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日本史についての雑文その163 シナ系難民の発生
戦国時代のシナ大陸の西方で秦の昭襄王が覇業の半ばで死去したのが紀元前251年で、その曾孫の嬴政が秦王として即位したのが紀元前246年でした。ちょうどこの紀元前250年頃から、1250年ほど続いていた地球気候の寒冷化傾向が終わり、地球が温暖化局面に入っていきました。紀元0年から100年頃にかけての漢帝国とローマ帝国の極盛期と重なる太陽黒点周期のローマ最大期へ向かう気温上昇の開始でした。
この紀元前250年頃までには日本列島の西半においては、紀元前400年以降の原始国家文明の「起の部」の期間を通して水田稲作がひととおり普及していたのですが、この地球温暖化によって農業生産力が向上し、紀元前250年頃から紀元前100年頃にかけて、西日本の人口が増加し、それによって更に耕作地が拡大していくようになりました。これが原始国家文明の「承の部」の局面なのです。
西日本では紀元前250年までに水田稲作が普及したのと並行して環濠集落に囲まれた小さな農村共同体が数多く作られ、共同体における共同作業の積み重ねの中でそれぞれの共同体の指導層であるリーダーが育ってきていたのですが、紀元前250年以降の温暖化の影響で耕作地が拡大するようになると、共同体同士で水と土地を巡ってトラブルが起きるようになっていきました。
このトラブルの頻度は地勢や人口密集度に左右されるのであって、平野が狭くて山間の谷間に共同体がひしめいているような状況においてはトラブルが頻発するようになります。北九州における状況はまさにこのトラブル多発地帯の様相を呈しており、そういうわけで北九州では共同体間に戦争が多く発生するようになり、戦争という共同体の存亡を賭けた大事業の中で各共同体のリーダー達は権限を拡大集中させていき、次第に共同体内の階級分化が進み、指導層は支配階級となり、首長権力者としての相貌を帯びてくることになったのです。
一方、北九州より東の地方、つまり瀬戸内や山陰、畿内などの地方においてもトラブルが頻発して戦争が発生するという状況は基本的には北九州と同じだったのですが、北九州に比べて平野が広く共同体の密集度が北九州ほどは高くなかった場合が多いので、戦争の頻度は低かったようです。そういうわけですから、瀬戸内以東の西日本地方においては北九州に比べて共同体内での階級分化は急速には進まず、共同体の指導層も首長権力者というよりはまだ単なるリーダー的な存在であったようです。
そして、戦争によって共同体が統合されていって国家の原型の形成が促進されていくわけですから、この原始国家文明「承の部」においては、北九州では国家形成が進んでいったのに対して、瀬戸内以東の西日本では国家形成の歩みは遅かったといえるでしょう。
また、この時代は東日本においては水田稲作が普及していった時代ということになります。これは前の原始国家文明「起の部」の流れを受けて水田稲作の波が更に東進していったという意味合いのことであり、縄文末期農耕文明が東日本でもいよいよ成熟段階に入っていったということでもあります。

それにしても北九州と瀬戸内以東の間でこれほど大きな差が生じる原因として、単に地形の違いだけが原因になるというのは不自然なことであって、別の大きな要因があるはずなのです。それはやはり北九州が朝鮮半島やシナ大陸に近いという特殊事情によるものだと考えるのが自然ではなかろうかと思います。
この原始国家文明「承の部」が始まった紀元前250年頃のシナ大陸の状況といえば戦国時代末期であり、先述したように秦の昭襄王の覇業が道半ばで終わり、それが曾孫の嬴政によって引き継がれる紀元前230年までの間の猶予期間にあたる時期でした。
道半ばといっても、昭襄王の征服戦争は凄まじいもので、秦が天下統一までに殺戮した敵兵の数が200万人でありますが、そのうち120万人は昭襄王の治世で殺したことになります。いや昭襄王は58年間で120万人殺したわけで、嬴政は20年間で80万人を殺したことになるのですから、実は嬴政つまり後の始皇帝のほうが凄まじいのですが、この時点では昭襄王が史上最大の殺戮者であったのは確かでした。
