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日本史についての雑文その151 縄文末期農耕文明
春秋時代に入って最初に台頭してきたのは南蛮諸部族を支配下に置いて勢いを増してきた楚で、その勢いは北上して中原の小さな諸侯は楚の圧迫を受けてその支配下に入ることになりました。従来ですとこういう場合は周王室が諸侯を糾合して楚に対抗するのですが、周王室は力を失っていました。
そこで諸侯を統率して楚に立ち向かったのが斉の桓公だったのです。桓公は楚を破って紀元前651年に中原諸侯の盟主になりました。ちなみに、この桓公は西戎の遊牧民部族の羗族の太公望の末裔で、人肉スープが大好物であったという人です。

さて、ここで疑問に思うのは、なぜ斉がそれほどの実力を持つことが出来たのかです。楚はシナ南部から東南アジア地方にまで広がる広大な後背地を持っていましたから強大化するのも分かります。中央アジアから西域まで後背地に持つ秦や、北アジアの草原地帯を後背地に持つ晋にしてもそれは同じです。しかし山東半島にあった斉の背後にはすぐに海が迫っており、海そのものは斉に何ももたらすものではありませんでした。
やはり、その海の向こうに斉にとっての豊かな後背地が控えていたと考えるべきであり、そしてそれは物産豊かな縄文時代末期の日本列島以外には考えられないのです。この春秋時代前期においてはまだ商工業などはそれほど発達していませんから、やはり自然から採れる物産が最大の財物であった時代だったのです。ですから自然の恵みが豊かであった日本列島は当時においては相当な富強地帯であったのであり、その日本列島の利権を有していた斉が強大化するのは当然のことだったのです。

おそらく春秋時代に入ったばかりの紀元前770年代ぐらいには斉は倭人の海洋商人たちと連携して交易を盛んに行い富を貯めこみ、その財力を使って山東半島や黄河下流域の治水や灌漑に先端技術を導入して、氏族社会から脱した自立農民を取り込んで農地を開拓していったのでしょう。特に黄河下流域の開拓は最先端の治水技術が無ければ不可能であったので、その技術力は進んだものであったはずです。
そうして紀元前700年の前ぐらいには、それまでの農耕とは一線を画した進んだ農耕が山東半島から黄河下流域に普及することとなり、またそれが更に北方の燕の領域にまで拡散して朝鮮半島北部まで、おそらく畑作と稲作の混合農業であったでしょうが、広まっていったのだと思われます。
そしてこの農業生産力がそのまま斉の実力となっていき、紀元前7世紀前半の桓公による覇権に繋がっていくのです。なぜ桓公が中原での覇権を目指したのかというと、後背地である日本列島や自らの領土で調達した豊富な物産を更に手広く中華世界や遠方の蛮族の土地にまで売りさばくために、そうした華夷社会全体のメガロポリスである中原の商業都市国家群を支配したかったからでした。
そして、この斉を強大化させた先進農業は、斉と盛んに交易をしていた倭人商人の手によって紀元前700年より以前には日本列島に持ち込まれたと思われます。また倭人商人は燕や朝鮮半島の現地民とも交易していたでしょうから朝鮮半島経由でも持ち込まれたでしょう。こうして日本列島に紀元前700年ぐらいから初期的な農耕が普及していくことになったのです。

これは後の紀元前400年ぐらいから普及する水田稲作ではなく、シナ大陸北方由来の畑稲作混合農業で、日本列島で普及したとはいっても、それは主に日本列島西部であり、しかもあくまで狩猟採集生活が主であり、この畑稲作農耕はその補完的役割で普及し、それ以上の存在に育つことはなかったので、縄文日本人の生活を根本から変えるということにはなりませんでした。しかしそれ以前に日本列島にもたらされた農耕が実験的段階にとどまり全く普及しなかったことに比べると、一定規模の普及をしたというだけでも大した進歩であり、それはこの時期のこの畑稲作混合農業が今までにない進んだものであったことの証といえるでしょう。
また、この紀元前700年前後の時期はちょうど先述の太陽黒点周期のホーマー極小期にあたっており、地球的規模の寒冷化によって一時的に日本列島の自然の恵みが不足することとなったのも、この畑稲作混合農業をとりあえず急場しのぎで受け入れる理由にはなったと思われます。
そういうわけで、日本列島ではこの紀元前700年頃から私が便宜上設定した「縄文末期農耕文明」が黎明期を迎えて始まるわけなのですが、この縄文末期農耕文明は基本的には縄文時代に続いてきた狩猟採集社会の枠組みを維持したまま、その補助的産業として畑作や稲作の農耕を行うもので、稲作といっても水稲ではなく陸稲であったので大規模な水田機構も必要とせず、それほど生活スタイルの変更は必要でなかったのです。
縄文末期農耕文明は紀元前700年頃から「起の部」(黎明期、胎動期、草創期)、紀元前550年頃から「承の部」(形成期、確立期、修正期)、紀元前400年頃から「転の部」(改革期、変質期、爛熟期)、紀元前250年頃から「結の部」(衰退期、解消期、残滓期)が始まり、紀元前100年頃には姿を消して次の原始国家文明の中に吸収されていくことになるのですが、その細かな盛衰の記録は不明です。
ただ、次の弥生時代の開始を告げることになる紀元前400年以降の原始国家文明などの諸文明に比べれば、あまり激しい展開は無い緩やかな文明の展開だったのではないかと思います。それはやはり、この時代においてはまだシナ大陸の文明の海洋適応力が低く、外来の刺激がこの文明においては倭人海洋商人という、言わば内輪によってのみもたらされるからで、やはり外来の渡来人が直接文明を持ち込んできて、人と物が同時にもたらされるぐらいでないと、なかなか既存の文明秩序を大きく変動させるインパクトは与え得ないのだと思われます。
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