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日本史についての雑文その160 郡県制
人民の権利の拡大と中間組織の解体が同時進行していった先に専制支配体制が到来するというケースを私達は既にフランス革命の検証をした時に見てきました。氏族社会という伝統的中間組織に保持されていた伝統的道徳観は新興の人民層には尊重されることはなく、戦争はルールや道義なきものとなりひたすら社会を破壊していく暴力となっていき、個々のアトム化された人民たちは強大になった君主によって結局は奴隷のような存在に落とされていったのでした。中間組織にこそ自由は存在したのであり、君主の前に全ての人民が平等であるという社会体制は、平等というものが自由とは根本的に相容れないために、自由が圧殺された全体主義体制に堕するのです。
古代シナにおいても、いや古代世界のどこにでも奴隷は存在しました。奴隷は例えば戦争で滅ぼされた部族の生き残りや、生まれ育った場所から誘拐された者などが奴隷として売り飛ばされたりしたのです。つまり部族や地域社会、家族などから切り離されて個人になってしまった者は古代においては非常に奴隷化しやすい存在であったわけです。
部族や地域社会などというのはつまり中間組織のことです。氏族社会という中間組織が崩壊して個々の存在として君主権と向き合うことになった戦国時代のシナの人民達は、戦争に負けたり誘拐されたわけでもないのに、通常の状態において既に非常に奴隷化しやすい状態であったといえます。いや、実質的には君主によって知らないうちに奴隷にされているのに、本人たちがそれと意識していないだけなのかもしれません。そして戦争に負けて頼りの君主がいなくなった時にはじめて自分が奴隷であったことに気づくのです。
そうした人民奴隷化のきっかけが人民の権利拡大とそれに伴う中間組織解体にあり、この体制の特徴が君主の前での人民の徹底した平等、つまり実質的な人民の奴隷化と君主の権限の絶対化、そしてその体制維持の手法として中央集権体制と官僚制が採用されているという点で、これはまさに全体主義体制そのものだといっていいでしょう。
こうした中間組織を解体した独裁型の全体主義的民主主義の対極に位置するのが、中間組織を温存してコンセンサスを重視するタイプの合議制民主主義ですが、こちらのほうが人類社会の原初の形に近いもので、こうした自然な形が温存されていったのが日本やゲルマン諸族などの、古代文明の時代においてはどちらかというと辺境に位置した部族であったのです。古代シナ社会は逆にこの時代において、文明の中心においてあまりにも変化しすぎて誤った方向に行き着くところまで行き着いてしまった観があります。

こうした中間組織の破壊と人民の奴隷化を完成させていった国家ほど、より多くの人民を動員して土地開発を進めることが出来、またより多くの兵力を動員して戦争で勝利していくことが出来るのであり、それによって更に多くの権益を得て富強になっていったのです。
例えば紀元前400年頃から始まった戦国時代の初期に最強国となったのは、最も開発の進んでいた中原地帯を領有していた魏でした。開発が進んでいたから豊富な軍資金を持っており鉄製武器も多く揃えることが出来た上に、更に新兵器として「弩」という大きなボーガンのような兵器を開発し量産し、戦争の素人の農民兵でも簡単に使用することが出来たので有用で、これを常備した魏軍は無敵でした。
しかし他国も「弩」を使うようになり鉄製武器も普及するようになると、まだまだ未開発地帯を多く抱えている辺境の諸国のほうが力をつけてくるようになりました。そして魏の致命的欠点は、王以外にも有力な大夫階級が多く残っていたために、王への権限集中が不完全で、総力戦を戦える態勢をなかなか取れず、内輪もめが絶えないことでした。魏内部の権力争いに敗れた有力者や知識人は辺境の国家へ亡命していきました。そのほうが優遇され身の安全が保障されるからです。こうして魏は人材も失っていき弱体化していきました。
そうして紀元前353年に斉に敗れてから魏は勢力を失っていき、代わって辺境に位置して未開発地を多く抱えていて有力な大夫が少なかった秦、楚、斉、趙が台頭してきました。
これら戦国時代に台頭してきた強国では国王への権限の集中が著しく、氏族社会が崩壊しましたので、交易拠点である都市国家も全て国王の直轄都市となり、「県」と呼ばれるようになりました。それまでは各氏族が治める都市国家ネットワークの盟主として国王が君臨していたわけですが、それが国王が都市国家を「県」あるいは「県城」として直接統治するようになったのです。もちろん国王の代理として実際に各都市を治めたのは「県令」という名の行政官僚たちでした。
そして、従来は都市国家の防衛や治安維持を担当していたのは都市国家を支配していた氏族の戦闘部隊であったのですが、氏族社会崩壊後は、国王直属の農民軍が「県」の防衛や治安維持の任にあたるようになりました。そうした国王軍の軍管区が「郡」という単位で、1つの「郡」の管轄地域の中に複数の「県」が含まれ、「郡」の司令官である軍事官僚の「太守」はそれらの「県」の防衛に責任を負い、行政権も有していました。こうした「郡」と「県」によって国内を統治する制度を「郡県制」というのです。
戦国時代というのは、有力な諸国がそれぞれ国内で郡県制を敷いて国内の商業利権と軍事権を独占して対抗し合っていた時代であり、これが結局、秦による天下統一の後で秦の郡県制が全土に拡大して施行されていくことになるのです。

