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日本史についての雑文その167 移動しない神様
紀元前250年から紀元前100年の縄文末期農耕文明の「結の部」において、新たに成長してきた原始国家文明の中に取り込まれていった縄文時代以来の価値観とは、それは縄文時代以前に連なってくる日本独自の宗教観であろうと思われます。
この時代、まず紀元前250年頃に青銅器が日本列島に持ち込まれるようになり西日本に広まり、西日本では銅剣や銅鐸などの青銅器の独自製作が開始されます。青銅器は日本列島においては最初から祭祀専用に使われたようで、これはおそらくその分布範囲から見て水田稲作に関連性が強く、穀霊や地霊のような農耕神を祀る祭祀に使われたものなのでしょう。

このように青銅器を使って農耕神を祀る祭祀方法は殷代や周代の古代シナ世界の生産と豊穣にまつわる思想や観念に関係するものですが、農耕神への祭祀それ自体は紀元前400年以降に西日本に水田稲作が普及するにつれて既に西日本において広まっていました。その倭人社会のもともとの素朴な農耕神信仰に青銅器というシナ由来の新たな祭器を用いた儀礼的装飾を施していったのが紀元前250年以降の状況であったといえるでしょう。
もちろん、そうした新しいスタイルを持ち込んだのはこの時期から日本列島に来るようになったシナ系亡命民であったでしょう。彼ら自身はこの時期はほとんどが北九州に留まったようで瀬戸内以東には行かなかったようですが、青銅器の製作ノウハウは倭人の手によって瀬戸内以東にも広まっていったようです。
おそらく本来の農耕神祭祀用の祭器は銅鐸だったのでしょう。しかし北九州においては青銅器が持ち込まれると同時に戦争が熾烈化したので、豊穣への祈りよりもまずは戦勝祈願のほうが優先されるようになり、戦勝祈願の祭器である銅剣や銅矛が主に用いられるようになったのでしょう。一方、この時期に戦争があまり起きなかった瀬戸内以東ではそのまま銅鐸が祭器の主役として定着したということでしょう。
そして氏族共同体が形成されて指導層の血統が固定されてくるようになると、その共同体の氏族の祖霊が重視されるようにもなってきました。祖霊は共同体の守護神であり、その共同体の首長は守護神の子孫ということになり権威や正統性を持つようになったのです。つまり祖霊という概念は氏族共同体を安定させる効用があるのです。このような先祖霊への信仰というのはシナの諸王国で祀られた「帝」への信仰と基本的には同じもので、このような祖霊信仰のスタイルもシナ系亡命民によってもたらされたものでしょう。特にこのシナ系亡命民達は反皇帝制度主義者でシナ古来の氏族社会を重視していたはずですので、氏族社会の基本的要素である祖霊信仰を軽視するということは考えられず、まず間違いなく確実に倭人社会にそれをレクチャーしたはずです。
このように倭人社会の宗教体系に農耕神や祖霊への信仰が加わっていったのですが、それらはシナ世界で行われていた信仰がそのまま移植されたものではなく日本的にアレンジされたものになっていきました。何故ならそれらは日本古来の縄文時代に起源を発する信仰のベースの上に受け入れられていったからでした。その信仰とは自然霊への信仰でした。

