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日本史についての雑文その165 反皇帝思想
さて紀元前250年以降、北九州では戦争を通して国家形成への道を歩むこととなったのですが、共同体同士の戦争の展開が日本独自の形をとるようになります。つまり、戦国時代のシナ大陸の戦争のように勝者共同体が敗者共同体を徹底的に殲滅するのではなく、勝負がついた段階で停戦講和して、敗者共同体を温存して勝者共同体の傘下に組み入れたのです。
北九州の農村共同体は山間部の狭い平野に小さな共同体がひしめき合っている状態でしたから、戦争に敗れた共同体は大平原の場合と違って一気に逃げ散るということが出来ず、袋小路に追い込まれます。そうなると勝者共同体は敗者共同体の土地を手に入れるためには敗者共同体の成員を皆殺しにしてしまえばいいということになります。実際に戦国時代のシナ大陸ではそのような殲滅戦がよく行われました。

しかし日本列島においてはそうはなりませんでした。それは、勝者共同体も敗者共同体も小規模な集団であったので、勝者は敗者を滅ぼしてしまった場合に敗者の土地を自分たちで運用していく余裕が無かったからです。敗者を滅ぼして土地を奪うよりは、敗者を屈服させて今まで通りに土地を耕作させて、その上がりを少し貢納させたり、労役や兵役を提供させたりするほうが得なのです。
日本は広大な平野が少なく、しかも広大な平野はだいたいの場合は河川の運んだ堆積物で形成された沖積平野で下のほうは干潟が多く農耕地に向いていませんでしたので、上のほうの使える平地となるとすぐに山間部に入り組むことになり、狭い谷を農地にするようなケースが多く、共同体も少人数単位が多かったので、共同体同士の戦争の結果、勝者共同体の指導者はこのように敗者共同体を温存して間接的に支配していくパターンが多くなったのです。特に北九州はそういった地形的要素が多く、戦争によって共同体の統合と重層化が進んでいきました。

それでも戦争というものは憎悪が憎悪を呼ぶ場合が多く、なかなか簡単に程よいところで終えることが難しいものなのですが、日本列島の倭人社会の場合、まず近隣共同体間で民族的な同質性がだいたい確保されていましたので、抜き差しならない民族的確執というものはあまり無く、皆殺しにまで至る必然性はありませんでした。
また、戦争の原因がだいたいは土地争いや水利の争いなどの経済的なもので、勝敗が明らかになって以降も共同体の存亡を賭けてまで意地を張って戦いを続けるようなものではなかったこともあります。
そして、勝者共同体も敗者共同体を滅ぼしてしまったら逆に困ってしまうのだという実情を、敗者共同体の者もよく知っていたし、敗者共同体の者がそういうことを既に承知していることもまた勝者共同体の者も承知していたのです。つまり、お互いに皆殺しなどはしないのだという暗黙の了解が成立していたのです。そうなると疑心暗鬼から破滅的な結末に至るというようなこともあまりありません。
これはつまり、戦争が起きてもとことん相手を滅ぼし尽くすまで継続せずに、勝敗が明らかになった時点で矛を収めて敗者が勝者の配下に入るという形で講和を結ぶということですから、人的資源の消耗も少なく、時間の無駄も最低限に抑えることが出来て、非常にロスが少ない決着方法だといえます。
このような決着が繰り返されていくことによって、日本においてはシナや朝鮮などに比べて共同体の統合が急速に行われていくようになり、国家形成のスピードがアップしたのです。これが、後発の農耕国家であったにもかかわらず日本列島で急速に国家統合が進んで、4世紀には朝鮮半島の諸国家よりも大国を形成するようにまでなった理由なのです。

しかし、紀元前250年以降の北九州の戦争においてこのような穏便な決着に至るケースが多いというのは何か不自然なようにも思えます。何故なら、この時代の北九州の共同体間の戦争のノウハウを提供していたのは戦国時代のシナの戦争思想を持ったシナ系亡命民達であったはずだからです。
彼ら亡命民の関与していた戦国期シナの戦争こそは敗者を皆殺しにして全てを奪い尽くすというような戦争であったはずなのです。そうした亡命民に指南された戦争にしては何やら穏便に過ぎるのではないかという疑念もあるのです。
しかしこれはそれほど矛盾のあることではなく、むしろ辻褄は合うのです。そもそもシナ系亡命民達が故国を失って流浪の身になってしまった原因がそのような戦国シナ型の戦争とその結果成立した皇帝制度のせいなのです。よって彼らは一様に皇帝制度に反対する思想を持つようになったのです。
これはこの頃の東アジアにおいて特に変わった考え方ではなく、むしろ普遍的な思想であったといえます。秦帝国は建国後すぐに崩壊し、その後に漢帝国が成立したとはいっても実際に皇帝支配を受け入れていたのはシナ大陸の西半分の一部だけで、それ以外の地域は全部、皇帝の直轄統治を拒絶していたわけで、特に日本周辺のシナ大陸東側や朝鮮半島などは揃って皇帝制度を拒絶していたのですから、日本列島におけるシナ系亡命民たちが反皇帝制度の思想を持っていたとしても何ら不自然なことではないのです。
皇帝支配というものがどうやって成立してきたのかというと、人民の戦争参加と氏族共同体の破壊によってなのです。そうやって唯一権力に権力を集中させて中央集権官僚制を敷いていき、国家も破壊していき、全てを皇帝が直接支配していくという体制が皇帝専制体制なのです。
ですから、皇帝支配によって故国を追われ、反皇帝制度の思想の徒となったシナ系亡命民達はこれと逆のことをやればいいわけです。特に氏族社会を自ら破壊していったことによって皇帝専制体制を招き寄せてしまったことについては彼らも後悔していたでしょうし、そうして辿り着いた日本列島では今まさに農村において氏族共同体を構築していこうとしている段階であったわけで、彼らシナ系亡命民としてはそれは大事に育てていかなければいけないと思ったことでしょう。
こうして、北九州におけるシナ系亡命民達による倭人共同体の首長権力者へのアドバイスは、氏族共同体を温存し、権力を重層化して国家を形成していくということになったのでしょう。だから戦争を徹底的なものにして敗者の氏族共同体を破壊してしまうなどということは最も忌むべきことであったのです。もちろん戦争は勝たねばならないのですが、勝敗が決した後は敵の共同体を破壊してしまうまで追い込んではいけないのです。

