれ「帝」と呼ばれて崇拝されていたのです。この「帝」は神とはいっても絶対神的なものではなく、氏族の守護神的な存在でした。
こうした王国が黄河中流域の中原ゾーンに数百集まり、これらの王国の連合体の盟主として特に有力な王国の王が選ばれて「天子」として推戴されるようになり、各国の王は「諸侯」として天子を盟主と仰ぐようになりました。これが王朝の始まりです。
ここで注意すべきことは、この初期の王朝体制は後のシナの専制君主体制とは全く異質な体制であるということです。民衆を直接支配していたのは氏族であり、諸侯の支配権は各氏族には及んでいましたが民衆には及ばず、また天子の支配権も諸侯には及んでいましたが氏族にも民衆にも及んでいませんでした。
つまり天子たる皇帝の支配権が民衆に直接及ぶという皇帝専制支配体制に比べて、この時代の天子の権力基盤は非常に脆弱なもので、単に諸侯の連合体によって盟主として担がれているという状態であったといえます。その諸侯もまた、氏族によって担がれているという状態であったといえます。

こうして紀元前2000年頃に最初の中原の王朝が成立しました。これは南蛮出身の夏人のとある氏族の王朝で「夏王朝」といいます。王朝を世襲した氏族の名称は伝わっていませんが、世襲王朝であったのは確かなようです。
この夏王朝による中原の王国連合の統率は600年間ほど続き、紀元前1400年頃に今度は北狄出身で中原に移住して諸侯となっていた殷人のとある氏族が他の諸侯によって新たに天子に推戴されて「殷王朝」を創始しました。「殷」という名称は後に殷を滅ぼした周によって命名されたもので、これは侮蔑的表現であるようで、本来は「殷」ではなく「商」と言ったようです。つまり殷人とは「商人」というのが本当で、夏人と同じく商人の意味そのものの部族名だったようです。
殷人、つまり商人は夏人(商人)と部族名の意味もほぼ同じであったように、殷王朝は夏王朝の制度をほぼそのまま受け継いだようで、要するに黄河中流域の中原の商業王国の連合の盟主である天子の地位が南蛮の夏人のとある氏族から北狄の殷人のとある氏族へと首がすげ替わっただけのことでした。この殷王朝を世襲した氏族名は子氏であるとも言われていますが明確なことは分かりません。

この北狄出身の殷人はおそらく元来は遊牧民であったものが中原に移住してきて畑作農耕にも従事するようになっていった部族です。何故なら、この殷人は王朝を開く前も開いた後も、何度もその居住区を変えているからです。つまり遷都を頻繁に行っているわけですが、これは牧草地を求めて移動を繰り返す遊牧民の生活スタイルが残っていたからでしょう。
また、殷王朝においては宦官、つまり去勢した男の奴隷官人階級が出現することになり、これはこの後のシナの王朝には必須のものとなっていきましたが、これは遊牧民族諸国において見られた制度です。そしてまた殷王朝においては各種の祭祀において神、つまり先祖霊を祀る際に、牛や豚や羊などの動物の犠牲を捧げる風習がありましたが、これも遊牧民の風習です。そして、時代が下ると殷王朝では戦争で捕らえた敵国の捕虜をも犠牲の供物にしていたようです。
このように去勢されたり儀式の生贄にされたりする哀れな被害者はだいたいの場合は中原の西方に住む羗族というチベット系の遊牧民の部族だったわけで、つまり殷王朝は中原の諸侯を糾合して西戎の羗族と戦争をしていたわけです。
これは言い換えると、羗族をはじめとした遊牧民が西方から中原方面へずいぶん進出してくるようになり、中原の諸侯や氏族たちとトラブルを起こすようになってきていたということでした。そもそも、殷人自体が西方からやってきた遊牧民か、あるいは西方からやって来た遊牧民に押されて中原に入り込んできた遊牧民であったのです。
これは紀元前2000年ぐらいから本格化した、西アジアから東方への遊牧民の移動の影響がとうとう東アジアにも強く及んできたということで、中原はチベット系やイラン系の西戎や、トルコ系やモンゴル系、ツングース系の北狄の遊牧民らと頻繁に接触するようになり、中原の農耕民の諸侯たちと土地問題などで揉め事を起こし、戦争が起きるようになってきたのです。
また、ちょうど殷王朝が成立した紀元前1400年頃というのは太陽黒点周期のエジプト極小期といわれる時期で、地球全体が特に寒冷化した時期でしたので、それで北方で遊牧生活を送っていた北狄の殷人が牧草が不足して中原へ移住して農耕をするようになっていたのであるし、その他の羗族などの遊牧民も牧草を求めて活発に移動して中原の農耕民とトラブルを起こすようになっていたのでしょう。
ただ戦争といってもこの殷の時代においては、それは中原諸侯と蛮族との土地トラブル程度のもので、諸侯同士が戦うようなことはあまり無かったと思われます。青銅器は使われていましたが全て祭祀用で、軍事転用はされておらず、鉄器はまだ出現していませんでした。戦いの前には占いで吉凶を占い、子孫が滅びることによって先祖祭祀を絶やすことで祖霊が祟ると信じられ、血統を絶やすような激しい戦いを極度に嫌うなど、まだまだ社会は原始的レベルにとどまっていたので、戦争も大規模化はしなかったようです。
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