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日本史についての雑文その168 神道の発生
このように、紀元前250年以降、青銅器祭器と共に農耕神信仰や祖霊信仰という外来の信仰形態が普及しつつ、それらの中に日本古来の自然霊信仰のエッセンス、すなわち複数神への同時信仰や神様の非移動性などの特性が取り込まれていったのです。もちろん日本古来の自然霊への信仰もまだまだ健在で多くの人々の信仰を集めていました。ただ農耕神や祖霊への信仰が農村共同体の在り方と密接な関係を持っていたので、共同体を挙げて取り組む最重要の祀りという位置づけになっていったということなのです。
そうした状態の中で北九州では戦争が起きるようになっていったのですが、勝者共同体が敗者共同体を追放して敗者共同体の土地を奪った場合、その土地の穀霊や地霊は敗者共同体の成員によって祀られていた農耕神で、しかもその農耕神は移動も消滅もせずにその土地に居座るわけですから、戦争によって祭祀する一族が変わったら農耕神がヘソを曲げて豊穣を期待できなくなる恐れがありました。だから勝者共同体は戦争に勝っても敗者共同体を温存し支配下に置いて、引き続きその土地の農耕神の祭祀を続けさせてその収穫の上がりを貢納させるようにしたのです。
また、戦争で敗者共同体を滅ぼしてその土地を奪ったりしたら、その土地の守護神はその滅ぼされた氏族の祖霊で、その祖霊の祭祀が出来るのは子孫だけで、その子孫を滅ぼしてしまったということは祭祀者がいないということで、しかもその神様は移動せずにずっとそこにいるわけで、神様は祭祀しないと祟りますから、その神様は守護神ではなく祟り神になるわけで、その祟りはその土地に進出してきた勝者共同体の成員に向かうことになるわけです。
そうなっては困りますから、勝者共同体は敗者共同体を滅ぼしてしまったりはせず、祖霊の祭祀を続けさせることになるのです。もし戦争が思わずエスカレートして敗者の氏族をあらかた滅ぼしてしまった場合には、何処かからその氏族の血を引く者を探し出してきてその土地に迎え入れて祖霊の祭祀を引き継がせる措置を講じる必要がありました。

ただ、そうやって農耕神や祖霊への祭祀を敗者共同体に継続させる場合でも、それは戦争に負けたわけですから無条件というわけではなく、勝者共同体の農耕神や祖霊への祭祀も一緒に行うようにさせられることになりました。複数の神様を同時に祭祀することは何ら問題の無いことなのでそれは容易に受け入れられました。ただ子孫でない者に祭祀されても祖霊は喜ばないので祭祀も両氏族で共同で行ったりするようになります。
また、そうやって共同体が統合されることによって両共同体間で交流や行き来、移住なども行われるようになり、いつしか勝者共同体のほうでも敗者側の農耕神や祖霊の祭祀も行われたりするようにもなっていきました。
そうした状況が各地で生まれていき、そこに更に分霊した農耕神や祖霊を伴って移住してくる集団もいたり、旧来の自然霊信仰も加わったりして、戦争によって共同体の統合が進むにつれて、統合された大共同体や国の中でどんどん多神教的な状況が進んでいくようになりました。
そうなるとその多様な神々の序列の整理をしていかなければいけなくなり、各共同体でそれぞれ神話体系が作られていくことになりました。ここまでくると祭祀は非常に政治的な色彩も帯びてくることとなり、紀元前200年以降には西日本各地ではそれぞれの共同体の区画内に特定の祭政用の空間を作るようになり、そこで共同体の首長権力者が中心となって諸々の祭祀や政治が執り行われるようになっていきました。この祭政空間は神域とされ、そこには祭祀専用の建物や鳥居なども設けられ、神社の原型となりました。
この祭政空間の中身の構成要素は長江方面の東アジア稲作民の作っていた祭政空間と共通した特徴を多く持っており、青銅器の場合と同じくシナ系亡命民によってもたらされたものであったと思われますが、これも青銅器の場合と同じく、そこで行われていた祭祀の内容はかなり日本古来の自然霊信仰の影響を受けたものであったと思われます。そもそも自然界の一部を切り取って特定エリアを神域とするという発想は、山を山の神の領域として神聖視したり、海上の岩を太陽神の宿る聖域として聖別したりする自然霊祭祀に特徴的な傾向でした。このように神聖な特別の空間とそうでない普通の空間とを分ける考え方が神道におけるハレとケという概念に繋がっていくのです。

