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日本史についての雑文その156 水田稲作の普及
そういうわけで北九州の倭人たちは越人の移住者に協力を請うて越スタイルの国家作りの道を歩み始めることにしたのです。そのためにまず最初に手がけなければいけないことは水田稲作の普及でした。水田稲作はそれ自体が必要であったわけではなく、越スタイルの国家形成システムの一環であり第一歩の基本でもあったのでした。そういう意味合いで倭人社会に受容されていったのです。
実際、弥生時代の初期にどうして倭人が水田稲作を受け入れたのか、合理的な説明は無いのです。例えば環濠集落などは弥生時代初期において何故作られたのか謎なのです。わざわざ入り組んだ灌漑水路を作って環濠にその流れを引き込んだり、そこまで手間をかけても水田稲作自体に大した生産性があったわけではないのです。まるで、わざと手間をかけた共同土木作業をすることによって共同体の一体感や機能性を高めていくことが目的であったのではないかとも言われていますが、案外それが正解なのではないでしょうか。まず共同体作りが第一の目的であり、そのための方法論として水田稲作システムがあったのではないでしょうか。

こうして紀元前400年頃から北九州に水田稲作が普及していったのです。まずは水田稲作を行うことを通して農村に氏族共同体を作っていくことが目指されたのです。そういう方向性が最初からありますから、農村共同体単位で機能的な灌漑システムを整備し、環濠集落を作っていきました。また鉄器を越人から仕入れるようになり農具を改良して生産性を上げていきました。青銅器は農具としては不向きでこの時期は需要が無かったようで入ってこなかったようです。青銅器は後に祭祀で使われるようになります。
そしてこうした金属器の製造技術や入手経路を持ち、灌漑や治水などの共同作業でリーダーシップを発揮し、祭祀において重要な役割を担当する支配層が次第に形成されるようになっていくのでした。
こうして農村共同体が形成されていくようになると、次はそこにシナ大陸との交易拠点としての都市国家がやって来れば、農村共同体は小王国に発展して、これら小王国と都市国家の連合体として王国が形成されることになるのです。
この場合、倭人社会にシナ大陸と繋がる都市国家を誘致してくる役割を担うのは越人のはずだったのです。ところがここで思わぬことが起きました。北九州の倭人社会で水田稲作が普及して、やっと農村共同体の構築が本格化しようかという程度の段階、つまりまだまだこれからという段階で、紀元前334年にシナにあった越王国の本国が楚によって滅ぼされてしまい、越人は四散してしまったのです。

これは呉や越が台頭して中原に勢力を伸ばすに伴って、その製鉄技術が流出していって、それによってシナ大陸の他の諸侯達の国家も鉄器を入手してそれを武器に使って強力な軍隊を組織したり、農具や土木用具を革新して生産力を一気に上げたりして、とにかくちょうど北九州の倭人社会で水田稲作が始まった頃に、シナ大陸では時代は春秋時代から戦国時代に移行し、一気に群雄割拠の戦乱の時代になっていたのです。
そうした中で越王国は紀元前334年に滅んでしまったわけであり、もともと越王国の支配地域であった長江下流域から山東半島南端地域までの海岸地帯は楚の支配下に入りました。楚は越の西に位置していましたから西から東に攻め寄せてくるわけで、越人の難民はそうなると東に逃げることになるのですが東は海です。つまり海洋民の越人は海に逃げ出すわけであり、南北に縦長の越王国旧領の南半分から逃げ出した越人は東シナ海を南下して福建省や広東省のあたりに行って閩越王国や南越王国を作りました。一方、越王国旧領の北半分、つまり山東半島方面から逃げ出した越人は、おそらく黄海を渡って朝鮮半島南西部や日本列島へ逃げてきたと思われます。
これらの越人が避難していった地域は中原を中心としたシナ交易圏、つまり中華世界の外に位置しており、つまり越人はシナ世界からは弾き出されてしまったのであり、これで越人の一部は日本列島へやって来て倭人に同化して日本人の一部になっていったのであり、倭人たちはこの紀元前334年以降は従前通りに越人から水田稲作や金属器、農村共同体作りなどについて学ぶことは出来たのですが、越人がシナと繋がる交易拠点を引っ張ってくるなどということは無理になってしまいました。
まぁこの時点ではまだまだ日本においては水田稲作の普及も狭い範囲でありましたし、農村共同体の形成も十分な段階ではありませんでしたから、越王国が滅んでしまったことによるデメリットはあまり表面化することはありませんでした。むしろ越人が難民としてたくさんやって来たので技術導入の面ではプラス効果のほうが大きかったでしょう。
この時点では日本列島側のほうが物産が豊かであったので越人商人がやって来てシナの物産を持ってきたとしても倭人側に大してニーズはありませんでした。倭人が求めていたものは物産よりも国家形成に至るノウハウや技術であり、それらは越人の難民によってもたらされて倭人社会で育っていったのであるし、足りないものに関しては倭人商人がシナ大陸へ出向いて調達することも出来ました。
こうして越人たちは多く日本列島へやって来て、故国を無くした難民でしたから倭人社会や、あるいは朝鮮半島南西部の社会に協力していきつつ混血し同化していったのでしょう。本拠地が健在であればこれら地域に統治権を打ち立てることも可能であったかもしれませんが、いかんせん本拠地の無い難民であれば同化していくしかなかったことでしょう。
実際、DNA調査でも弥生時代の渡来人のうち最も多いのは山東半島や長江下流域からやって来たと言われており、越王国の版図とピタリと重なります。そしてそれら地域から朝鮮半島南部を経由したルートは、学術上推定される水田稲作の伝播ルートとも符号するのです。

