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日本史についての雑文その164 渡来人
秦帝国の滅亡後、戦国時代の諸王国が甦り再び群雄割拠の時代となり、それらの中で項羽の率いる楚と、劉邦が秦の故地に建国した漢とが覇権を賭けて争い、紀元前202年に劉邦が項羽を倒して漢帝国の初代皇帝になりました。
皇帝とはいっても当初の漢帝国の皇帝は始皇帝に比べて非常に狭い範囲しか郡県制で直轄支配できませんでした。漢の皇帝が直轄支配していたのは秦の故地であったシナ大陸の西方の一部だけで、その他の地域は斉や楚、燕など戦国の諸王国が甦って支配していたのです。劉邦はそれら諸国の国王として項羽との戦争で功のあった忠臣を就かせていたので諸国王の主として主従関係は確保していましたが、それら諸王国の領地については大幅な自治権を認めて独立王国のような様相となっていました。

そのような有様でしたから、始皇帝が征服した南越王国も再び独立していました。また、始皇帝に撃破されて以降、シナ帝国の脅威に対抗するために急速に部族統合を強めて一大遊牧帝国を築いた匈奴との戦いに紀元前200年に漢は敗れ、毎年、匈奴帝国に貢物をするという条約を結び屈服を余儀なくされました。
このように外征の失敗によって漢帝国の皇帝の求心力は低下し、そのため劉邦は諸国王となっていた忠臣達に疑心暗鬼の目を向け、彼らを討伐する戦いを起こし、その中での負傷が原因で紀元前195年に死去しました。その跡を継いだ呂后の専制時代に忠臣達はほとんど成敗されてしまいましたが、これは別に皇帝直轄地が増えたわけではなく、単に諸国王の首を劉氏一族や呂氏一族に挿げ替えただけのことで、諸国の独立性はそのままであったのです。その後、呂氏一族は粛清されて劉氏の天下は安泰となりましたが、皇帝の支配領域は相変わらずシナ大陸西部の一部のみにとどまっていました。そこで5代皇帝の文帝が即位した紀元前180年以降、漢帝国はしばらく内政を充実させることに力を注ぐことになります。

ところで劉邦が疑心暗鬼を抱いて粛清しようとした忠臣の一人に廬綰という男がいて、この男は燕王国の国王になっていたのですが、劉邦死後の紀元前194年に漢帝国に背き、呂后の粛清を恐れて国を捨てて匈奴帝国へ逃げていったのです。
この時に廬綰の腹心であった衛満という男も同じく逃げ出し、部下の兵を連れて箕子朝鮮に亡命し、そのまま箕子朝鮮の王族を追放して国を乗っ取ってしまったのです。これが衛氏朝鮮の始まりです。衛氏朝鮮は漢帝国からも燕王国からも独立して、朝鮮半島やその更に先にある日本列島などからもたらされる物産をシナ大陸へ送る交易の利権を独占するようになりました。
そして一方、衛満に国を追われた箕子朝鮮の王族は残兵を率いて朝鮮半島を南下して馬韓の地に至り、そこで韓王となったといわれます。実際は、これ以前から三韓地域の都市国家群の諸王国の統治者は箕子朝鮮の王族や氏族によって構成されていましたから、衛満によって国を追われたこの王族達はこれら三韓地域の都市国家に亡命して受け入れられていったということなのでしょう。そういうわけでこの殷人の末裔である王族たちは馬韓、辰韓、弁韓の地の共同体が集まって作る諸都市国家の王族になっていったのです。
つまり、この頃の朝鮮半島付近の状況としては、遼東半島には漢帝国内の半独立国としての燕王国があり、その北方の満州平原にはツングース系狩猟民の諸部族が部族共同体を作り、朝鮮半島北部にはツングース系農耕民をシナ系亡命王族が統治する独立王国である衛氏朝鮮があり、そして朝鮮半島南部には殷系王族が支配階級を構成する都市国家群によって構成される三韓地域が広がっていたということになります。
そして三韓のうち、馬韓の住民はツングース系農耕民と倭系と越系の海洋民、それと少々のシナ系亡命民によって構成されており、辰韓と弁韓の住民はツングース系農耕民とシナ系亡命民によって構成されていました。シナ系亡命民はやはり元来の半島の住民よりも高い文化を持っていたので、この頃には馬韓よりは辰韓や弁韓のほうが文化的には進んでいたようです。