こうして北九州では戦争によって共同体の統合と重層化が進み、共同体間で支配と隷属の関係が生まれていきました。敗者共同体においては今まで通りの首長権力は温存された上に、その上位の勝者共同体の首長権力も存在するという二重権力状態となり、勝者権力は従来の権力に優越する権力として、ますます権威あるものとして強大化していきました。こうして複数権力間の上下関係が形成されていくようになりました。
戦国期以降のシナ世界においては権力というものは他の権力を滅ぼしていって唯一権力へ単純化していく傾向が強かったのですが、日本においてはこのように複数の権力が共生するようになっていったのです。ここにおいて日本文明とシナ文明とでは決定的に方向性が分かれてくるようになったのです。
しかしこのように氏族共同体を重視して複数権力が共生していく考え方というものは、春秋時代以前のシナ世界においては一般的な考え方でした。戦国期以降のシナ世界、皇帝専制体制に移行したシナ世界がそうした伝統的価値観を失ってしまったのが実情であり、皇帝制度以前の古きシナ社会の伝統的価値観が日本列島に移植され、開花したのです。
つまり、この原始国家文明の「承の部」において日本列島にもたらされた外来価値観の正体とは「皇帝制度以前の古きシナ文明の価値観」であったということになります。それをもたらしたのがシナ系亡命民であり、そうした外来の刺激を受けて倭人社会は氏族共同体を重視した形での国家形成に向けて成長していったというのがこの原始国家文明「承の部」の実相であるといえるでしょう。
いや、これに先行する原始国家文明「起の部」においてもたらされた越人からの外来価値観もまた同じ「皇帝制度以前の古きシナ文明の価値観」の一つのバリエーションであったと解釈できるので、この原始国家文明を象徴する外来価値観は結局「皇帝制度以前の古きシナ文明の価値観」ということになるのです。

こうして北九州の倭人社会は戦争を通じて共同体の統合を進めていき、紀元前200年ぐらいには幾つかの小共同体を統合した大共同体が形成されるようになりました。これは階級的な首長権力者を有し、その首長権力者は対内的には他の権力に優越した権力を誇示し、対外的な権力を異質な大共同体に向けて発動する軍事指揮官でもありました。こういうものは小規模ながら「国家」の要件を満たしており、紀元前200年頃には北九州において「国家」的なものが誕生したのだといえます。この原始的な国家の形態が生まれるまでの50年間が原始国家文明の形成期にあたるのでしょう。
しかしこの原始的国家形態である大共同体は考古学用語では「国」ではなく「クニ」と表記される存在で、まだ規模的には「国」と呼べるほどの存在ではありません。この大共同体の誕生によってますます統合のための戦争はエスカレートしていき、大共同体同士の戦争によって勝者の大共同体が敗者の大共同体を傘下に組み入れて更に大きな大共同体群を形成していきました。この大共同体群こそが考古学用語で「国」と呼ばれる存在であり、紀元前100年頃までには北九州においてこのような大共同体群、すなわち「国」が形成されるようになり、国が複数の大共同体を支配し、その大共同体が複数の小共同体を支配するという権力重層構造が出来上がっていったのです。
この北九州における「国」形成に至るまでの100年間が原始国家文明の確立期と修正期に相当するのでしょう。この紀元前100年において原始国家文明の成長は一旦頂点に達し、原始的国家誕生という使命を果たした原始国家文明は曲がり角を迎えることになるのです。ちょうどこの紀元前100年ぐらいに朝鮮半島から「皇帝制度以後のシナ文明」という新たな外来価値観の波が到来することになり、また時代のステージは変わることになるのです。それは具体的には漢の武帝による朝鮮四郡の設置による状況変化でした。
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