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日本史についての雑文その152 春秋の覇者たち
そういうわけで、日本列島においては紀元前700年以降、徐々にシナ大陸北方系の畑稲作農耕が補助的に浸透していく状況が続くことになるのですが、その間のシナ大陸のほうの情勢は急激な変化が始まっていきます。
楚を破ってその侵攻を阻止し、紀元前651年に中原の諸侯の盟主の座についた斉の桓公ですが、その死後に斉は乱れて力を失い、再び中原は楚の脅威に晒されることになりました。そこで紀元前632年に再び楚を破って中原の覇者となったのが北狄の居住地を後背地として持つ晋の文公で、周王室の内紛を収めて周王室を補佐して諸侯の盟主となりました。晋が力を持つようになったのは、その領土にもともと中原で開発の進んだ地域を抱えていたからです。

しかし文公の死後には晋は混迷し、そこに今度は西域を後背地として持つ西戎の秦が台頭し、紀元前627年に秦の穆公は晋軍を大破して中原の覇者となりました。秦の興隆の主因は、穆公が西域の異国の才能ある人材を積極的に登用したことでした。しかし穆公があまりに名君であったため、その死に際してほとんどの有能な家臣が殉死してしまい、秦は一時的に一気に衰えることになりました。
この後は地力に勝る晋が中原では優勢な状態となりましたが、そこに今度は南蛮の楚が再び勢力を伸ばしてきました。ここまで出てきた各国の君主である諸侯はみんな「公」と名乗っており、この時代はそれが普通で、「王」は周の天子だけが名乗っていい称号だったのですが、この楚の荘王は自ら「王」と名乗り周王室の権威に挑戦したのです。それぐらいこの頃の楚や荘王には勢いがあったということで、紀元前597年には晋軍を撃破して中原の覇権を握りました。

このように春秋時代前期には諸侯による覇権争いが盛んであったわけですが、この時代は青銅器が武器として使われるようになりました。どうやら青銅器の冶金技術を周王室が保持していて祭祀用に使っていたようなのですが、紀元前771年の鎬京陥落の混乱時に冶金技術が流出したようで、それ以降は武器に使用されるようになったようです。
この時代の武器はだいたい剣や槍、弓矢であったと思われます。槍や弓矢は狩猟民族の使う生活用具でしたから歴史は剣よりも古いのですが、青銅器が武器使用されるようになって最初に作られたのはおそらく剣であったでしょう。剣は、これも狩猟で最も一般的に使われていた棍棒の発展形と考えればいいでしょう。
最初の剣は突くのが主であったのか切るのが主であったのかはよく分かりませんが、青銅器で盾や鎧が作られるようになると、小さな隙間に効果的なダメージを与えるために突く能力を高めた形に特化していくようになりました。まぁそもそも青銅器の剣では鉄や鋼のように刃の切れ味を高めることは困難ですので、切るよりも一点集中で押し出す力で先端の尖った部分で突くほうが効果的ではあります。
それでも鎧などの防御能力が上がって簡単に相手に致命傷を与えられなくなり、しかも剣の改良によって相手の攻撃力も上がってくるにつれて、相手に接近して戦うことにリスクが生じるようになり、遠隔攻撃武器のニーズが高まり、槍や弓矢の先端に青銅器をつけて人間殺傷用に改良するようになりました。
このような武器を使う兵士たちを指揮官が戦車に乗って指揮するわけです。戦車は西アジアから伝わったもので、二輪の馬車を馬に引かせたものです。このように馬を使ってはいましたが騎馬戦術というものは存在せず、馬に直接乗るのは野蛮人の戦い方であり、中華の民は戦車と歩兵で戦うのが正しい戦い方とされていたのです。
まぁだいたいこの時代の武器というのはこんな感じで、実際は青銅器で相手に致命傷を与えるのはなかなか骨が折れるので戦うと非常に疲れるわけで、しかもこの時代はまだ人口も少なく、戦うのも諸侯の手勢だけですので動員できる兵力はだいたい1万ぐらいが平均で、多くても5万にも達さなかったのです。これでも多いといえば多いのですが、戦国時代になるとこれが飛躍的に増えて10万規模の軍が編成されるのですから、それに比べればまだまだ少ないといえるでしょう。ゆえに、まだまだ戦争は大規模化せず悲惨なことにもならなかったのでした。

さて、このように諸侯の覇権争いの様相を見てみると、この春秋時代前期というのは、辺境の後背地の経済力を背景にした実力者の諸侯が中原の商業地帯の支配権を奪い合う時代なのだといえます。そしてこの時代においては、楚や秦はもともと「夷」であり、しかも秦などは異民族を積極的に登用していましたし、中華民族優越主義のような思想は全く存在していないのです。
もともとこの時代の華夷秩序にはそのような民族差別的意味合いは無く、単に地理的概念に過ぎなかったのですが、この時代になると楚や秦のような地理的には完全なる「夷」も普通に中原の覇者になってくるわけで、地理的概念としての華夷秩序も秩序概念として意味をなさなくなってきたのです。しかしこうなると社会秩序が無い状態になってくるわけで、これはこれで困ったことです。新しい切り口での華夷秩序の再構築がなされなければならなくなるわけです。

そしてこの紀元前597年の楚が晋を破った戦い以降は中原では諸侯同士の戦いはあまり起きなくなります。それは社会が平和になったからではなく、また楚の覇権が確定したからというわけでもないのです。むしろここからが真の乱世の始まりであったと言っていいでしょう。
春秋時代前期の170年間ほどの諸侯同士の抗争の時代を通して、諸侯は氏族社会の制約を超えて直接支配領域を拡大していきましたが、これは氏族社会を弱体化させ、氏族と諸侯、また氏族同士の従来の暗黙の序列関係を解体し、「大夫」という才覚のある新興の有力氏族、つまり貴族階級も独自に勢力を拡張することになったのです。
そうしてこの大夫たちは紀元前600年ぐらいから諸国において国政を牛耳るようになり、諸国内で互いに争ったり同盟したり、時には君主たる諸侯に逆らったりして戦いに明け暮れるようになっていったのです。こうなってくると諸侯同士で戦っている場合ではなくなり、諸侯同士の抗争が行われなくなっていったのです。
こういう状態は伝統的な身分秩序の崩壊であり、氏族社会が保持していた暗黙のルールも無視されるようになって無秩序な状態が現出してきました。そういうわけでこの時代になって初めてシナ社会で成文法が作られたりしたのですが、それは現実の無秩序状態の裏返しでしかありませんでした。

100年間ほどそうした下克上の世が続いた後、そうした現状を憂えて古来の氏族社会の時代に存在した伝統的な徳目の復活を唱えたのが孔子なのです。そうした伝統的徳目が「仁」であり「礼」であったというわけなのです。ただ、こうした伝統的徳目は氏族社会によって保持されていたものであり、この孔子の活動した紀元前500年ぐらいになると氏族社会はだいぶ崩れていましたから、旧来の形ではこうした徳目は存続し得ないのです。そこでこうした徳目の存在の必然性を説明するための新たな理論構築が必要になったのです。これが儒教の始まりなのです。
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