日本列島はビュルム氷期終結後の縄文時代において、まぁ今でもそうなのですが特に縄文時代においては、自然の恵みが非常に豊かでした。また山あり海ありで四季の変化も豊かで、動植物の種類も豊富でした。そして人々はそうした自然と密接に関係して生きていましたから、自然界の様々な精霊に対する信仰が生じたのです。
農業もまた自然を相手とする営みなのですが、農業の場合はむしろ自然を切り開き征服し制御していくことに重きが置かれ、自然よりも人間の営みである農業のほうが重視されます。だからストレートに自然への信仰には至らずに、農業の収穫成就のために助力してくれる特定の精霊、つまり穀霊や地霊への信仰が偏重されることになります。これは農耕だけに限らず遊牧や牧畜でも基本的には同じ構図となります。
しかし縄文時代を通じて1万年以上もの長期間にわたって自然界の恵みに頼った狩猟採集および漁労生活を送り農業をさほど重視してこなかった日本列島の人々の場合は、自然の恵みに感謝し祈りを捧げる素朴な信仰、つまり自然界の多様な精霊への信仰がそのまま保持され定着していたのです。
こうした1万年の歴史を持つ強固な自然霊信仰というベースの上に成立した日本風の農耕神信仰や祖霊信仰は、その自然霊信仰の持つ特性を受け入れることになっていったのです。その特性とは、「移動しない神様」という特性でした。

自然霊といえば例えば山の神や海の神などがありますが、これらは元来は日本全国の山や海を代表する抽象的な山神や海神が存在するわけではなく、例えば富士山の神や三輪山の神、玄界灘の海の神、住之江の海の神などのように、特定の場所の自然物に宿る神であったわけです。例えば太陽神だってアポロンのような抽象的人格神が存在するわけではなく、アマテラスだっておそらく元来は伊勢の夫婦岩から昇る太陽の精霊であったはずです。ではそれがどうして皇室の祖霊として扱われるようになったのかについては後述することになりますが。
このような極度の具体性が日本の自然霊の特徴で、これがキリスト教のゴッドや仏教の仏、シナにおける「天」などのような抽象的概念とは違うところです。ゴッドや仏は世界の何処にでも偏在する存在で特定の事物や場所に拘束されませんから持ち運び自由なのです。ですからこれらは世界宗教となって世界中に広まったのです。
しかし日本の自然霊の場合、例えば富士山は動きませんから富士山の神も移動しません。つまり日本の自然霊は「移動しない神様」なのです。しかも富士山の神と富士川の神は別々の神で兼任も代替も不可能ですから、富士山近辺に住んでいる人々は両方を信仰しないといけません。その他あらゆる自然界の周辺の森羅万象に神が宿っているので、自然と一人の人間が複数の神を信仰するような習慣がつきます。つまり自然霊信仰は多神教的風土を形成するわけです。
そのような多彩な「移動しない神々」を信仰する習慣が1万年以上も続いたために、日本人にとっては「神様は移動しないもの」であり「神様はたくさんいるもの」という固定観念が完全に定着したのです。

現在の日本人は6世紀以降に普遍的宗教である仏教の影響をだいぶ受けています。実際、日本の神様は後にかなりの移動の自由度を獲得しますが、それは仏教が定着していく過程で神仏習合が行われて以降のことです。つまり日本の神様に仏教の仏の普遍性という属性が加味されてからある程度移動の自由度を獲得したのです。更に近代以降はキリスト教的な神概念の知識も得ていますから、現在の日本人は「移動する神様」という概念にも理解を示すことは出来ます。例えば「お天道様は見ていらっしゃる」などというのはそうした普遍的存在としての神様を想定した考え方です。
しかしその一方で現在の日本人でも山の神様は山にいるものという固定観念はありますし、神様は特定の神域、つまり神社にいるもので、だからこちらからお参りに出向かなければいけないと考えているのであり、逆に考えれば神社以外には神様はいないわけだから、神様の目の届かない場所では悪いことをやってもいいというような考え方もあります。このあたりは日本人の宗教的にいい加減な部分で、先述の「お天道様」のような考え方をする人もいればこのような人もいるわけで、まぁ色々なわけで、外国人から見ると奇異に見えることもあるようです。
もちろん昔の日本人は現在よりももっと宗教的に真面目で信心深かったのですが、その分宗教の影響を大きく受けたということで、仏教やキリスト教の影響を受けた現在の日本人ですら「移動しない神々」という固定観念がまだまだ健在であるわけですから、仏教すら伝来していない紀元前の日本列島の人々にとって「神様は移動しないもの」「神様はたくさんいるもの」という固定観念は絶対的価値観であったことでしょう。

