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日本史についての雑文その159 氏族社会の解体
こうした朝鮮半島や、そしてひいては日本列島の状況にも大きな変化をもたらすことになるのがシナ大陸の状況変化なのですが、ここで一旦時代を遡って紀元前473年に越王国が覇権を握った後の中原の状況から見ていきます。
越が覇権を握ったといってもそれは中原の諸侯の盟主としてのものであり、別に他の諸侯を支配したというわけではありませんので、絶対的なものではなく相対的優位状況に過ぎず、越も名君の勾踐が紀元前465年に死去すると中原ではそれほど振るわなくなりました。

その後、中原で勢力のあった晋において大夫階級同士の内戦が激化して、それに君主であった晋の出公が巻き込まれる形になり、この内戦を勝ち残った有力な大夫であった魏氏、韓氏、趙氏の3氏が紀元前452年に出公を追放して晋国を乗っ取ってしまいました。3氏はそれぞれ魏、韓、趙の3国を建てて、紀元前403年には正式に諸侯に列せられました。同じ頃、紀元前405年には斉でも内乱が生じて、紀元前386年には有力な大夫であった田氏が斉の王族を追放して斉国を乗っ取ってしまいました。
だいたい歴史学者はこのあたりを春秋時代から戦国時代への移行期と見なします。こうした下克上的な現象は春秋時代の後期に特徴的な現象で、その流れが極まって起こってきた現象なのだといえるでしょう。真に戦国時代を特徴づける現象はこれらとはまた別にあります。

春秋時代は氏族社会が解体して諸侯が直接農民を支配していく過程であったのであり、戦国時代にはその傾向が極端に進み、結局は秦の始皇帝によってシナ専制支配体制が作られていくことになったわけですが、戦国時代は単純に春秋時代の延長線上のものではなく、やはり両者間には大きなギャップがあり、大きなパラダイムシフトがあったように思われます。
そのパラダイムシフトをもたらしたと推測されるのが先述の太陽黒点周期のギリシア極小期です。これは紀元前400年あたりを最大規模とする太陽黒点の激減期で、つまり太陽活動が非常に低下して地球が寒冷化した時期ということになります。しかもこのギリシア極小期は、他にも有史以来、その前にもその後にも様々な太陽黒点活動の極小期はありましたが、その中でも最も太陽黒点の数が少なかった極小期であり、つまりは有史以来現在に至るまで、最も地球が寒冷化した時代ということになります。
このギリシア極小期が縄文末期の日本にとうとう水田稲作を本格導入させたきっかけの1つになったということは先述しましたが、元来が気候温暖で産物豊富な日本列島であったからその程度で済んだのでしょうが、もともと大して生産性が高いとはいえなかったシナ大陸北部の中華エリアの農耕や遊牧などの古代農業は壊滅的な打撃を受けたことは想像に難くありません。
しかし、人類というものはそうした危機によって逆にパラダイムシフトを起こして巻き返しを図る生物であり、それによって社会を発展させてきたのです。ただ、その「発展」というものが必ずしも人類自身を幸福にするものでない場合もあるのですが、しかし危機の時代においてはその選択に多くの選択肢が用意されているわけでもなく、躊躇も許されるような状況でもありませんから、結局は否も応も無く、その「発展」の道を歩むことになる場合が多いのです。

