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日本史についての雑文その161 シナ帝国の成立
さて統一事業といっても、それはつまり秦による他国の武力での征服ということになるのですが、この戦国時代における戦争は非常に大規模かつ徹底したものとなりました。各国の動員する兵力が春秋時代に比べると桁違いに増えており、春秋時代はせいぜい多くて数万の軍勢を動員するのが精一杯だったのですが、戦国時代になると一国で数十万もの軍勢の動員が普通に行われるようになります。
これはつまり一般の人民が兵士として参加するようになったから可能になったのですが、それにしても人口比で考えても驚くべき動員力なのです。

紀元前300年頃のシナ全土の総人口はだいたい2千万人といわれますが、秦の昭襄王が東征を開始した紀元前293年から始皇帝が紀元前221年に天下統一するまでに殺した敵兵は2百万人と言われており、もちろん殺されなかった敵兵もいたであろうし、秦の兵隊もそれらを合わせた人数よりもおそらく多くいたでありましょう。そしてこれは秦が関わった戦いに関してだけの数値であり、秦とは無関係に行われた戦いも多くあったはずですから、この約70年間の期間にシナ全土で動員された総兵力は1千万人は超えているでしょう。
これは古代という時代条件を考えても、いや、考えなくてもそうなのかもしれませんが、ほとんど国家総動員体制に近いような総力戦だといっていいでしょう。戦える体力のある人民はこぞって兵士になったような感じがします。このような総力戦が可能になったのも諸国の政治体制が、ある意味では非常に民主的といってもいいような、人民の権利が拡張し、それゆえに人民の国防の義務も徹底していた全体主義的体制であったからなのでしょう。

それにしても2千万人の人口で推移していた世界で、70年間の数字とはいえ2百万人を殺すとは凄まじいと言うしかありません。もちろん秦の兵隊も戦死しているでしょうし、秦の関係しない戦いで戦死した兵士も多く存在するでしょう。そして忘れてはならないのは、これらは兵士の死者数のみに過ぎないということです。
戦国時代になると、春秋時代のように敵の血統を根絶やしにすると祟られるというような古来からの信仰は顧みられなくなり、平気で敵の都市の住人を皆殺しにしたりするようになります。そうした伝統的な価値観や道徳観は氏族共同体において保持されてきたものなので、それが解体したことによって戦いは氏族の誇りをかけたものではなくなり、人民による人民への虐殺の暴走への歯止めが無くなったのです。
また、そもそも戦争の目的が兵士たちにとっては敵の土地を奪うことだったわけですから、その土地にもともといる人間は殺してしまったほうが都合が良かったでしょうし、君主にしても敵の土地の都市の交易の利権を独占することが目的でしたから、その都市の場所さえ確保すればいいわけで、その管理は自分に忠実な官僚にやらせればいいし、住民や商人などが足りなければ自分の配下の者を新たに連れてくればいいので、もともとの住人や商人を生かしておく必要も無いのでした。
撃破した敵国の君主なども春秋時代までのように自分の覇権下で生かしておく必要も無いわけで、とにかく全ての土地も、人民も、利権も、全てを直接支配することが戦国時代の戦争の勝者の目的だったのですから、自分以外の全ての統治階級の絶滅こそが最も効率的であったのでした。
このように、「全てを奪う」ことが戦国時代の戦争の本質でしたから、都市住民皆殺しなどによる犠牲者も膨大な数になったのです。この戦国時代に確立されたシナの戦争スタイルはその後のシナにおける戦争のスタイルとなり、シナ内部だけにとどまらず辺境の異民族に対しても皆殺しやホロコーストが行われていくことになるのです。
シナといえばこうした大虐殺が定番のように思われがちですが、この戦国時代以前はここまで凄まじい虐殺というのは無かったのであり、特に紀元前293年以降の秦の東征における虐殺は凄まじく、秦族は首狩り民族と称されたぐらいです。しかもこれだけ虐殺で人口が減れば生産活動にも支障をきたすのは必定であり、秦の征服地では大飢饉が起きたことは容易に想像でき、それによって戦争の死者と同じくらいの人が死んだことでしょう。
こうなると他国の人民にしてみれば秦軍はまさに地獄の使者のようなもので、とにかく秦軍から逃れることを考えるようになりました。秦軍はシナの最西方から徐々に東へ東へと押し出してくるわけですから、諸国の人民は更に東へ東へと逃れていくことになります。
そうやって秦の支配地域をシナ全土の西半分ぐらいまで広げ、紀元前256年には周王室を滅ぼした昭襄王ですが、彼は志半ばで紀元前251年に死去し、その遺志を継いだのが紀元前246年に即位した嬴政でした。後の始皇帝です。

