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日本史についての雑文その169 城壁の無い都市
こうしてこの原始国家文明「承の部」の終わり頃、つまり紀元前100年頃には、北九州では小共同体や大共同体も重層的に包摂した「国」の段階まで共同体の統合は進んでおり、また瀬戸内以東の西日本各地においては小共同体が祭祀を通じて統合を果たした大共同体が出現している段階にまで至っていました。
ここで瀬戸内以東はとりあえず置いておいて、北九州の状況について更に掘り下げてみてみると、この北九州における「国」というものは、単に農村の氏族共同体を重層的に統合して規模が大きくなったからといって、それで真の意味で東アジア世界における「国家」といえる存在の定義は満たしてはいないのです。

やはり中原の都国家のように、そうした氏族による小国家(邑)の中に交易拠点としての都市を抱えていなければ、真の意味での東アジア的国家とはいえないのです。そういう視点で見てみると、この紀元前100年以前の北九州における「国」にはそうした都市的なものは一見備えていないように見えます。
しかし実際にはこの北九州の国々も交易は盛んに行っており、その領域内にちゃんと交易拠点もあり、そこで取引する商人も多く出入りしていたのです。そういう意味ではちゃんと東アジア的な「国家」の要件は満たしていたのです。ただ、それは他の東アジア世界、つまりシナや朝鮮半島の諸国家における交易拠点である都市とは外見上で大きな違いがあったので、一見したところ違ったものに見えただけのことだったのです。
その外見上の大きな違いとは「城壁が無いこと」でした。交易拠点である「都市」に「城壁」が無いのです。つまり城壁によって外部世界と仕切られていないということであり、言い換えると、交易の場が「都市」という交易拠点として明確に他の農耕エリアと区別されていないと言うことも出来ます。

何故そのような違いが生じたのかというと、それは国家形成の手順の違いによるものなのです。つまりシナや朝鮮のように最初に都市が作られた場合には城壁が必要となりますが、日本のように後で都市が作られた場合は城壁は不要になるのです。
シナや朝鮮での場合の国家形成の手順は、外部から夷の居住区へ商人がやってきて交易都市を作り、その周辺の夷たちと取引をしつつ、その夷たちを都市の民として取り込み、王国を作っていくのです。この場合、最初は周辺の夷たちは都市に対して必ずしも友好的ではありませんから都市の周囲を城壁で囲んで防御する必要があるのです。
一方、日本列島の北九州の場合、海に隔てられていますからいちいち大陸側から商人が渡っていくのは面倒で、日本列島の物産の取引はもともとは朝鮮半島南部の都市で行われており、倭人商人がそこに日本側の物産を船で運んで出向いていって取引していましたが、北九州の倭人国家の王がそれでは利益が少ないので自国領内での交易都市の開設を望み、大陸側の殷系、越系、シナ系、倭系、ツングース系などの諸々の商人を自国領内に誘致しようとしました。それはまさにシナ系亡命民の知識人や武人へのリクルート活動と並行して行われたのであろうと想像されます。この場合、大陸から北九州へ渡ってくる船の便は倭人国家側で用意して大陸商人を連れてきて、北九州の倭人国家内での交易を実現するのです。その際の商取引に税をかけて倭人の王は儲けるのです。
こういう日本のケース、つまり北九州のケースにおいては、シナや朝鮮の場合と違って、交易都市が開設された時点では既に周辺では「国」の段階まで共同体の統合は進んでいて、しかもその「国」の主導で都市の誘致が行われ、都市の運営も行われるのです。都市の周辺に住んでいるのは「倭人」という「夷」なのですが、この夷は最初から都市に対して友好的なのです。いや、単に友好的というのではなく、都市の中で取引に従事するのは大陸系の商人や倭人系の商人なのですが、この都市自体の最高支配者は倭人、つまり夷の王なのであり、つまり最初から都市の内も外も倭人という夷の支配領域なのです。ならば内と外を分ける城壁などは必要ないということになるのです。
そういうわけで北九州の倭人国家でも朝鮮半島や日本側の各地との交易は行われていたのですが、その交易都市に城壁は無く、城壁が無いのでそもそも都市といえる区画も明確ではなく、倭人国家内に何箇所かに分散して交易のための市場が開設されていたと考えられます。
そして、そのような領域内の交易を支配していたのが北九州の倭人諸国家の王達であり、彼らは取引にかけた税として優先的に最も高価な商品を独占しました。それは大抵は武器、祭器、そして威信具といわれる装飾品などでした。これらは王自身の所有物となったり、また王国内の重層化された大小の氏族共同体の首長たちへの下賜品となったりして、王国の安定化のために使われたのでした。

こうして紀元前250年頃から紀元前100年頃の原始国家文明の「承の部」の150年間、言い換えると縄文末期農耕文明の「結の部」の150年間においては、前時代に普及した水田稲作を基礎とした外来の国家システムがとうとう本格的に機能し始め、戦争や交易を通して、皇帝制度以前の古きシナ文明の特徴を強く持った氏族社会を基本単位とした国家形成が進み縄文時代の社会システムを駆逐していきました。
それと同時に、その国家形成においては縄文時代以来の日本古来の伝統的価値観、すなわち自然霊信仰のエッセンスが大きく取り入れられ、古代シナ世界の伝統宗教と習合して神道の原型を形成していき、また、その神道的価値観に基づいて、中間組織の強固な日本独自のスタイルの国家が作られていき、その王はこの後、強い宗教的権威と政治的権力を併せ持った存在となっていくことになります。
そうして北九州では朝鮮半島の諸国家と交易を行う小国家が出現するレベルまで、また瀬戸内以東の西日本各地においては小共同体を祭祀によって統合した大共同体が出現するレベルまで国家形成が進み、東日本においても水田稲作が普及していきました。
ここまで至った時点が紀元前100年ぐらいで、皇帝制度以前のシナ文明の刺激による文明の成長、つまり原始的国家の形成は、ここで一旦、ひとつの成長の頂点を迎えて、ここで大きな転機を迎えることになります。新しいタイプの外来の刺激を受けて、日本列島内の各地の諸勢力がそれぞれの対応をしていくことになるのです。その際にどのような対応をしていくのかは千差万別なのですが、新しい外来の刺激を有効活用するのは当然のこととして、その上に更に、この紀元前100年頃までに形成された政治や宗教に関する新たな伝統的価値観を有効活用していった者が次の時代において頭角を現してくることになるのです。

そういうわけでこの紀元前250年から紀元前100年の150年間についての考察はこのあたりで終了して、次の時代、紀元前100年から紀元後50年までの150年間、すなわち「原始国家文明」の「転の部」であり同時に「部族国家文明」の「起の部」でもある時代の考察に移っていきたいと思います。
この時代においては新しいタイプの外来の刺激がやってきます。それは、ここまでの150年間を象徴する外来刺激「皇帝制度以前のシナ文明」とは全く異質、そして正反対のもの、つまり「皇帝制度以後のシナ文明」という外来刺激が日本列島へ到達することになるのです。
その外来刺激を日本列島にもたらすことに大きく関与した人物が漢帝国の7代皇帝の武帝です。そこでまずは再び漢帝国成立後のシナ大陸の歴史を追いかけて、武帝の事跡を見てみることにします。
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