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日本史についての雑文その149 周王朝と日本列島
この殷の時代にモンゴル高原から南下して中原の北側に氏族連合体を形成していた北狄の遊牧民の部族であった周族は殷王朝の攻撃を受けて西方に逃れ、中原の西方にあった岐山の地で姫氏を盟主とした都市国家連合を形成しました。そして周族は羗族と連合して中原に侵攻し、殷王朝を倒して中原を支配下に置き、紀元前1027年に中原の諸侯から姫氏が天子に推戴され「周王朝」が創始されたのです。
周王朝も殷王朝と同じく、夏王朝以来の中原の氏族社会をそのまま受け継ぎ、中原の諸侯の盟主として交易の保護に努めました。ただ、殷と違っていた点は、まず王都を黄河中流域からやや西にズレた鎬京に定めた点でした。これは周王室の力の源泉が西方の蛮族の後ろ盾によるものであったことを示していました。

そして周の時代においてもまだ青銅器は祭祀専用で鉄器も出現していませんでしたが、戦争の前に占いをするようなことは頻繁ではなくなり、先祖祭祀への強いこだわりも薄くなり、その分、戦争への歯止めは徐々に失われていったのでした。
そうはいってもこの周代においてはまだ諸侯同士の戦争は無く、戦争に繋がるようなトラブルはやはり中原の諸侯や氏族と周囲の蛮族との間の土地争いに起因するものが主でした。周王朝は殷王朝に比べて対外的に積極的であり、中華の民が周辺の蛮族のエリアへ植民していくことを奨励しました。つまり中原を拡大していく方針を示したのです。
ただ、耕作地の拡大といってもこの時代はまだ農業生産力が低く、また蛮族の土地を中華に編入するとしてもそこは氏族単位で管理しなければいけないわけで、現地の蛮族の氏族と折り合いをつけて中華へ編入していくやり方が主となり、この周代の中原拡大方針はまだまだ非常に穏健でゆっくりしたもので、周辺蛮族とのトラブルもそれほど多くなかったようです。

その中でも周王朝が特に進出に熱心だったのは中原の東側の黄河下流域、山東半島、淮河、遼河方面、つまり東夷の居住するエリアでした。殷を討伐した際の功臣であった羗族の首魁であった太公望を山東半島に斉王として封じたり、殷の遺臣であった箕子を朝鮮王に封じたりしたのも、周王室の東方開発熱の現れだったといえるでしょう。
この場合、進出とか開発といっても、それは現代的なものとはニュアンスが違うのであって、あくまで中原の都市国家の商業ネットワークの東方への拡大ですから、まずは中原の都市国家から商人が東方の蛮族の土地に派遣されて、現地民と交易を始めます。そして交易ポイントとして都市国家を作り、その周辺の蛮族の氏族に中華の民になるようにリクルートしていくのです。
だから当初は広大な蛮族の居住区の真ん中にポツンと都市国家が孤立した状態から始まることになります。太公望や箕子などはおそらく自分の同族のいくつかの氏族も引き連れて都市国家へ赴いたでしょうが、それでも東方開発地はこの周代においてはまだまだ相当寂しい感じであったろうと思われます。

