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日本史についての雑文その150 春秋戦国時代
さて、そうこうしているうちに中原方面では大きな変動が起こりました。紀元前771年に鎬京にあった周の王都が西戎の一派であった申と犬戎の攻撃を受けて陥落し、周王室は東に逃れ洛陽に遷都しました。通常は、これ以前の鎬京を王都とした周を西周と呼び、この紀元前771年以降の洛陽を王都とした周を東周と呼んで区別します。
周王室の実力の源泉はもともと西戎の遊牧民勢力の後ろ盾によるもので、代々の周の天子は西戎部族と政略結婚を繰り返していました。しかし、この時は第12代の幽王が西戎の申族から迎えていた皇后を廃して別の皇后を立てようとしたことによって申が怒り、犬戎を伴って鎬京に攻め込んだことが発端であり、これに諸侯が呼応して幽王を殺し、一部の諸侯が幽王の子の平王を洛陽に擁立したのです。

この事件によって周王室は西戎勢力と関係が切れたことになり、周王室は諸侯連合の盟主としての求心力を失うのですが、そもそも諸侯は犬戎と一緒になって幽王を殺しているわけで、この事件以前に周王室は求心力を失い、諸侯が力を増していたのだといえます。そうしてここから諸侯が勝手に勢力を拡張していく春秋戦国時代に入っていくのです。春秋戦国時代は春秋時代と戦国時代に分かれまして、春秋時代が紀元前771年?紀元前403年、戦国時代が紀元前403年?紀元前221年ということになります。

この春秋戦国時代は戦乱の時代だと言われています。すると550年間も戦乱の時代が続いたことになります。日本史において現在から見て550年前というとちょうど応仁の乱の頃ですから、日本でいえば戦国時代からずっと今に至るまで戦乱の時代が続いてきたようなものです。実際は100年間ほどの日本の戦国時代でも社会に相当の変化をもたらしたのですから、このシナの春秋戦国時代がシナ社会を根本的に変化させることになったことは理解いただけると思います。
ただ、同じ戦乱の時代といっても、春秋時代と戦国時代とではだいぶ様相が違います。戦争の規模や残虐性や徹底性が春秋時代に比べて戦国時代は段違いに大きくなっているのです。
そもそも狩猟民や遊牧民の場合は普段から動物を狩ったり殺したりして、動物相手に擬似戦争をしているようなものですから、人間相手の戦争の場合も相手を動物だと割り切れば割と気軽に戦争することも出来ます。つまりこの場合、相手を半ば動物や獲物と思い込んで殺すわけですから、極端に言えば殺した相手を食べてしまうことも出来るわけです。いや実際シナ人は人間をよく食べています。
しかし農耕民の場合はそういう割り切り方は出来ませんから、なかなか戦争を気軽に行うことは出来ないものです。まぁ中原の氏族の中には相当数、北狄や西戎の遊牧民や狩猟民が出自のものもありましたから、中原が完全なる農耕民文化であったというわけではありません。実際、春秋時代の人である孔子なども人肉を食べたりしていますから。
しかし、出自が遊牧民や狩猟民であったとしても中原では農耕生活を送っていたのであり、農耕生活を前提とした社会制度のもとに暮らしているわけですから、やはり生粋の遊牧民や狩猟民のような割り切り方は出来ないのであって、戦争を行うにはそれなりの理屈が必要になるのです。つまり農耕民の戦争は高度に政治化するのであり、大義名分が必要となるのです。大義名分が重視されれば、その大義を大義たらしめるために、それなりのルールが尊ばれることになります。「何でもあり」にはならないのです。
つまり、例えば正々堂々が尊ばれたりするのであり、互いに名乗りを上げて戦ったり、奇襲は卑怯と考えられたり、戦場で儀式的に歌や詩を詠んだり武勇を見せたり、敵に贈り物をしたり、こういうのを古代シナでは「礼」というのですが、日本でいえばまるで鎌倉武士のような風習が春秋時代のシナにおいては普通に行われていました。

しかし戦乱が長期間になると、農耕民も戦争に関して抵抗感が麻痺してきて、結構「何でもあり」になってくるものです。また、春秋時代を通じて中原が拡大していき、それにつれて遊牧民や狩猟民の戦争文化も導入されるようになり、そしてまた、上記のような「礼」の文化を保持していた氏族社会が解体されていったことによって、戦争の残虐性や徹底性は増大していったのでした。春秋時代の武器は青銅器だったのですが戦国時代になるとより強力な鉄器が武器として使われるようになったことも大きな要因です。そうして戦国時代には戦争は極度に大規模かつ残酷なものになっていきました。
また、戦国時代には氏族社会解体の影響で先祖祭祀を絶やすことへの抵抗感が社会から消えていき、それが敵を徹底的に絶滅させるまで戦争を完遂させることを可能にしました。春秋時代には敵を滅ぼした場合も、子孫が絶えることで祖霊への祭祀が絶えると敵の先祖霊が祟るということを恐れて、敵を再興させることが普通に行われていましたから、こういうところも春秋時代と戦国時代では全く違います。
このように戦国時代は後年のシナ社会の残虐性が出来上がった時代であり、残虐性だけではなく、秦漢以降の皇帝専制支配体制のシナ社会の基礎が出来上がっていった時代でもあるのです。そしてそうした戦国時代とは一見では全く異質の社会のようでいて、その戦国時代の大変動を準備した変化の時代が春秋時代の真の姿なのです。
こうして見てみると、西周時代以前のシナ社会というのは、いわゆる私たちのイメージするシナ社会とは全く異質な社会であり、春秋時代という過渡期を経て戦国時代以降に私たちのイメージするシナ社会が生まれてくるのだといえると思います。
しかし、こうした戦国時代以降に培われていったシナ人の戦争文化というものは、言ってみれば農耕民と遊牧民の戦争における残虐性のハイブリッドのようなもので、高度に政治的であるので謀略に長けており、戦えば残虐で手段を選ばず、大義思想で凝り固まっているので相手を徹底的に滅ぼし、その肉を食らうことも厭わないというようなものになります。こういうハイブリッドである点ではヨーロッパ人やロシア人も同じといえます。
それに比べて日本人は、途中で狩猟民の戦闘技術のみ導入して武士階級を作ったりしましたが、元来が弥生時代以降は長らく農耕民である上に、常に戦乱が長くは続かなかったので大義名分を尊ぶ儀礼的、スポーツ的感覚がどうも抜け切らず、戦闘技術自体は磨かれるのですが、謀略に弱く残虐性や徹底性に欠けるところがどうも甘いところなのです。