しかもこれは戦闘員の死者の数だけで、戦国時代においては陥落させた都市国家や県城の中の人間を皆殺しにするようなことも頻繁で、更にそれらによる人口激減によって引き起こされる飢饉による死者も累積されて、秦軍はまさに敵国民にとっては地獄の使者として恐れられたことでしょう。
ですから他国民は秦軍の進出エリアから逃れよう逃れようとしたはずで、秦はシナ世界の最西方に位置しましたからどんどん東方へ進出してきますから、秦軍から逃れようとする人はどうしても東方へ逃れることとなります。
戦国時代にはシナ大陸には秦以外には韓、魏、趙、楚、燕、斉の6カ国があったのですが、秦に隣接していた韓、魏、趙、楚の4カ国は昭襄王の時代に既に領土を大幅に秦に奪われており、それらの国々の人民は大きな危機感を持っていたはずです。
そこで目ざとい者や力のある者、つまり知識人や実力者などは真っ先に逃げ出していたと推測されます。「逃げる」というと弱い者の行動のように思われがちですが、本当に弱い者は逃げることも出来ずに殺されたり奴隷にされたりするのであって、逃げることが出来るというのは強さの証でもあるのです。より強く能力や実力のある者がより早くより遠くへ逃げることが出来るのです。そしてより遠くの辺境の地へ逃げたほうがその者の持つ能力は重宝されて、身の安全が保証されるのです。
そのように紀元前250年頃に真っ先に逃げ出した連中は目ざとい連中ですから、秦軍の勝利を見越して一目散に東へ逃げたはずです。韓、魏、趙の連中は東方の燕や斉に逃げ、楚においてもより東方の長江下流域の江南地方へ逃げていきました。これらの中でも特に目ざとく力のある連中はそこから海に出たりして更に東方の朝鮮半島や日本列島にまで一気に逃げてきた連中もいたかもしれません。
ただ、こういう人達はほんの一部であったでしょう。まだ秦以外の諸国が連合して秦軍を撃破するという可能性はあったからです。紀元前241年にはその作戦が実行されたのですが、逆に返り討ちに遭ってしまい、秦の絶対的優位が確定しました。その後は実力ある者の順から逃げ出していったことでしょう。

そして紀元前230年に嬴政による天下統一戦争が始まり、最初にその年に韓が滅ぼされ、続いて紀元前228年に趙が滅ぼされました。韓の人民のうち逃げられる者は魏や斉に逃げ、趙の人民のうち逃げられる者は魏や燕、あるいは北方の遊牧民の匈奴の居住区に逃げていったと思われます。しかし紀元前225年には魏が滅ぼされ、魏に集まっていた韓、趙の難民、そして魏の難民は皆、東方の斉へと逃げていくことになりました。
紀元前223年には楚が滅ぼされ、楚の難民は東へ東へ逃れて東シナ海に突き当たってから二手に分かれ、北上した集団は斉に逃れ、南下した集団は江南地方に逃げ込んでいきましたが、翌紀元前222年には秦軍は江南も制圧し、楚の難民は更に南へ逃れ閩越王国や南越王国へ逃れました。これはかつて楚が滅ぼした越王国の難民が南下して立てた国です。
同じく紀元前222年には燕が滅ぼされ、燕に逃げ込んでいた趙の難民や燕自体の難民で逃げられる者は南方の斉か、北方の匈奴の領域か、あるいは東方の箕子朝鮮の領域に逃げていきました。
こうして秦は紀元前222年までにシナ大陸のほとんどの地域を支配下に収め、残るは山東半島の斉だけとなりました。そして斉には他の5カ国の難民も逃げ込んでひしめき合っている状態となりました。そして紀元前221年、秦は斉を滅ぼし秦の天下統一が達成され、嬴政は始皇帝に即位し、秦帝国が始まったのです。

この斉の滅亡時にも、斉も含んだ6カ国の難民は東方へ逃げたのですが、東方は黄海であり、海に逃げ出したことになりますから、これはそれなりの知識人や実力者しか逃げ出せなかったでしょう。逃げた先は朝鮮半島南西部、そして更にその先、対馬海峡を越えて日本列島の北九州方面へ逃げた者もいたでしょう。
朝鮮半島の北部にあった箕子朝鮮は戦国時代は燕の属国でありましたが、紀元前222年に燕が滅亡してからは独立国家となり、支配層である殷人の末裔集団とツングース系住人に燕や趙の難民を加えた多民族混淆状態となりました。