こうして日本列島における「原始国家文明」の「起の部」は紀元前400年に始まって、とにかくまずは水田稲作を西日本に広めていき、その水田稲作地域において農村氏族共同体の基礎を形成していくことに費やされることとなり、もともと縄文末期農耕文明という下地があった地域の西限であった三重県ぐらいまでその普及が行き渡ったところで「起の部」を終えて次の「承の部」の段階に移行していきます。
その移行時期が紀元前250年頃のことであり、この時期から農村の氏族共同体の重要な要素である戦争や祭祀、交易などの要素が目立ってくるようになるのです。ただ、それはシナ大陸の交易圏と繋がったものではなかったという点で、当初予想されたものとはやや違ったものとなっていくのですが。
こうして、この原始国家文明の「起の部」は水田稲作の普及にその期間が費やされることになるのであり、それは単に農耕の新技術を導入したという意味合いのものではなく、国家形成へ至るステップとしての意味合いのものであったのです。そういう意味で「原始国家文明」の「起の部」ということになるのです。これを受けて次の「承の部」では実際に原始的国家共同体が作られていくことになります。

また、そのように水田稲作が普及していくにつれて、元来の縄文末期農耕文明の生活スタイル、すなわち狩猟採集が主で畑稲作混合農業が従という生活スタイルは変化を余儀なくされていくことになりました。しかしそれは対立的なものではなく、むしろ水田稲作を加えることで縄文末期農耕文明のスタイルはより洗練され完成されていったと解釈したほうがいいでしょう。
何故なら先述のように当時の水田稲作の生産性は低く、水田稲作は他の生産手段の補助的なものに過ぎなかったからです。だから水田稲作の生活スタイルが従来の縄文末期農耕文明の生活スタイルを駆逐していったのではなく、むしろ融和し融合して、より良きスタイルを生み出していったのだと考えられます。そういう意味で、この時期は縄文末期農耕文明の「成熟と完成の時代」という意味での「転の部」という側面も持っていたということになります。
つまり、この時代は実生活的には縄文から弥生へと劇的な変化があったというよりも、水田稲作という新技術を加えて縄文末期農耕文明が完成していきつつ、国家形成への第一歩を踏み出していった時代なのだといえるでしょう。
こうした融和的傾向はこの次の紀元前250年以降の原始国家文明「承の部」(縄文末期農耕文明「結の部」)になっても基本的には同じで、水田稲作文化を基調とした原始的国家共同体が作られていくようになっても、その中に縄文末期農耕文明のエッセンスは消化吸収されていくことになり、シナ大陸の国家共同体とは異質な日本的な国家共同体が形成されていくことになるのです。