そういうところに紀元前400年ぐらいにまず水田稲作と一緒に穀霊や地霊のような農耕神への信仰が入ってきたのです。日本列島においては「神様はたくさんいるもの」ですから、数ある自然霊の仲間として農耕神も容易く受け入れられました。それはそれでいいのですが、元来はシナ大陸では農耕神は移動しないということはなかったのですが、日本列島においては「神様は移動しないもの」ですから、農耕神も日本風にアレンジされて「移動しないもの」となりました。
その後、紀元前250年以降に次第に農耕が生活の中心になっていくにつれて、倭人たちの信仰の中でも農耕神への信仰が他の自然霊への信仰よりも重視されるようになっていき、その祭祀の形式もシナ系亡命民のもたらした青銅器などを用いた立派なものになっていきましたが、それでも長い年月継続した自然霊への信仰が無くなるということはなく、表面的に自然霊への信仰は後退して農耕神への信仰に取って代わられたように見えて、実際は農耕神への信仰の中に自然霊への信仰のエッセンスが吸収消化されていったのです。多神教的風土や非移動性などはその表れでした。
また、山や海などの自然霊の場合は個々の山や海に特徴があるわけで個々の区別がつくのですが、農耕神の場合は個々の水田に特に大きな特徴の違いがあるわけでなく個々の区別がつきにくいのです。そこで個々の水田で農耕に携わる人達の集団で区別するようになりました。「○○族の人達の田んぼの農耕神」というような捉え方ということになります。
ただ、山や海は全く場所を変化はしませんが、農耕地は拡大したり場所を増やしていくことは有り得るわけです。その場合に農耕神というものをどう扱うかという問題を解決するために「分霊」という概念が生まれました。○○族の耕す農耕地が拡大したり新しい飛び地を開発したりすれば、○○族のもともとの農耕地で祀っていた農耕神と同一の農耕神をその場所でも祀るようになるのです。しかしこれはあくまで分けているだけで移動しているわけではないのです。元々の土地の農耕神は決して移動はしないのであって、また新たに分霊した農耕神も移動したり消滅したりしてはいけないのです。
農耕神が移動も消滅もしないということは、その農耕神を祀る住民もその農地を手放すことはないし出て行くこともないのです。こうして日本の農民の土地への強い執着心というものは形成されていきました。それはこのように宗教的動機に支えられた国家形成以前の非常に古層に存在する情念の産物であるので、なかなか理屈で割り切れない頑固さを持つのです。
こうして日本列島の農民は耕作地の拡大は行うことはあっても先祖伝来の本貫の地を手放して移動することはなく、そこでは同じ一族が住んで同じ農耕神を祀り続けるということになったのです。

そうやって農村で氏族共同体が形成され水田稲作という共同作業を通して共同体の指導階級が形成されていくようになり、更に戦争などを通して指導者が首長権力者となり、その権威や正統性を維持して共同体の求心力を高めて安定化させるために血統を重視した祖霊信仰がシナ系亡命民から取り入れられるようになりました。
この祖霊もまた日本列島における神様の仲間入りをするために「移動しない神様」という属性を持つようになりました。そもそも上記のように農村共同体に居住する氏族自体の移動性が低いわけですから、氏族共同体の守護神である祖霊も移動しなくなるのは当然の成り行きでした。
もし氏族の中で新たな土地を求めて他所へ移住していく者がいれば祖霊を分霊して持っていくことになりますが、その氏族の本貫の地における祖霊信仰は同じ氏族がずっと続けて無くなるようなことはないわけです。また、分霊した祖霊を持って新たに別の土地へ移住していった者は、その移住先の土地にも元々そこに住んでいる氏族の祖霊があるわけだから、自分の祖霊と共にその祖霊も敬わねばならないのです。「神様はたくさんいるもの」ですから、そのように複数の神様を祀ることに抵抗は無いのです。
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