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日本史についての雑文その155 国家形成システム
小国家の前段階の農村氏族共同体というものは、交易都市が建設されて都市国家を中心とした王国が形成されていく以前の東アジアの農耕文化圏に自然発生的に偏在していたものですから、本格的に農耕文化に参入する以前の倭人社会にはそうしたものが存在しなかったのは当然であり、そしてこの紀元前400年以降に本格的に農耕文化に参入していった倭人社会にそうした農村氏族共同体と同じタイプの原初的な共同体が生まれてくるのも、また自然の理として当然なことなのでした。
ただ、ここで疑問点は、倭人がこの水田稲作という農耕スタイルを受け入れたのは何故なのかということです。もともと縄文時代の原日本人、つまり倭人は農耕も稲作も知らなかったわけではなかったのです。知っていて、それでもあえて本格的には受け入れていなかったのが実情であったのです。
あえて農耕を本格的に受け入れていなかった理由としては、まず基本的に日本列島が農耕に頼らなくても自然の恵みが豊富であったということもありますが、本格的な農耕社会が戦争などの厄介事を伴うものだという面を警戒していたのではないかと思われます。組織的な戦争を知らないし知る必要も関わる必要性もなかった倭人社会においては、戦争というものは単なる厄介事としか認識されていなかったのでしょう。
そうした厄介事を伴うものであると知りながら水田稲作を結果としては受け入れているわけですから、よほど受け入れる必要性があったのかと考えがちです。つまり、日本列島が寒冷化して自然の恵みが豊かでなくなって狩猟採集だけでは生活を維持できなくなったので水田稲作を受け入れることになったというような推測が考えられます。
しかし実際には紀元前1500年ぐらいからそれまで活発であった太陽活動が弱くなり気候が寒冷化するようになり、これが日本列島では縄文時代の晩期にあたり、つまり縄文末期農耕文明の時代から既に日本列島は寒冷化が始まっており、この紀元前400年以降の弥生時代に入っても平均してその気候状態に大きな変化は無かったのです。いや、むしろしばらくした後には気温は上昇していくことになるぐらいなのです。
本当に狩猟採集だけでやっていけないような自然条件になっていたのなら、縄文末期農耕文明の時点でもっと農耕が主流になっているはずなのですが、結局その時期には農耕は主流にはなりませんでした。日本列島におけるこの時期の寒冷化は水田稲作を受け入れざるを得なくさせるほどには深刻なものではなかったということになります。つまり気候の変動は水田稲作受容の原因ではなかったのです。
そして、この弥生時代の水田稲作そのものの生産性を調査してみたところ、実際に弥生人が米の飯を口にすることは少なく、相変わらず狩猟採集で得た産物に縄文末期農耕で得た作物のほうが主で、それを補完するような感じで水田稲作で収穫された米が消費されていたことが分かっています。つまり、弥生時代のレベルの水田稲作では倭人の食糧事情を大きく改善する力は無かったということになります。そうなると水田稲作はどうしても受け入れなければならないような絶対に必要なものではなかったということになります。
ただ、ちょうどこの紀元前400年前後というのは太陽黒点周期のギリシア極小期にあたり、一時的に地球がひときわ寒冷化していますから、それが水田稲作を受け入れるきっかけにはなったかもしれません。ただそれは紀元前700年前後のホーマー極小期において縄文末期農耕文明を受け入れた場合と似たような条件なのであり、その際にも結局は農耕は主流のものにはなり得なかったのですから、この紀元前400年時点で水田稲作が倭人の生活を一変させるような受容のされ方をしたことについての十分な説明にはなり得ないのです。

とにかく当時の倭人社会にとってはおそらく水田稲作による米の収穫そのものはそれほど魅力あるものではなかったのでしょう。まぁ魅力はあるにしても、是が非でも手に入れなければいけないようなものではなかったはずです。
むしろ倭人が求めていたものは、水田稲作も不可欠の要素として含んだ「国家形成システム」全体だったのではないでしょうか。シナ大陸で展開されていたような国家形成の動きに倭人も参画しようという意思を持ったのではないでしょうか。
しかし、もともと倭人はそういう国家や戦争などというものは厄介事だと思って忌避していたはずではなかったでしょうか。では、どうしてそういう心境の変化が生じたのかというと、まず倭人も紀元前771年以降のシナ大陸の春秋時代の争乱とその一方での社会変革について情報を得ていたという要素はあります。別に倭人はシナ大陸に対して門戸を閉ざしていたわけではなく、海洋民でもあった倭人はむしろシナ大陸の斉国などに出向いて大陸の情報は逐一得ていたと考えたほうが自然でしょう。
そこで倭人はシナ大陸の状況を見て、まず国家というものは自然の恵み以上の豊かさをもたらすシステムであり、しかも日本列島のような自然の恵みの豊かさや豊富な人口があればより強力な国家形成が可能であるということに気づくようになったのです。
但し、国家を形成した場合、国家と国家の間では戦争というリスクがついて回るという問題はあり、また、実際に国家を形成するには日本列島の状況においては具体的にどのような手順でやっていけばいいのかが倭人にはよく分からないという問題もありました。それまで農耕も国家も本格導入は拒否して狩猟採集を主にやってきたのですから、それは仕方ないことでした。