そもそも交易というものは豊富な物産と人口を抱えた後背地と市場の間を結ぶ物流路が整備されていなければ成立しません。また、市場が成立するのはそこに後背地からのニーズがあるからです。そうした条件が黄河中流域や長江中流域には成立していました。そこに集まる南蛮部族にも北狄部族にも西戎部族にもそれぞれ特産物があり、その産地や彼らの豊富な人口の居住地と中原の都市国家とを結ぶ物流路や物流手段を彼らはそれぞれ持っていました。北狄や西戎は草原の道を持っていましたし周代においては騎馬による輸送を可能としていましたし、また南蛮は河川の航行路を持っていました。
しかしこの東方開発地に住んでいた東夷部族の場合、黄河下流域は一面泥の海であり船でも馬でも物流は不可能であり、だいいち東夷部族は馬に乗れません。内陸の物流路として有望なのは淮河ぐらいのものですが、そもそもこの東夷地方は大した物産も無く、人口も大して多くありませんでした。
では周王朝はなぜこんなところへ進出しようと思ったのかというと、この東夷方面が商業路として最も未開発で可能性が開けていたからなのですが、その可能性が果たして有るのかが問題なのです。その問題の解答としては、可能性は大いに有るということになります。
この山東半島や淮河、遼河方面というのは実は東夷の本当の意味での後背地ではなく本拠地ではないのです。このあたりは真に豊富な物産や人口を抱えた後背地に至る途中の道に過ぎないのです。このあたりに交易ポイントとしての都市国家を築いておいて、その真の東夷の後背地との間に物流路を開くことが出来れば、この東方の都市国家地帯は大いに潤うことになるのです。そうした遠大な計画の第一歩として山東半島や淮河や遼河方面への都市国家建設事業があるのです。
中原から見て山東半島や淮河、遼河の更に向こう側にある土地は何なのかというと、まず朝鮮半島が思い浮かびます。しかし朝鮮半島は古代から物産も人口もそれほど豊富ではありませんでした。ここも通り道に過ぎないのです。
そうなると、その東夷の真の後背地とは日本列島ということになります。この紀元前1000年頃の日本列島は縄文時代で、農耕を必ずしも必要としないほどの自然の恵みがあり、非常に豊富な物産に恵まれていました。そして日本列島は古代から現在に至るまで、ジャワ島と並んで東アジアにおいて常に最大の人口を抱えるエリアであり続けているのです。
つまり、周王朝の計画した東方開発計画というものは、究極的には日本列島に住む「倭人」との交易を視野に入れたものだったということになるのです。これは、日本列島の後背地としての群を抜いた潜在能力を考えれば、倭人との交易を視野に入れない東方開発計画というもののほうがナンセンスと言うべきでしょう。

そう考えれば、なぜ周王室が殷周戦争の最大の功臣であった羗族の太公望をわざわざ東の果ての山東半島に斉王として派遣したのか理解できます。山東半島こそが倭人との交易にあたっての最重要ポイントだったからです。
先ほどは東夷エリアには目立った物流路が無いかのように言いましたが、実はそれは有るのです。それは海路として存在するのであり、その海路の基点となるのが山東半島であり、その海路のゴール地点が日本列島なのです。すなわち、山東半島の先端から黄海を横断して朝鮮半島南西岸を経由して対馬海峡を越えれば日本列島に到着するのです。
これで山東半島は最大の後背地である日本列島と海路という物流路で結びつくことになり、山東半島に都市国家を築けばそこは大いに賑わうことになるわけです。だからこそ周王室の最も信頼できる功臣であった太公望が山東半島に派遣されたのでしょう。
ちなみに山東半島から日本列島に至るルートはもう1つあります。こちらは黄海を横断するリスクを避けたルートで、山東半島から沿岸沿いに北上して朝鮮半島の付け根の遼河に達し、遼河から先は朝鮮半島の内陸水路を使って釜山まで達して、そこから対馬海峡を渡って日本列島に至るルートです。どうして遼河の河口まで海路なのかというと、多くの荷物を運べるという利点もありますし、陸路だと途中の黄河下流域が泥の海で通行困難だからです。
また、それらとは別に、だいたい遼河方面へ向かう陸路は難所が多いのですが、それをあえて承知の上で中原方面から北狄の騎馬輸送隊で一気に遼河まで物資を運び、その後は朝鮮半島内陸水路を使って釜山へ行き、そこから対馬海峡を渡って日本列島へ至るというショートカットのルートも考えられます。
ちなみに、どうして朝鮮半島内陸水路を使って、朝鮮半島西岸の海路を使わないのかというと、この海域は潮の干満が激しく航海に不向きだからです。だから山東半島から黄海を横断する際も、朝鮮半島南西岸をかすめるように寄港するルートになるのです。
日本列島へ至るこれらのルートに関係してくる重要ポイントは山東半島方面と遼河方面ということになります。山東半島方面を太公望に任せ、遼河方面を箕子に任せるという周王室の東方開発計画がこれらの地域を重点開発目標としていたのはそういう事情だったと推測されます。ちなみに淮河方面の開発はおそらく違った目的で、山東半島方面でせっかく作った海上の道を更に南に伸ばして長江の交易路と繋げようという計画であったのではないかと推測されます。