一方、朝鮮半島南西部には箕子朝鮮系の王族が統治する都市国家群の民としてツングース系農耕民と倭系海洋民、越系海洋民が雑居していたのですが、そこに秦の征服から逃れた難民が斉からやって来たのです。まぁやって来たといっても、倭系や越系の海洋民の船に乗り込んで逃げてきたわけですが。
この難民集団は6カ国の難民の混成集団であったと思われるのですが、どういうわけか秦の側においてはこの集団が「韓の難民」という認識になっていたようです。あるいはシナ大陸を流浪していくうちに雪だるま式に膨れ上がっていった難民集団の指導層が最初に滅びた韓の難民グループによって構成されていたのかもしれません。そういうわけで、この難民集団の逃れていった朝鮮半島南部が秦人、つまりシナ人によってこの後「韓」と呼ばれるようになるのです。
そして、逆にこの難民集団を受け入れた朝鮮半島南西部の住人から見れば、この難民が発生した時点ではシナ大陸は全て秦の支配下に入ってしまっていましたから、この難民は「秦から来た人達」という認識になります。つまり秦人なのです。そこで、朝鮮半島南西部の人達はこの難民集団を未だ人口の少なかった朝鮮半島の南東部の濊や貊などのツングース系住民の居住エリアに移住させ、その地を「秦」と呼んだのです。
それでその後、この地がシナ人から「秦(シン)と呼ばれている韓」という意味で漢字が「秦」から「辰」にいつの間にか変わり、「辰韓」と呼ばれるようになったのです。こうして朝鮮半島南東部は「辰韓」と呼ばれるようになり、朝鮮半島南西部のほうは西部は「馬韓」、南部は「弁韓」と呼ばれるようになっていきました。これが「三韓」の始まりです。「馬韓」「弁韓」については、何故そのように呼ばれるようになったのかはよく分かりません。ここで重要なことは、朝鮮半島南部にシナ諸国の難民がやって来たということと、三韓のうち「辰韓」はそのシナ系難民が主体であり、後に「弁韓」にも「辰韓」の住民が浸透してきて、それらと「馬韓」とは少し民族構成が違うということです。後に「馬韓」からは「百済」が現れ、「弁韓」からは「任那」が現れ、そして「辰韓」からは「新羅」が現れるのです。

もちろん全てのシナ系難民が辰韓や弁韓の地に移住したというわけではなく、馬韓に住み着いたシナ系難民もいたでしょう。この秦の天下統一戦争に先立って逃げてきていた者もいたでしょうし、この天下統一戦争時にも斉からの海上ルート以外にも、燕から箕子朝鮮を経て三韓地方へ南下してきた燕や趙の難民や、それに付き添って南下してきた箕子朝鮮の民もいたでしょう。また、秦帝国成立後に三韓地方に逃れてきたシナ難民もいたと思われます。
秦の嬴政あらため始皇帝は征服諸国からシナ世界の外へ逃げ出した難民にも更に追い討ちをかけていきました。いや、そもそもシナ皇帝にとっては国境という概念は無いわけですから、それこそ地の果てまで追い討ちをかけるのは当然なのです。
紀元前215年には始皇帝は北方の匈奴を討ち、紀元前214年には南越を征服しました。これでシナ諸国の難民が逃げて行った先で秦が軍事侵攻しなかったのは東方の蛮地のみということになりました。天下統一後のシナ大陸では始皇帝によって人民は過酷な圧制下にあり、特に滅ぼされた6カ国の遺民は苦しい境遇にありましたので帝国外に逃亡を図る者もいたのですが、こうなると東方へ逃げるのが一番安全ということになります。
そういうわけで秦帝国成立後にも少しずつ朝鮮半島や日本列島などの東方海上へ逃亡する者もいたようです。それらのうち最も有名なケースは紀元前219年に不老不死の薬を探すためと言って始皇帝を偽り、堂々と大挙して秦帝国を脱出して日本列島方面へ逃げていった斉の学者であった徐福の逸話でしょう。この人はかつて越王国が王都にしていた良港の琅邪の出身であったので日本列島のことをよく知っていたのでしょう。もちろん不老不死の薬なんかありませんが始皇帝はそんなことは知りませんから騙されたわけです。
始皇帝もおそらくは東方征服も計画していたはずですが、紀元前210年に始皇帝が死去し、その後すぐに秦帝国は大混乱の末に紀元前206年に滅びてしまったため、朝鮮半島や日本列島にシナ帝国の軍事力が及んでくることは当面は避けられることとなりました。
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