初期の漢帝国は旧秦王国の故地以外には郡県制は敷くことが出来ず、その他の地域は各王国の支配に委ねていました。郡県制とは交易拠点としての「県」とそれを守る軍隊である「郡」の双方ともを皇帝が直轄するという制度でしたが、それが敷かれていないということはどういうことかというと、その地域を治めている王が「県」も「郡」も管轄するということでした。言い換えると、現地の王が交易管理も治安維持も任されているということであり、それらに関する利権も握っているという状態です。
そしてこの朝鮮半島も当然この時代は皇帝の直轄支配は及ばず郡県制は敷かれていない状態で、しかし交易拠点である都市国家は各所に存在し、シナ本土とも取引はしていたのですから、漢の皇帝としてはこの地で誰かを「王」として特約関係を結び、この地の交易管理や治安維持を一括して委託して、朝鮮半島における対シナ交易の仲介窓口として指定しなければいけないのです。シナ大陸にある諸王国もそういう存在でした。そしてこの朝鮮半島で漢皇帝がその特約関係の相手として選んだのが衛氏朝鮮の王であった衛満でした。
こうして衛満は「朝鮮王」となり、衛氏朝鮮領域内にある都市だけでなく、南部の三韓地域にある諸々の都市国家の周辺の交易路の安全を守るための治安維持活動を行い、朝鮮半島の諸地域の対シナ交易の総合窓口として利権を得ることになり勢力を伸ばしていくようになりました。

このような日本列島周辺の情勢だったわけですが、秦の天下統一戦争から逃れてきたシナ系諸国の亡命民は日本列島へもやって来たであろうと思われます。
より早くより遠くへ逃げる者がより地位や能力のある者であったはずですので、早い時期に日本列島までやって来た亡命民は様々な知識や能力を持っていたことでしょう。戦国時代のシナ大陸からやって来た亡命民で、おそらく氏族の上級層や知識人が多かったでありましょうから、戦争に関するノウハウも持っていたでしょう。
おそらく早期の亡命民は紀元前250年ぐらいに倭系や越系の海洋民の船に乗って朝鮮半島南西部を経由して北九州へ辿り着いたと思われます。ちょうどこの頃から温暖化が始まり、人口が増え水田稲作の耕作地が拡大し、倭人の各共同体間では水や土地を巡ってのトラブルが発生し始めました。特に山間部の狭い平野部に小さな共同体がひしめき合っていた北九州ではトラブルは頻発する傾向にありました。そういう状況の中に戦争のノウハウを持ったシナ系亡命民がやって来たのです。
彼ら亡命民は数は少なく、故郷に存在した氏族社会や国家などのような後ろ盾も無くしたアトム的存在となってしまっていましたから、彼らが倭人社会の中で支配階級になるようなことは出来ませんでしたが、北九州の倭人の農村共同体のリーダー達は彼らの知識や能力を重宝して軍師や相談役のようにして厚遇したのでありましょう。
そして彼ら亡命民もその厚遇を喜んで受け入れ、その期待に応えるために農村共同体のリーダーを補佐して戦争に勝利に貢献していったことでしょう。そうして彼らは新たな生きる場所を見出し、おそらくは共同体のリーダー達と縁戚関係なども結び、倭人共同体の中に同化していったことでしょう。
このようにして北九州では農村共同体間での戦争が頻発するようになっていったのです。一方、瀬戸内以東の西日本では地勢と人口密集度の関係から戦争の頻度が少なく、つまり「戦争屋」であるシナ系亡命民の需要が少なかったので、そういう土地に行ってもシナ系亡命民も厚遇は期待できないわけで、やはり厚遇されるほうが良いに決まってますから、シナ系亡命民は瀬戸内以東にはあまり行かず、ほとんどは北九州に留まったと思われます。

