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日本史についての雑文その154 原始国家文明
紀元前500年頃、諸侯が国内での大夫の下克上に悩まされ、孔子が儒教を創始して秩序の再構築を試みていた頃、南蛮地域では新興勢力が現れてくるようになりました。長江下流域を根拠地とした呉と越という2つの南蛮王国がそれでした。この2つの部族は南蛮ですから東南アジア系の旧モンゴロイドから出てきた海洋民の部族です。
この長江下流域は諸侯の勢力がまだ及んでいない地域だったのですが、紀元前597年に中原の覇権を握った楚の荘王の時代には楚はこの地方にも勢力を及ぼし、この呉と越の2国と接触することになりました。

その後、呉と越は楚と激しく争うようになっていきました。といって呉と越が仲が良かったわけではなく、呉と越も激しく争い合っていました。呉と越の軍は非常に精強であったのですが、その理由はこの地域に優れた製鉄技術があり、鉄製の武具で武装していたからだったのです。だから大国の楚とも互角以上の勝負が出来たのです。
呉は紀元前501年に楚の王都を陥落させ滅亡寸前まで追い込み、その後は呉と越が覇権を巡って激しく争い合い、結局紀元前473年に越が呉を滅ぼし、その勢いを駆って中原の覇権を握り、一気に勢力範囲を北に広げて、山東半島の南岸に王都を構えて、このあと越王国は紀元前334年に楚によって滅ぼされるまで約140年間この地で繁栄することになります。

このようなシナ大陸の東端の地で海洋民である越人がそれほどの長期間繁栄を続けることが出来たということは、海の向こうの土地と交易を行っていたということを意味しており、この海域においての交易相手は倭人商人であったはずです。
そして斉人とは違い、越人は高い外洋航海技術を持っていたので朝鮮半島南西部を経由して日本列島へもやって来たはずであり、主に北九州、更には一部は瀬戸内海沿岸や大阪湾までやって来ていたのではないかとも思われます。
この越人は南蛮、つまり東南アジア系の文化を持っていた部族なので、大規模な灌漑用の水路を引いて水田稲作を行う技術を持っており、高度な金属器の製造技術を有しており、高い戦闘技術も持っていたのです。そして戦闘技術と同時に、楚や呉との100年ほどに及ぶ戦争の結果、苦境から臥薪嘗胆で這い上がり計略を巡らし領土を広げ覇権を握ったという体験から培われた、ある種、戦争を肯定的に評価する思想を持っていたのではないかと思われます。少なくとも戦争というものにマイナスイメージは持たない考え方といいましょうか。

この紀元前473年以降、まず越人が山東半島付近で倭人と出会い交易を始め、次第に自ら日本列島方面へ乗り出していく航海ルートを開いていき、最初は朝鮮半島南西部へのルートを開き、そこに移住して生活する者も出現し、その後、対馬海峡を越えて北九州へ行くルート、あるいは五島列島を経由して直接に九州西岸に着くルートなどを開通し、西北九州に移住する越人も出現してくることになります。
その越人こそが日本列島に水田稲作を伝えた初期の弥生系渡来人の正体なのではないでしょうか。いわゆる弥生式土器という、縄文時代の土器とは一線を画したシンプルなデザインの土器も、朝鮮半島で使われていたタイプの土器を越人が日本にもたらしたものではないかと思われます。
古代のことですから何世帯かの冒険的越人が上記のような順番で西北九州に移住してくるまでに数十年かかっているでしょうし、それもさほど大人数でもないでしょうから最初は余所者として奇異な目で見られるだけでしょう。彼らの生活様式に倭人が理解を示してそれを本格的に取り入れてみようかと思うのに、更に数十年かかったとして、紀元前400年ぐらいになるでしょう。この頃から水田稲作の様式が西北九州に普及し始めるのです。

ここから「原始国家文明」と私が名づけた600年間の文明サイクルの「起の部」の150年間が始まるということになるのです。そしてこの時代は、先ほど触れた「縄文末期農耕文明」が「転の部」に入る頃ということにもなります。
紀元前700年ぐらいに倭人海洋民によって大陸から伝えられた畑稲作混合農業は、日本列島西部において狩猟採集業の補助的産業として受け入れられ、「縄文末期農耕文明」といえる生活スタイルを形成していました。これが普及して定着したあたりがこの紀元前400年ぐらいのことで、そこに西北九州に渡来した越人によって水田稲作がもたらされ、この縄文末期農耕文明の経験が水田稲作をスムーズに受け入れる下地となり、縄文末期農耕文明が普及していた西日本に水田稲作が普及していくことになるのです。
その水田稲作が西日本に普及していくのに要する期間がだいたいこの紀元前400年から紀元前250年頃までの約150年間で、この期間が「原始国家文明」の「起の部」ということになるのです。そしてこの150年間は縄文末期農耕が新来の水田稲作に切り替わっていく期間でもありますから、縄文末期農耕文明にとっても重大な転機ということになります。そういう意味で「縄文末期農耕文明」の「転の部」の150年間でもあるのです。

しかしこの新来の文明サイクルの名称が「原始国家文明」とある以上、この文明が単に水田稲作を普及して終わりというものでないことは明白です。水田稲作というものは非常に緻密な集団作業で、集落全体を統率するリーダーに大幅な権限集中が行われていき、それは統治階級というものを形成します。
また水田稲作に不可欠の灌漑水路の水資源の争奪によって他の共同体とのトラブルが生じやすく、統治階級の求心力を維持するためには組織的戦闘によってそれを解決するケースが増え、そうした組織的戦闘を通して更に統治階級の求心力が高まっていくことにもなります。
そして水田稲作の場合、一見、狩猟採集よりも進歩的なように見えますが、自然気候への依存度はむしろ高まることになり、農耕神への信仰が強まることになり、また農耕神と一体化あるいは連動したものとして部族の守護神たる祖霊への信仰も強まることになります。するとそうした祭祀を取り扱う階級が生じて、それが統治階級と一体化、あるいは密接な関係を持つことになります。
こうした水田稲作に関連して「戦争」と「祭祀」という要素を伴って生じてくる階級の存在する新しい共同体の形は、シナ社会の夏の時代に都市国家が発生した際にその周辺に成立した蛮族の酋長の小王国、つまり「邑」となった氏族共同体の、その原型のようなものだといえます。
これは厳密に言うとこの古代東アジア世界的な意味での「国家」といえるほどのものではありません。そういう意味での「国家」というものはあくまで交易拠点としての都市国家を中心に据えて周辺に邑、つまり農村共同体が付随して成り立つものであるからです。
そして、この農村の氏族共同体が邑や小国家といえるほどのレベルにまで成熟するためには中心の交易都市の存在が不可欠であるわけですから、その中心がまだ存在していないこの日本の紀元前400年以降の状態は、あたかも餡の入っていないアンパンのような状態であり、パン生地である氏族共同体しか存在していないその状態は小国家の原型の段階であり、国家以前の原初の共同体の段階であるといえます。そういう意味でこの段階の文明スタイルの名称として「原始国家文明」と名づけることにしたのです。
この「原始国家文明」の文明サイクルが紀元前400年から始まって、それが「起の部」を経て紀元前250年ぐらいから「承の部」に入り、その「承の部」が終わろうとする紀元前100年ぐらいから次の「部族国家文明」が興ってくるのです。これがはじめて本来の意味での「国家」といえる存在、つまり一般的な都市国家の出現ということになるのであり、紀元前400年から始まる「原始国家文明」はその「部族国家文明」の前段階の文明なのだといえます。
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