ちょうどこの嬴政が秦王に即位した頃、紀元前250年あたりから、太陽黒点が増加傾向に転じて地球が紀元前1500年頃に寒冷傾向に入ってからずいぶん久しぶりに温暖傾向に入りました。これは紀元0年から100年あたりを頂点とするローマ最大期という太陽黒点の最も多い時期へ向かう温暖化局面の始まりでした。
その温暖化の進捗に歩調を合わせるように、農耕文明を基盤とした大帝国がユーラシア大陸の東西で同時に勃興してくることになるのです。その一方が嬴政によって打ち立てられる秦漢帝国であり、もう一方が紀元前272年にイタリア半島を統一し、そして紀元前264年から地中海の制海権を賭けてのカルタゴとの長い戦いに入ったローマ共和国、後のローマ帝国でした。秦漢帝国とローマ帝国こそが第一の世界帝国となるのです。
この後、秦帝国は一旦滅び、再び乱世となりますが劉邦によって紀元前202年に漢帝国が立てられ、それがシナ全土の直接統治を完成させるのが紀元前154年の呉楚七国の乱以降、七代皇帝の武帝の時代の初期の頃でした。ちょうど同じ頃の紀元前146年にはローマはカルタゴを滅ぼし、その後イスパニアも領有し、地中海の制海権を握りました。この頃になると地球はだいぶ温暖になってきていました。
太陽黒点周期の最大期を迎えた紀元0年から100年ぐらいまでの期間には漢帝国は最盛期を迎え、途中で王莽の簒奪などがあり混乱もしましたが、後漢帝国が立てられて、それが最も安定していた時代が西暦100年ぐらいまででした。この頃から北方にトルコ系騎馬遊牧民の鮮卑が現れて活発に活動するようになります。
一方、紀元0年あたりのローマ帝国は初代皇帝アウグスツスの時代で、西暦100年あたりは五賢帝時代の初期のトラヤヌス帝の時代で、このあたりからゲルマン民族の活動が活発になってくるのです。
この後、地球は再び寒冷化し始め、紀元180年あたりに急激な気温の低下局面を迎え、時代の危険ラインの一線を超えることになります。それが東においては184年の黄巾の乱であり、この後シナ全土は三国志の動乱から304年以降の五胡の侵入の時代へと突入していきます。一方、西においては180年に五賢帝の最後であるマルクス・アウレリウス帝の死去後、ローマ帝国は大いに乱れて軍人皇帝時代に突入し、ゲルマン民族の帝国内居住が始まり、375年に始まったゲルマン民族の大移動の後は世界帝国としてのローマ帝国は雲散霧消してしまうことになるのです。
その間もぐんぐん下がり続けた地球の気温は、500年頃からの太陽黒点の中世極小期に合わせて再び完全に寒冷期に突入し、この時期にシナ大陸では南北朝の王朝が目まぐるしく変わり、ローマ帝国は完全に滅び去りました。この中世極小期は600年頃まで続き、そこから少しずつ気温は上昇していき、ちょうどこの時期から東では隋唐帝国が、西ではイスラム帝国が勃興してくるのです。すなわち第二の世界帝国の誕生です。
ちなみにその後、太陽黒点は増加し続け、1100年頃には中世最大期に入ります。このあたりから東では南宋の経済が大発展して、西ではイスラム文化が極盛期を迎えます。そして、この中世最大期は1300年頃まで続くのですが、この中世最大期の後半において大発展してくるのが第三の世界帝国にして真の意味での最初の完全なる世界帝国であるモンゴル帝国なのです。モンゴル帝国によって中華世界とイスラム世界は一体化され、この後のユーラシア国家は全てモンゴル帝国から派生した国家となります。
そして、1300年以降、太陽黒点は急激に減少傾向に転じ、地球は急速に冷えていき、黒死病が大流行しモンゴル帝国は瓦解し、1450年頃からシュベーラー極小期に入り、ヨーロッパでは大航海時代、日本では戦国時代に入り、その戦乱の中での両地域の文明は海に進出して勃興していき、17世紀の太陽黒点の小康状態を挟んですぐに、18世紀から19世紀前半まで続くマウンダー極小期に入っていき、この時代にユーラシア大陸の両端で日本とヨーロッパの文化が大きな転換期を迎えることになるのです。そして19世紀後半から始まり現代にまで至る太陽黒点の現代最大期において第四の世界帝国である欧米日の海洋帝国が繁栄しているという状況になっているのです。