つまり縄文時代から弥生時代への移行において大きな変化はあったものの、日本文明の核の部分は変わらなかったわけであり、これは要するに他民族の征服などによってこの変化がもたらされたわけではなく、あくまで変化の主体が日本列島の住民であった倭人であったということを意味しています。
もちろん越人という渡来人の役割は重要なものでしたが、越国の滅亡というアクシデントもあり、彼ら自身が倭人に同化していったのであるし、また先述のように越人の役割を倭人が代替できる部分もかなりあり、越人の果たした役割は重要なきっかけではあったが絶対的なものではなかったというのが正当な評価というところでしょう。あくまで変化の主体は倭人であったということになります。
これは別に倭人が民族的に優秀であったとか、日本文明が当時において既に特別に強固なものであったとかいう意味のものではなく、これはやはり「海」という障壁の果たした役割が大きかったということなのでしょう。海によって外部の刺激が入りにくいので、どうしても変化の継続的な主体は国内勢力にならざるを得ない宿命があり、それによって日本文明の核は変化しにくいものとなるのです。

ここで先だって定義した「起の部」の時代相について振り返ってみますと、B文明からC文明への移行の際、C文明の「起の部」は同時にB文明の「転の部」でもあるから、その時代のフェーズは、C文明を象徴する外来価値観を吸収してC文明が登場すると同時に、伝統的価値観によってB文明を象徴する外来価値観が日本化されつつB文明が成熟していく時代であるという重層的構造になっているという定義になっていました。
これをこの縄文末期農耕文明から原始国家文明への移行時に当てはめてみると、この紀元前400年から紀元前250年にかけての期間は、原始国家文明の「起の部」であると同時に縄文末期農耕文明の「転の部」でもあるから、その時代のフェーズは、原始国家文明を象徴する外来価値観を吸収して原始国家文明が登場すると同時に、縄文末期農耕文明以前の日本列島における伝統的価値観によって縄文末期農耕文明を象徴する外来価値観が日本化されつつ縄文末期農耕文明が成熟していく時代であるという重層的構造になっているということになります。
原始国家文明を生み出すきっかけとなる外来の刺激となる外来価値観とは、越人のもたらした「水田稲作を柱とした国家形成マニュアル」ということになりますが、これが原始国家文明の時代を象徴する外来価値観でもあるということになるのです。それはこの次の「承の部」にもたらされる更なる強い外来刺激との共通項や、次の文明である「部族国家文明」においてもたらされる外来刺激の性格との相違点などを鑑みて、この「原始国家文明の時代を象徴する外来価値観」とは一言で言えば、「皇帝制度創設以前のシナ地域の古来の諸文明の価値観」ということになります。越人の持っていた価値観もそのうちの1つであったというわけです。これについてはまた後で触れます。
そうした価値観の渡来をきっかけにして、そういう価値観を吸収して原始国家文明が登場してくる時代であるというのは理解いただけるものとは思いますが、これが同時に縄文末期農耕文明の持つ外来価値観が日本列島の伝統的価値観によって日本化されて成熟していく時代という意味合いは分かり難いとは思います。
これはつまり、狩猟採集に補助的に畑稲作を組み合わせた縄文末期農耕文明が紀元前700年あたりに入ってきて定着していく以前に日本列島において形成されていた伝統的価値観というものの正体の詳細が不明なので、なんとも分かり難くなるのです。
しかもその上にこの紀元前400年から紀元前250年の時代の出来事も詳細が不明で、実際にこの時代の水面下でそうした質的変化がどのように起こっていたのかの記録が全く残っていないのですから、なんともさっぱり分からない記述になるわけです。
そういうわけで、この部分に関しては全くの想像で書いてみますと、縄文末期農耕文明以前の日本列島の伝統的価値観というのは、自然界の精霊を祀る精霊信仰であり、その精霊信仰が縄文末期農耕文明に影響を与えて、農耕神としての穀霊や地霊への信仰を生み出していった時代なのではないでしょうか。
何故そのように考えるのかというと、この時代において縄文末期農耕文明内に生じた農耕神への信仰という化学変化が、次の原始国家文明「承の部」(縄文末期農耕文明「結の部」)において原始国家文明の中に吸収消化されて水田稲作文化における農耕神への日本的な信仰形態を生み出すきっかけとなり、それがその次の原始国家文明「転の部」で政治性を帯びた日本的な祖霊祭祀へと発展する基礎となるからです。
この原始国家文明のほうにおける信仰の変遷はだいたい歴史的事実なのですが、それに辻褄の合う形でこの時代における縄文末期農耕文明の日本化と成熟という局面について少し仮説を立てるとこういうことになるということです。まぁ間違っているかもしれませんが。
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