紀元前400年頃にシナ世界に訪れたのはそうした危機的状況であったのでしょう。それはおそらく大飢饉の発生によって従来型の氏族共同体単位の農業スタイルを壊滅させ、それによって大量に発生した家族単位の独立小農民に新しい農業スタイルの模索を強いることになったのでした。
それは更なる耕地の拡大と新技術導入によって危機的状況を打開していこうというもので、耕地の拡大は外部勢力との軋轢を生み、新技術導入には強大な指導力が不可欠でした。こうしたことから小農民たちは今までよりも更に強大な権力による庇護と指導を求めるようになったのです。
具体的に言えば、まずは呉や越から流出した技術で作られるようになった鉄製農具の普及がなされたのですが、大量に鉄製農具を製作し供給するためには諸侯の大きな権力機構が必要であり、また、そうした農民のニーズに応えられた諸侯のみが多くの農民を取り込むことが出来て生き残っていき、更に強大化していくことが出来たのでした。
そして、そうした鉄製農具を持って新耕作地を開墾していこうとする農民を多く抱えるということは、今までとはケタ違いの規模の土地トラブルを抱え込むということでもあり、その解決手段として諸侯は今までにない強大な軍事力を持つことも求められたのでした。
ここにおいて、鉄製の武器が大量に作られて使用されるようになったのです。そして兵力も大規模化しました。そもそもこの時代の戦争の原因自体が春秋時代のような氏族同士や諸侯同士の勢力争いではなく、農民の土地争いが原因なのです。つまり戦争の当事者は氏族ではなく農民各自であるということになります。そうなると農民の問題を解決するためには農民自身が戦うのが道理というもので、春秋時代には戦うのは氏族の戦士であったのが、この戦国時代になると一般の農民が戦争の主体になるようになります。
つまり諸侯は直接に農民を集めて軍隊を編成するようになったのです。春秋時代までは配下の氏族の連合軍を諸侯が指揮するという形であったので、氏族の意思というものが介在する余地があり、氏族の族長の判断で諸侯を裏切るということもありました。しかしこのように諸侯が直接に個々の農民を兵士として使う場合、諸侯への忠誠心のみを持った強力な直属軍を大規模に編成することが可能になったのです。
農民たちも戦争に参加して勝利に貢献することは、自分たちの農地を守ることに直結するわけで、兵士として戦う意義は十分にありました。氏族社会に庇護されることのなくなった農民たちの意識はそのように変化していったのでした。氏族社会に頼らずに自分自身が開墾し、自分自身が戦って守った土地に対する強い権利意識が農民に芽生えたのでした。こうして農民階級の社会的地位は向上していきました。

そうやって勃興してきた農民階級を取り込んで強大化していった諸侯は次第に「王」と称するようになっていき戦国の群雄となっていき、周王室の天子の権威を軽んじるようになっていきました。それは結局、群雄たちが小農民を直接支配するようになって氏族社会が崩壊し、氏族社会の中に保持されていた伝統的な身分社会の価値観が失われていったという社会全体の風潮を反映したことであったのです。
また、氏族社会の崩壊によって、それまで氏族単位で行われていた商工業にも一般庶民が参入するようになり、多くの人が携わるようになった商工業は大きく発展し、シナの都市国家の商業ネットワークでは巨額の富が動くようになっていき、貨幣経済が発展しました。
そこで諸侯たちは更なる土地や人民、そして都市の商業ネットワークの利権を得るために他の諸侯と戦うようになっていきました。
その戦争に勝つために諸侯は自国の富国強兵を図るようになり、そのために身分を問わず優秀な人材を求めるようになりました。そのようにして現れてきたのが諸子百家なのです。彼らの多くは諸侯や大夫のような従来の支配階級ではなく、「士」という今までは氏族社会の中で支配されていた階級の出身でした。土豪のような階級といっていいでしょう。
そうした「士」出身の様々な分野のスペシャリストがその実力や才覚で諸侯に直接仕えるようになり官僚になっていきました。つまり君主が出自や身分に捉われず才能ある人材を官僚として登用するようになったのです。こうして「士」の身分が向上すると共に、官僚制に支えられて諸侯の君主権も大きくなっていきました。
そして諸侯は戦争に勝つためにより多くの兵力を求めるようになり、氏族の戦士だけでなく農民も兵士として使うようになりました。ギリシアのポリスの例などでも分かるように、兵士になるというのは国家の意思決定に参加するということで一種の権利でしたから、農民の権利の拡大を意味していました。しかも兵士になれば給料も貰えるわけですから、農民は戦うことによって氏族社会の庇護が無くても生きられる自立した存在になれるのです。また手柄を立てれば地位も上がり権限も増え富を蓄えることも出来ました。実際、戦国時代の有名な将軍には農民や士のような身分の低い出自の者が実力本位で登用された例が多く存在します。
こうして諸侯は直接に人民に対して兵役を課するようになり、人民もそれに喜んで応えるようになっていきました。また、兵役だけでなく、税も邑を経由せずに人民が諸侯から給付された公田に見合った税納付分を諸侯に直接納めるようになっていきました。
このように諸侯が氏族社会を経由せずに直接に人民を支配する専制支配体制が確立されていきました。そしてこの支配体制を実際に運営していくのが、低い身分から実力主義で登用された官僚たちであったのです。つまり君主専制体制と中央集権官僚制が生まれてきたのです。
これは確かに低い身分であった士や人民の社会的地位の向上でありました。今までは氏族社会に阻まれて被支配階級に甘んじていた彼らが直接に君主と繋がることによって大きな権利を得るようになったのです。しかしそれは同時に、氏族社会という伝統的な中間組織の解体と、君主への権限の極端な集中も生み出しました。
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