神域というのは神を祀る空間であり、神は神域で祀られることによって祀る者を守護するのです。逆にちゃんとした神域でない場所に置かれたり、その神が本来いるべきでない神域でない場所で祀られたり、本来祀る資格の無い者に祀られたり、神域においてもちゃんとした方法で祀られなかったり、とにかく正式な手続きで祀らなければ神というものは祀る側を守護どころか祟ったりする厄介な存在でもあるのです。
これは祖霊だけでなく自然霊でも穀霊でも地霊でも同じことなのですが、特に厄介なのが祖霊で、祖霊というのは死者の霊のことであり、死者は神域でちゃんと祭祀すれば守護神になるのですが、少しでも手順を間違うと祟り神になってしまう恐ろしい存在でした。いや実際にそうであると言っているわけではなく、古代日本人はそのように信じたということが言いたいのです。実際、古代においても天変地異や伝染病も発生するわけで、古代においてはその原因など全く不明なわけです。何かが祟ったのではないかと考えるほうが自然でしょう。といっても常にそんなに原因として思い当たるような悪事を働いているわけでもありませんから、祟られる原因がよく分からないことも多いわけです。そういう時に常に存在しているのが死者です。実際、死人というものは共同体の中でもしょっちゅう出るわけです。その祀り方が間違っていたからではなかろうかと考えれば辻褄は合うわけです。それ以外に特に思い当たる節も無いので、「ああそうだったんだ」と納得してしまうのです。それで次はちゃんとした手順で祀るのですが、実際はそんなものは災厄と何の因果関係もありませんから次もまた災厄は起きます。そうすると人々はまだ正しい祭祀方法ではなかったのだと考えるようになり、「死者の祭祀は本当に難しい厄介事だ」と考えるようになるのです。
こうして「死」というものは厄介事であるという認識が生じて、忌み嫌われるようになり、「死」は「穢れ」を招くものとしてタブー視されるようになったのです。そして逆に、そうした「死穢」を上手く処理して祭祀によって首尾よく守護神として機能させることが出来る祭祀者こそが優れた祭祀者なのであり、共同体にとって最も必要なリーダー、つまり司祭であり王となることが出来るのです。
そしてそのような「死穢」のような重大なタブーを使いこなし制御する術を駆使する祭祀王は、死穢とは全く正反対の意味でタブー、つまり聖別され、特別に神聖な存在と見なされるようになるのです。これが後に日本的な王権の誕生に繋がっていき、天皇という日本独自の政治的宗教的存在の誕生にも繋がっていくのです。

また、この「死穢」というタブーは、日本においてこの古代信仰に起源を発する神道が強固に生き残ったために、このタブーも後世に強く生き残り、日本社会を強く規制することになります。このタブーの解消に大いに役立ったのが仏教ということになるのですが、それでもなかなか死穢のタブーが完全に消え去ることはなく、むしろ後に平安時代ぐらいにこれが一時期非常に強まることになり、それが武士階級の発生に深く関係してくることになるのです。
また、こうした死穢などのタブーを制御するために適切な祭祀を行うことが重要視されたわけですが、適切な祭祀とはどういうものなのかというと、それは様々な禁忌事項を踏み外さないことは最低限のルールとして、その上で更に積極的に聖別のための技法を施していくことになりますが、死体そのものや、あるいは何らかの御神体のような現実に存在する物体への取り扱いだけではなく、「穢れ」という実体の無いモノも相手にしなければいけないのですから、非常に象徴的、抽象的な技法も必要になってきます。それはどういうものかというと、簡単に言えば呪文や動作、占いなどによって「穢れ」に働きかけることになります。特に言葉は重要視され、言霊信仰が生まれることになったのです。