春秋時代は戦乱の時代であり、また変化の時代でもありました。紀元前771年の周室の東遷事件以前に諸侯の力が増していたのは、時代が既に中原以外の地方開発の時代に入っていたからでした。
つまり農具の改良や灌漑治水技術の発達、牛耕の普及などの技術革新によって、農業の生産性が向上すると共に、農耕が氏族単位の共同作業から各農家単位で可能な作業となり、氏族社会の同意が無くても各農家単位で新しい農耕地の開拓をすることが可能になり、諸侯がそうした新しいタイプの開拓民を灌漑や治水で支援して、氏族共同体を経由せずに直接に諸侯に帰属する民を作っていったのです。こうして氏族の意向を忖度する必要なく諸侯が自由に直接支配領域を拡大していくことが可能になっていったのです。
また、紀元前700年ぐらいが太陽黒点周期のホーマー極小期にあたり、この前後を含んだ期間は地球が特に寒冷化して飢饉が発生するようになったので、諸侯のリーダーシップのもとに農業の技術革新や新しい農耕地の開拓の必然性も発生したので、諸侯が勢力を拡大するのに追い風にもなりました。
こうして諸侯は今までのように都市国家だけを支配する存在から、その周辺の領域も支配する存在へと脱皮し始め、土地を求めるようになっていきました。そうなると都市国家の周辺の今まで蛮族の支配する領域だった部分に侵食していくようになり、蛮族とトラブルを頻発するようになっていき、その解決のためにより大きな武力を求めるようになり、その武力を維持するためには財力が必要で、そのためには更なる土地や交易の利が必要になっていくのでした。
このように都市国家の周辺領域での諸侯の活動が活発になり、それはマクロ的には中原から見て辺境地方での中華領域の拡大となって現れました。こうなると四囲の蛮族、すなわち北狄、西戎、南蛮、東夷を刺激し、その活動を活発化することとなり、蛮族の中原への反撃と圧迫を招きます。こうして春秋時代の前期、だいたい紀元前600年ぐらいまでの時代における基本的な構図は、蛮族と中原諸侯の対決ということになります。

春秋時代に入ると中原の周王室の力が衰えて、それに代わって活発な活動をするようになった諸侯は楚、斉、晋、秦などのような辺境地方の大国の諸侯でした。これらのうち、楚と秦は諸侯を名乗ってはいますが実際は、楚は南蛮そのもの、秦は西戎そのもののそれぞれの部族連合王国のようなものでした。また斉や晋の諸侯は蛮族そのものではありませんでしたが、後背地として斉は東夷地方、晋は北狄地方を抱えていました。
これらの辺境地方の大国の諸侯は「覇者」と呼ばれて、衰えた周王室の代理人として天下の諸侯を統率して周辺蛮族に対抗しようとしましたが、彼ら自身がそれぞれ特定方面の周辺蛮族の支配領域やその更に背後の外的世界を後背地として持ち、それら地域への開発やそれら地域との交易によって得られる財力をその軍事力や政治力の源泉としていたのでした。
ただ、この「覇者」たちはあくまで周王室の権威を尊重し、悪く言えばその権威を利用して、周王室の代理人として諸侯を統率しようとしたのであって、周王室に取って代わって自らが天子になろうとは思わなかったのです。
これは、この時代は未だ血統が重視される保守的な時代であり、周王室の世襲的権威を諸侯が尊重していたという側面も確かにあるのでしょうが、諸侯たちが実質的な実力をつけてきたこの時代にあって、諸侯の連合の盟主的存在に過ぎない天子の位を得ることと、「覇者」として天子を補佐しつつ実質的には他の諸侯を指揮することとの間にさほどの違いは無く、諸侯は天子の位にさほどの魅力を感じられなくなっていたというのが実情でもあったのでしょう。
また、天子と諸侯の制度的な君臣関係が明確化していたこの時代においては、臣下が君主に取って代わることは建前上はまだ難しく、それを乗り越えるには、そうした簒奪行為を正当化する全く新しいイデオロギーが必要であったのですが、この春秋時代前期、紀元前550年以前の時代においてはまだその新しいイデオロギー、つまり儒教は出現していませんでした。
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