ただ、この日本列島へ至るルートの最大の問題点は海を渡らねばならないという点で、特にどのルートの場合でも絶対に通らなければいけない対馬海峡が実は最大の難所で、東夷の中でも最も熟練の海洋民の助力が絶対に必要なのでした。しかし、この対馬海峡を知り尽くしている最も熟練の東夷の海洋民が何処を根拠地にしているのかというと、それは日本列島なのであり、つまりその海洋民こそが倭人だったのです。
考えてみれば日本列島の土着民であった倭人は新モンゴロイドの狩猟民と旧モンゴロイドの海洋民で構成されており、この旧モンゴロイドの海洋民こそ東夷の海洋民であり、日本列島はスンダランド海没後はこの海洋民が最も多く移住してきた地域だったのですから、東夷の海洋民の大部分は日本列島に根拠地を置いて朝鮮半島や山東半島にもやって来ていたのであり、周王室としては、山東半島や朝鮮半島に交易拠点さえ築くことが出来れば、後背地たる日本列島へのルートは倭人自らが導いてくれるという目算があったということになります。それを見越して、山東半島や遼河方面の都市国家建設から着手していったというわけです。

こうして周の時代に山東半島や遼河方面に都市国家が築かれ、その周辺の邑に氏族社会の農耕地が構築されてちょっとした王国が作られるようになりました。それが斉や燕であり、そこを支配する諸侯は鎬京の周王室の天子に服属していたのです。これらの諸侯の王国は大きな領域を支配するようなものではなく、都市国家に毛が生えた程度のものでした。
これらの斉や燕の諸侯がこの周の時代に倭人と交易をするという目的を達することが出来たのかどうかはよく分かりませんが、もし交易が成立していたとしても、これはあくまで斉や燕の都市国家における交易であり、斉人や燕人が日本列島にやって来て根拠地を作って交易したというわけではありません。彼らはこの時代においては、まだ自らの根拠地を固める段階であり、まだそこまでは出来なかったと思われます。
ですからこの周代に倭人が斉人や燕人と交易したとしても、それは日本列島外における倭人海洋民の活動の中のことであり、日本列島の物産が持ち出されて斉や燕の都市国家の定期市で売買されたことはあったかもしれませんし、その代価で倭人商人は斉や燕の物産を買って日本列島に持ち帰ったでしょうが、それは倭人社会で費消されてしまったであろうし、それによって日本列島内の歴史に何らかの影響を及ぼしたというようなことは、あまり無かったと考えていいでしょう。やはり日本列島内に直接に外来商人がやって来て交易の根拠地を築くようなことにまで至らなければ大きなインパクトは与えられないだろうと思われます。

ちなみに、このセンテンスから文中で「倭人」という表現を使うようになりましたが、これは7世紀の日本建国以前の原日本人という意味で使っています。これは蔑称ですので使うのにはイマイチ忍びないのですが、7世紀以降の日本人と区別する意味で使用することにしました。実際に当時「倭人」や「倭国」と呼称されていたことは事実なのですから、あまりに神経質になるのも一種の言葉狩りになると思い、おそらく本来は「和人」なのでしょうが、シナの史書にもあり一般に広く普及している「倭人」の文字を使います。同様に「倭国」という表現も後で出てくるかもしれませんが、悪しからずご了承ください。
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