このように、紀元前250年頃の太陽黒点の増加に伴って同時に勃興してきた秦漢帝国とローマ帝国という東西の2つの第一の世界帝国が太陽黒点の減少に伴って同じような経過を辿って没落し消滅していったのは非常に興味深いことだといえます。
しかし、ここで更に興味深いことは、東西の2つの大帝国の類似ではなくむしろその相違のほうです。同じような時期に同じような契機で勃興し同じような経過を辿って没落していったにもかかわらず、ヨーロッパにおいてはローマ帝国と同じようなものは二度と現れなかったのに対して、シナ世界においては秦漢帝国と酷似した体制や版図を有した大帝国がその後も何度も現れることになるのです。
この差異は、秦漢帝国とローマ帝国とではその成り立ちの経緯自体が根本的に違うという点に起因するものでしょう。一言で言えば、秦漢帝国は戦国時代の飢饉と乱世の体制に起源をもつ戦時体制であるのに対して、ローマ帝国は平時の体制であるということです。
まぁローマ帝国のことはここではどうでもいいのですが、要するに戦国時代に基礎が作られて秦漢帝国の創設時に確立された皇帝専制体制の中央集権国家というものは基本的に戦時体制、非常時体制という特性が強いので、その後の乱世の時代から出来上がってくるシナの統一政権が国家システムとして繰り返し採用するのに適当であるというわけなのです。
シナの後世の統一国家は全て乱世の中から武力によって生まれてきた政権でした。つまり「銃口から生まれてきた政権」なのです。そういった政権にとっては秦の始皇帝が整備した皇帝制度は非常に使い勝手が良いシステムなのであり、だから歴史上繰り返し使われることとなり、結局シナは常に皇帝専制制度の国家となったのです。

紀元前230年に秦王の嬴政は天下統一の征服戦争に乗り出し、まず紀元前230年に韓を滅ぼし、次いで紀元前228年に趙、紀元前225年に魏、紀元前223年には楚、紀元前222年には燕を滅ぼし、最後に紀元前221年に斉を滅ぼして天下統一を成し遂げ、シナ全土の直接統治を開始しました。
この紀元前221年の天下統一に際して嬴政は自らの称号を「皇帝」と定めました。「皇」というのは「最初の王」という意味であり、「帝」というのはもともとは各都市で祀られていた部族の始祖神のことで、つまりは「神」を意味します。つまり、「皇帝」とは「神に等しい最初の王」というような意味です。
各都市で部族の始祖神、つまり「帝」を祀っていたのは氏族共同体の営みでしたが、その共同体は戦国時代において解体しており、始祖神への崇拝は形骸化していました。崇拝すべき始祖神が失われ、その空いた席に新たな「帝」として「皇帝」というものを持ってきたというわけです。これからは部族の始祖神ではなく人工国家である中華帝国の神としての皇帝を崇拝せよというわけです。これは完全に個人崇拝思想ということになります。皇帝は、人民も土地も都市も商業利権も、そして人民の崇拝さえも独占しようとしたのです。ちなみに、このような統治者や国家そのものを神として崇めてご神体にしてしまうタイプの全体主義はヘーゲル型全体主義に分類されます。

皇帝制度とは、喩えて言えば、フェロモンによって自分以外の全ての雌蜂を無能力化して、自分以外の全ての蜂を自分に奉仕する働き蜂に変えてしまう女王蜂を頂点としたスズメ蜂の社会のような奴隷社会だといえます。皇帝制度は純度100%の一君万民制度であり、純度100%の一君万民社会とはすなわち完全なる奴隷社会であるということです。完全なる奴隷社会であるからこそ、純粋なる奴隷であるはずの宦官のような存在が人民の上に君臨するような倒錯が起こるのです。それは人民自身が宦官と同階位の奴隷に過ぎないということなのです。
そして女王蜂のあまりの腐敗と圧制に耐えかねて働き蜂の群れが反乱を起こしたところにまた新たな女王蜂がやって来て働き蜂はその新しい女王蜂に奉仕するようになるのです。働き蜂たちもこの奴隷社会のような統治方法しか秩序維持の方法論を思いつかないし、実際、巨大で雑多な民族構成のシナ世界を統一的に秩序立てるにはこの奴隷社会しか不可能なのでしょう。
日本の場合はこういう蜂の社会とは違い、古来から君主と民が共に統治にあたるという君民共治の形が底流に継続しています。それは日本の君主権力が基本的にはシナ戦国時代以後の「専制皇帝権力」ではなく、シナの殷周や春秋時代のような「諸勢力の盟主的な権力」であったからです。何故、日本においては君主権力がそのようなものになったのかについては後で考察していきます。
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この記事に対するコメント

秦王朝を奴隷社会と言うのは言い過ぎです。秦は戦功があったものには平民にも爵位をあたえて、身分階級に取り立てていました。

皇帝を神扱いにするのも言い過ぎです。以前の最高の称号は王でした。殷王、夏王、周王がそれにあたりますが、これらの王は侯を分封して主従関係を結んでいました。秦の始皇帝になると侯を起てて分封はしません。分封しないのですから国は世の中に一国です。その統治者ですから王よりも格が上の統治者です。王の称号では不適格です。それで皇帝なる称号を設けました。意味を与えるとすれば世界政府の元首でしょう。

西欧概念の専制君主もすこし的確ではありません。法家の理論による最高権力者は政策選択権者といえばよいでしょう。法家では政策は数人の臣下が立案します。皇帝は献上された政策の中からよいと思うものを選びます。政策が実行されよくない結果しか生まなかったら、その政策を立案した臣下が責任を取ります。皇帝は選択の過ちの責任はとりませんが国力が弱まる結果は引き受けなければなりません。

【2007/04/10 13:03】 URL | 天の安川 #- [ 編集]



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