その後も順次、シナ系亡命民は北九州にやって来るようになりました。特に秦が天下統一を達成した紀元前221年以降は多くのシナ系亡命民が朝鮮半島南西部へ逃げてくるようになりましたから、その中でも特に冒険心のある者は自ら進んで、更に海を渡って北九州へやって来たでありましょう。
そもそも当時のシナ大陸の亡命民にとってはこの日本列島がどれほどの大きさの島であるのか分かっていなかったわけですから、感覚としては大航海時代にヨーロッパ人がアメリカ新大陸に移民していく感覚に近いものがあったでしょう。つまり、彼らシナ系亡命民にとっては日本列島は新大陸であり新天地であったのです。
実際、彼らの故国であった斉や楚などの戦国の諸国のそれぞれの版図などよりも日本列島は大きかったわけで、戦国七国を合わせた版図、つまり天下統一時の秦帝国の版図と比べても日本列島はそれほど遜色は無い広大さは持っていたのです。もちろんまだ国家の形を成していなかったわけですが、可能性あふれる土地であったことは事実でした。
そういうわけですから、朝鮮半島南西部に辿り着いたシナ系亡命民の中でも新天地で再起を目指す志を持つ者は北九州へ渡っていったのではないかと推測されます。つまり、ここでもまた、「最終到達地点に辿り着くまでは納得しなかった好奇心と向上心に溢れる人たち」が日本列島へやって来て、日本人の仲間入りをすることになったのです。
もちろんそういった好奇心や向上心を持った人達はシナ系諸国の亡命民だけとは限らず、彼らと一緒に朝鮮半島で雑居していたツングース系農耕民や越系海洋民など、様々な部族の人達も混じって一緒に北九州へ渡ってきて、倭人の農村共同体に同化していったと思われます。
また、おそらく戦争やその他のノウハウを持った有能なシナ系亡命民を求めて、倭人の農村共同体のリクルーターが朝鮮半島南西部へ出向いてきて、シナ系亡命民の人材争奪戦を繰り広げたこともあったでありましょうし、時には山東半島方面まで足を伸ばしたこともあったかもしれません。
とにかくシナ系諸国からの難民や亡命民は紀元前250年以降は、秦の天下統一戦争、秦帝国成立後の圧制、秦帝国滅亡時の混乱、その後の項羽と劉邦による楚漢戦争、漢帝国成立後の諸王国の反乱、それに関連する衛氏朝鮮建国などの半島の混乱、そして後述する紀元前154年の呉楚七国の乱まで、だいたい100年間ぐらいは断続的に発生して朝鮮半島南西部へ断続的に供給されていたのです。そこから北九州へ渡ってくる者にはそれほど不自由することはなかったでしょう。
このようにして紀元前250年以降、北九州には断続的にシナ系亡命民が渡来するようになり、各農村共同体はそれぞれ彼らシナ系亡命民を取り込んで戦争や共同体運営のノウハウを得て、戦争や競争を繰り広げることになったのでした。
そのようにシナ系亡命民は北九州で需要が高かったので北九州に集中してますます渡来することになり、それら亡命民が敵味方の共同体に分かれて取り込まれていったのでますます北九州における共同体間の戦争は熾烈になっていき、その結果、共同体は急速に統合されていき、国家形成の準備が整っていったのです。
一方、瀬戸内以東では戦争が少なかったのでシナ系亡命民の需要が少なく、それゆえにシナ系亡命民はこの時期はほとんど瀬戸内以東には行きませんでした。そういうわけで瀬戸内以東では共同体の統合も急速には進まず、ゆっくりとした統合が進んでいくことになりました。こうして、関門海峡を挟んで社会状況の発展の道筋が大きく分かれてくることになるのです。
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