こうした死穢思想や言霊信仰などはまぁ現代の視点で見ればハッキリ言って迷信であり害悪も沢山あり、ロクなものではないというふうにも見られがちですが、それなりに効用もありました。まず死穢思想は死体や死を連想させる他人の血肉にむやみに触れることを忌み嫌ったので、シナや朝鮮のような人肉食や宦官、死体損壊趣味、酷刑のようなおぞましい風習を受け入れることを抑止する効果を発揮しました。
人肉食などはシナにおいては単に空腹を満たすためのものではなく、人肉の美味を楽しむものであったり呪術的効果や健康法の一種と考えられたり、とにかくシナ古代思想を構成する要素でもありましたから、シナ古代思想を受け入れておいてこれは受け入れなかったというのは日本側主導のフィルターが働いてブロックしたということであり、そのフィルター形成においてこの死穢思想という日本独自の伝統的価値観に基づいた思想の果たした役割は大きいといえるでしょう。
シナや朝鮮の歴史においてこれらの風習がもたらした悪影響の大きさを考えると、死穢思想は日本社会に多大な貢献を為したことになります。ただ、この傾向が嵩じて人間と同じ四肢を持つ動物の死体を扱って皮革や食肉を生産したりすることまでが忌み嫌われ、不可触賎民を生み出したり家畜の肉を食べる習慣が根付かなかったりしましたが。
また死穢思想によって死体を早く処理してしまうことが習慣化し、衛生状態の改善や伝染病の予防に効用がありました。特に死穢の解消のために後に仏教由来の火葬の風習を取り入れたことによって伝染病の蔓延の抑制効果がありました。多くの伝染病は死体や人間の血によって感染するのです。死穢への忌避は伝染病から人々を遠ざける効果があったのです。
また、死体に匹敵するほど多い伝染病の感染ルートは排泄物ですが、死穢思想が拡大されてケガレ思想となり、日本社会に神経質なまでの清潔志向を生み、汚物処理はその時代ごとに最大限の努力が払われるようになり、伝染病の蔓延を抑制しました。また清潔志向は入浴や水浴の習慣化を進め、日本人の健康増進の助力となりました。また、こうした潔癖への志向は精神面にも及び、潔さや清貧や正直を尊ぶ風潮を生み出し、日本思想の核ともなっていきました。
また言霊信仰は言葉を非常に大切に扱う風潮を生み出し、この時代の倭人の使っていた原日本語から後に日本語を作り出す際に新たな語彙を増やす時に大いに役に立つこととなり、更にその後の書き文字、特にカナの発明を経て、詩歌や物語、随筆など多彩な文学作品を生み出して日本文化を大きく発展させることに繋がっていったのです。

ともかく、まぁこうして古代シナの伝統宗教という器に縄文以来の日本的自然霊信仰という血肉を注ぎ込んで「神道」というハイブリッド宗教、すなわち日本独自の民族宗教の原型が形成されていったのがこの時代であったのです。
この神道的な世界観の特徴として、まず重層的な多神教世界の確立があり、これは他文化と対立するのではなく共生していく傾向を生み出しました。また祭祀の継続性を重視し祟りを恐れる傾向は他の共同体を温存して上下関係や水平関係の連合体を作って統合を進めることに繋がり、また死穢思想は戦争に至らずに話し合いでトラブルの解決を図ることや、戦争に至った場合も最小限の犠牲で決着をつけて徹底的に敵を滅ぼさないようにする傾向を生みました。
そして徹底的に敵を滅ぼすほどに対立をエスカレートさせないために、ほど良いところでコンセンサスを取るような「話し合い重視主義」が生まれました。これは言葉による説得や駆け引きが重要視されますから、言葉にパワーがあるという言霊信仰に通じるものでもありました。このように合議を重視する考え方は日本思想の根幹である「和」の精神に繋がっていきました。
こうして、戦争の頻発した北九州では敗者共同体が滅ぼされることなく温存されて重層的な共同体の統合が進み、統合された大共同体や国の中の権力構造が上下関係が重層的に入り組んだピラミッド型の構造を持つようになり、中間組織が強固なものとなっていきました。また、戦争のあまり起きなかった瀬戸内以東でも、北九州のような上下関係の明確なピラミッド型ではなく比較的対等な連合形式ではありましたが、祭祀を通して共同体のゆるやかな統合が進められていきました。そしてそうやって統合されていった大共同体や国の王は支配下の各共同体で祀られる神を全て秩序立てて祀るために神話世界を構築していったのです。
これらのような工夫をしていくことで日本列島、特に西日本においては人的物的に損耗や無駄の無い共同体統合を進めることが可能になり、元来が自然の恵みや人口は豊富であったので、日本列島においては大きな政治勢力が育つことが可能になりました。また、戦争が無駄に長期化しなかったことと効率的な統合を繰り返すことで時間的なロスも少なく、後に急速に東アジアにおける大国として成長する基礎がこの時代に築かれることになったのです。
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