そういう状況の日本列島の倭人社会に、紀元前400年の少し前ぐらいになってシナ大陸から越人がやってくるようになったのですが、シナ大陸の後発の新興国家であった越国の興隆してきた軌跡には、倭人たちが参考にするのに適したマニュアルが存在したのです。
越人の住んでいた長江下流域はもともと中原の都市文明の影響をあまり受けておらず、都市国家のシステムは存在していませんでした。都市国家のシステムを越の地にもたらしたのは紀元前600年ぐらいにこの地に勢力を及ぼしてきた楚でした。その後、越は急速に強大化し紀元前500年ぐらいには楚を圧倒するまでの勢いになりました。その後一旦は呉に敗れて滅亡寸前になりましたが盛り返して紀元前473年には中原の覇権を握るまでになったのです。
この越国の歴史は越人にとっては誇らしいものであったでしょう。紀元前400年の少し前に日本列島の北九州にやってきて倭人の前に現れた越人たちはこの自国の栄光の歴史について自慢げに語ったことでしょう。彼らがそうやって倭人の地にまでやって来るまでになったことそのものが、越国が支配地を大幅に北へ拡大した結果なのですから、そのことについて触れないはずはないのです。倭人に「お前たちは何者か?」と質問されて、自分たちの来歴と倭人の地へ至った経緯を語ることそのものが自然と自慢話になるのです。
ちなみにこの倭人と越人の会話が何語でなされたのかですが、これはおそらく基本的には、シナの定期市の共通言語であった夏人の言語であったでしょう。倭人も越人も全員がこの夏人語を理解していたということはなかったでしょうが、少なくとも双方とも、シナの都市国家で定期市に参加していた商人はいたはずであり、彼ら同士ならば、おそらく双方とも酷い訛りではあったでしょうが、なんとか会話は成立したはずです。
そのようにして話された越人の冒険者たちの自慢話を北九州の倭人たちは興味深く聞いたはずです。もともと外来の文化については好奇心旺盛な性質が縄文時代を通して形成されていましたし、外来のもので「良きもの」があれば自らの文化の改善のために活用するという行動パターンは確立されていました。
倭人たちはシナ大陸のように「国家を作ること」についても興味深く思っていたのですが、これといって自分たちに応用可能な方法論が見当たらなかったので距離を置いていたのですが、この越人の話には惹きつけられるものがあったのではないでしょうか。都市文明にあまり縁のなかった後発の越人たちのサクセスストーリーは倭人たちにとって魅力的であったはずです。

越人たちの成功の秘訣は何であったのか。それは、もともと長江下流域で水田稲作を盛んに行うことによって階級性が強く非常に機能的な農村の氏族共同体を広範囲に作り上げることが出来ていたので、楚が都市文明をもたらした時に、その農村氏族共同体がスムーズに都市国家を取り巻く小王国へと発展し、急速に大規模な支配領域を有した強力な王国を作り上げることが出来たことです。
もちろん、そうした強力な王国を作り上げていくためには多くの農村氏族共同体や小国家を統一して王権を打ち立てていかなければいけないわけで、その過程で激しい戦争も生じたわけです。特に越においては優れた鉄器が存在したため、それが武器に使用されて戦争は激しくなりました。
しかし、そうやって戦争が激しかった故に、勝敗や優劣がハッキリし易く、早めに決着がついて急速な統一で安定した強大な王権が成立するというメリットがあったのです。また鉄器は生産用の農具や土木用具などにも使われましたから、そうした技術革新で生産性も上がり豊かさをもたらすというメリットもありました。そして越人の海洋民としての交易能力は豊かな生産性を富に変えることを容易にし、強大な王権が交易を支配することで王権は安定して、鉄器による強大な軍事力も相まって、越国は中原の覇者にまで急速に成長したのです。
つまり、まずは水田稲作を導入して機能的な農村氏族共同体を広範囲に展開しておいて、そこに鉄器による軍事革命と生産革命を起こして、交易拠点としての都市国家を建設して、急速に強大な王権を作り上げるというのが、越人のサクセスストーリーの方法論だったわけです。もちろん、最初の農耕スタイルが水田稲作でなくてもいいわけだし、金属器は鉄器でなくてもいいのかもしれません。しかしとにかく越人は結果的にせよ、この方法論で成功してきたわけだし、この方法論しか知らなかったのです。
そしてこれは現代の視点から見ても、結構合理的な方法論のように思えます。ですから、おそらく紀元前400年の倭人たちもそれが合理的な方法論に思えたのではないかと推測されます。つまり、この越人の方法論は倭人にとっては外来の「良きもの」であると認識されたのです。
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