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日本史についての雑文その153 儒教の始まり
儒教では、「仁」や「礼」などの徳を収めた者が世を治めるものであるとされ、要するに孔子の時代において世が乱れているのは徳が忘れ去られてしまっているからなのであって、為政者が徳を持つようになれば秩序は復活するということです。だから「仁」や「礼」をこれから大切にしていきましょう、という教えなのです。
つまり、旧来の氏族社会においては血統による秩序が重視され、そうした血統社会の中で徳目が自然発生していたのが実情だったのですが、そうした血統的秩序が崩壊した時代において孔子は発想の逆転を行い、徳目を持っていた者が王になり代々そうした徳目を伝えてきたことによって王の地位を世襲してきたと考えたのです。

こう考えれば、血統的秩序が崩壊した時代においても、徳目そのものによって秩序の再構築が可能であるということになるのです。つまり権力の根拠の判断基準は血統の貴賎にあるのではなく、徳目の有無にあるのです。となると、血統的権威の根拠となる氏族の守護神たる祖霊そのものに価値があるのではなく、祖霊を敬うという行為に内包する徳のほうに価値があることになります。
もちろん儒教においても血統を維持し祖先を敬うことは最も重視されますが、それはそうした行為そのものが無条件で尊重されていた氏族社会とは異なり、そうした行為が最高に徳のある行いであるという理由で重視されるのです。これは実際の「先祖祭祀を行う」という表面上の行為としては同一ですが、その持つ意味合いは全く次元の違うものになっているのです。儒教が鬼神を退ける所以です。
この時代は血統的秩序で成り立っていた氏族社会が形骸化していたため、このように考えなければ秩序の再構築は無理だったのです。つまり孔子は、単純に伝統的価値観の復活を策したのではなく、それを伝統的秩序の崩壊した時代なりにアレンジして再生させようとしたのです。逆に言えば、孔子は伝統的価値観を非常に重視し尊重していたからこそ、伝統的な文脈と違った形ででもなんでもとにかく伝統的価値観を復活させたかったのだといえます。

しかし孔子のリニューアルした伝統的価値観、つまり儒教は、結局は伝統的社会を変革し解体していく理論として使われていくことになります。何故なら、儒教の教えに従えば、徳目さえ備えていれば誰でも王になれるということになるからです。そして儒教の教えを信じる限り、徳目を失えば王の位を追われるはずですから、王の位にとどまっている限りはどんな悪政を行っていようとも徳目があるという建前になり、その悪王は徳目を備えているということになり、その支配は正当化されるのです。
つまりどんな下賎な身分の出身者でも異国人でも、とにかく軍事力などの実力で王位を簒奪し維持すれば、徳目は後からついて来て、その王位は正当化されるということになるのです。つまり易姓革命を正当化する理論になり得るわけです。もちろんこれは孔子の目指した理想とは全く違うものであり、孔子の教えを悪用しただけのものです。しかしこのように簡単に悪用されてしまう理論であったことも確かなのです。ただ、これが実際にこのように悪用されるようになるのはずっと時代が下って前漢時代の武帝の時代に儒教が国教化されて以降のことです。
また、儒教では徳によって政治を行う「徳治」が重視されますから、王による徳治が行き届いている地域が「中華」で、王による徳治が行き届いていない地域が「夷」であるというふうに華夷秩序が再構築されました。従来のように地域で分けるやり方では通用しなくなってきていたので、徳の有無で中華と夷を分けることにしたのです。もちろん建前上は徳の有無で分けたとしても、従来の中原地方に行けば行くほどシナ社会の伝統的徳目に馴染みがあるのであり、辺境に行けば行くほどそういった徳目に馴染みは無いのであるから、結局は地理的に辺境の地域が「夷」ということにはなるのですが。
これは何故こんな理論が構築されたのかというと、出来るだけ広く徳目を行き渡らせるための努力目標的な意味合いで作られたのだと思われます。ある程度の徳治を行き渡らせることが出来たとしても、まだまだ遠方には徳の及んでいない地域があるので、いっそう精進せねばいけないというわけです。
これは徳の及んでいるか及んでいないかという状態による区別であり、固定的な民族差別思想ではないわけですから、「夷」の住人というものが救いようのない野蛮人であるという意味合いのものではないのです。ちゃんと王の徳治を受け入れて改心すれば無条件で中華の民になれるのであり、極論を言えば王にだってなれるのです。だから厳密には民族差別思想ではないのです。
もちろんその「徳治」というものが前述のように実際はとんでもない悪政である可能性もあるのであり、勝手に他民族を「夷」だとか決め付けて改心だのなんだのと馬鹿馬鹿しい空論であると言われればまさにその通りなのですが、少なくともこの理論の構築された時には、そこには決して悪意があったわけではなく、むしろ理想主義によって為されたのだということです。

ただ、この儒教的な華夷秩序思想も、前漢の武帝の時代以降は悪用されていくようになります。つまり「徳治を行き渡せる」というのは建前でしかなく、実際は経済的利得を求めての外征であったとしても、この王化思想を大義名分にして気軽に戦争を起こせるようになり、異民族相手の戦争の閾値を下げることになりました。そしてその場合においては異民族を野蛮人として蔑み軽く見る感情は確かに存在したのです。
また、本来は異民族への徳治の教化が目的であったはずが、それが形式化して、形だけでも体裁を整えて臣下の礼をとらせ、実際は君臣関係も無く徳治も糞もなくて単に莫大なお土産で釣るだけで、「こんな遠方の蛮族ですら皇帝の徳を慕って臣従した」と国内向けに誇示して皇帝の権威を高めることにのみ利用するという単なる政治ショーである「朝貢制度」へと堕していくことにもなるのです。
ただ、この儒教的な華夷秩序思想も、このように前漢時代以降は悪用はされて本来の意味を失っていくものの、これが戦争相手でもない異民族を単に異民族であるというだけで禽獣扱いして差別する歪んだ思想に変質していくのは、10世紀の宋代以降のことです。
このように、孔子の創始した儒教は根本的には騙しと偽善と形式主義に転化する可能性が高いという大きな問題を抱えた教えではあったのですが、孔子本人は全く悪意は無く立派な人物でしたし、この時代においてはこのような伝統的価値観の再構築は必要とされていたので、世に中に受け入れられていきました。
ただ、この教えはあまりにも理想主義的すぎて、だからこそ他人を惹きつける魅力もあったのでしょうけど、春秋時代当時の実力第一の現実社会で具体的に役に立つような教えではありませんでした。ですからすぐに儒教が世の中の主流の教えになるということはなく、後に漢の武帝が儒教を国教化するまでは割とマイナーな教説の地位に甘んじることになりました。ですので、孔子の努力の甲斐はあまり無く、この時代の下克上の風潮はいっそう激しくなっていきました。
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