これら戦国の群雄の中で最も強大化したのは西方に位置した秦でした。紀元前359年から政治改革を断行して国力を増大させ戦争にも連勝し、魏や韓や楚から領土を奪い、騎馬戦術を採用していた趙と睨み合うようになりました。
北方に位置していた趙は紀元前325年に即位した武霊王によって北方の騎馬遊牧民、つまり騎馬民族の戦法を取り入れました。それは常に兵士が馬上にあって馬上から弓矢で攻撃するという機動戦法でした。シナの中原の諸国では馬に直接またがるのは野蛮人の行いとして蔑まれており、戦車を使いこなすことが求められていたので、この騎馬戦法導入は画期的なことでした。
ここで間違えてはいけないのは、例えば日本の戦国時代の武田騎馬軍団などというものは本来の騎馬戦法ではありません。あれは歩兵も混じっているので、結局全軍としては歩兵の足に合わせた行軍しか出来ないのであって、せっかくの騎馬隊の機動性を活かせていないのです。騎馬隊の最大利点は機動性なのです。それを活かさない騎馬戦法は騎馬戦法とは言えないのです。
北方騎馬民族の騎馬戦法は全兵士が馬に乗っていますから、歩兵の混じった部隊とは機動力が全く違うのです。まさに神出鬼没、神速といっていいでしょう。人間の体というものは脆いもので武器の攻撃にはひとたまりもありません。互いに武器を持って戦えば腕力の差などあまり大きな要素ではなく、いかに早く相手に一撃を叩き込むかが勝敗を分けます。そのためには素早く敵の死角に潜り込む能力が重要となります。つまり戦争の勝敗を分けるのはスピードなのです。
シナの戦車戦法や日本の武田騎馬隊などは全部、歩兵との混成部隊ですから、この肝心のスピードが活かされていないのです。これらは単に、馬の体躯や蹄の破壊力を武器として活用した戦法、あるいは馬上からの攻撃の歩兵に対する位置的有利を活かした戦法に過ぎないのです。これはこれで立派な戦法ではありますが、騎馬の強みを100%発揮しているとは言いがたいのです。あるいは単騎で伝令などに使うこともあり、これは機動性を活かした使い方ではありますが、組織的戦法とは言いがたいものでした。
北方の騎馬民族の戦法は騎馬の長所を100%活かした戦法で、全兵士が騎馬であったわけですが、趙の武霊王が採用した騎馬戦法はこの騎馬民族の戦法そのものだったのです。これは非常に強いわけで、さすがに秦軍もこれを打ち破ることは出来ませんでした。

しかし武霊王が紀元前299年に死去すると趙はこの騎馬戦法を廃止してしまったのです。代わって秦では完全なる騎馬戦法ではなかったのですが、西方遊牧民を軍団の中に編入して軍馬を有効活用する戦法を実施していきました。これで秦が趙に対して優位に立つことになりました。
これでシナ地域の最西方に位置する秦と、最東方に位置する斉とが二大強国となったのですが、秦の昭襄王は紀元前293年から東征に乗り出し、魏、韓、趙、楚を攻めました。その間の紀元前284年に斉が周辺国に連合して攻められ首都が陥落し王も殺され勢力を弱めて、これ以後は秦の一強国時代となりました。
戦国時代に入ると貨幣経済が発達して商業規模が大きくなりました。商業規模が大きくなると諸国が分裂した状態では商売の妨げになるようになり、各国の県城に出入りする商人達も国境を無くして強大な1つの権力がシナ全土を一元支配することを望むようになりました。そして秦王もシナ全土の商業ネットワークの利権を全て支配したいと思うようになり、これらの願望が一致して秦による統一事業が進んでいったのです。
そして、その結果、秦による天下統一の後、彼ら商人たちは商売の利権を全て皇帝に収奪され全ての自由を失い、権利の拡張に嬉々として戦争に参加していた人民たちは途端にがんじがらめの圧制を受けて奴隷や監獄の囚人の扱いに落とされたのでした。
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