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日本史についての雑文その170 初代のシナ皇帝
紀元前221年にシナ世界を統一して始皇帝が建国した秦帝国も始皇帝の死後は混乱し紀元前206年に滅亡し、その後、戦国時代の諸国が復活して再びシナ世界は分裂状態となります。そうした中で諸国の王を率いて項羽を討った劉邦が最有力者となり、紀元前202年に漢帝国の皇帝と称するようになりました。
始皇帝も劉邦も、武力で最有力者に登りつめて皇帝を名乗るようになったという点では同じでした。しかし始皇帝と劉邦では幾つかの点で大きな違いがありました。

まず始皇帝は全シナにおいて唯一絶対の権力者として全ての土地と人民と商業利権を直接支配したのですが、劉邦はシナ皇帝とは名ばかりで直接支配領域はシナ大陸西部の一部だけで、その他の地域は戦国諸国の王が支配しており、劉邦はそれら諸王と主従関係を結んでいるというだけの存在に過ぎませんでした。実質的には劉邦もそれらの諸王国の国王のうちの一人である漢王国の王に過ぎない存在でした。
そして始皇帝は、もともとの秦の出自は西戎であるとはいえ諸侯に列せられてから500年以上もの伝統を誇る王族の後継者であり、一方の劉邦は任侠の親分をやっていた盗賊紛いの土民が楚王の起こした秦への反乱義勇軍に参加したことがきっかけで成り行きで皇帝と称するまでに至ったものでした。
始皇帝にしても劉邦にしても、武力において「一番強い」という理由によって皇帝を名乗ることが出来ているという点では同じだったのですが、劉邦は始皇帝に比べて実力も身分も全てにおいて格段に劣っており、真の意味での皇帝としての資格には欠けていたといっていいでしょう。

しかしこれは劉邦が悪いというよりは、皇帝のような絶対権力者が武力によってしか正当性を持ち得ないということ自体が欠陥なのです。いや、権力というものは究極的には武力によって生まれ武力によって保たれるのが真理であり、特にシナにおいてはその傾向は顕著なのですが、世の中というのは突き詰めた真理の結晶のみによって造られているわけではなく、社会装置などというものはだいたい真理から遠く離れた謬説によって成り立っているものなのです。剥き出しの真理のみによって形成された社会はあまりに不安定であり、逆に真理に全く背を向けた謬説のみによって形成された世界は極端に腐敗して停滞していくことになります。真理と謬説の含有率はほどほどがいいのです。
始皇帝が戦国時代の専制君主制度を発展させて作った皇帝制度は、彼自身があまりに強いカリスマ性を持っていたので、このような剥き出しの真理、つまり「弱肉強食」の論理、具体的にはアメとムチを駆使したマキアベリズムのみによっても成立し得たのです。また、そもそもシナ帝国というものは雑多な異民族の寄せ集め国家なので、そのような剥き出しの弱肉強食論理でなければまとめることは不可能だったのでしょう。
しかし、このような威圧的な制度は絶対的カリスマ性を持った個人である始皇帝がいなくなった途端、一気に崩壊するのが当然であったといえます。つまり始皇帝の皇帝制度は凡人には維持することが不可能な不完全なものであり、彼自身が完璧なカリスマであったために彼自身がその欠陥に気づくことがなかったのだといえます。いや或いはそれに気づいていたからこそ始皇帝は不老長寿を必死になって求めたのかもしれませんが。
そのような不完全な皇帝制度を劉邦のような「凡人」が引き継いだわけですから上手くいかないのは当然で、皇帝の支配はシナのほとんどの土地には及ばず、皇帝直轄地は旧秦王国の故地の一帯のみとなり、その他の地域は諸王国の王が治めていました。これはつまり、劉邦の実力やカリスマ性では、剥き出しの弱肉強食の論理だけでもっては皇帝が諸国王から支配権を取り上げることが出来なかったということなのです。

そうした現状を打破して皇帝制度を完全体とするためには、武力や家柄に裏打ちされた真のカリスマ性が無くとも、雑多な異民族の寄せ集めに過ぎないシナ全土をまとめて直轄支配することを可能とするような、皇帝のカリスマを創造するような全く新しい何らかの「謬説」が必要であったのでした。そしてそれが「儒教」であったのです。
儒教によれば、天下は徳のある人物によって治められるべきとされています。そして皇帝は天下を治める存在であります。ならば皇帝には徳があるはずで、諸国王を通さずに徳のある皇帝が直接全土を支配したほうが全土に徳に溢れた良き政治が行われるはずであり人民も幸せになるはずということになるのです。もちろんこんな世界観はフィクションに過ぎませんが、こうした儒教というフィクションを通して、皇帝を頂点とした郡県制や中央集権が正当化されるのです。
始皇帝の作った皇帝制度を復活させて、その上にそのような儒教を漢帝国の国教とすることによって皇帝制度を完成させ、シナ帝国を再び統一しシナ全土を直轄支配したのが紀元前147年に即位した漢の7代皇帝の武帝であり、武帝こそが儒教によって正統性を付与された完全体の皇帝制度における真の意味での「初代のシナ皇帝」であったのです。
そして、この武帝以降、儒教の徳治思想に基づく易姓革命理論による王朝交替が行われるようになり、「前王朝の徳が無くなったので徳のある人物が新しい王朝を創始する」という建前のもと、その実態は「王朝を簒奪し皇帝を僭称した者が後に徳があったかのように偽装する」ということが横行しました。
この易姓革命理論は「血の断絶」ではなく「徳の断絶」によっての王朝の交替を正当化する理論であり、西洋や日本のように血統を重視する考え方とは対照的に、実際には平民からの成り上がり者や異民族の支配を正当化する理論として使われることになったのです。つまり武帝以降のシナ王朝の創始者の皇帝たちは、まさに出自に関係なく「なんでもあり」状態になっていくのです。

そもそも武帝自体が秦帝国崩壊後のどさくさに皇帝を僭称した任侠上がりの土民の曾孫に過ぎないわけで、そんな男がシナ全土の皇帝になれたのは儒教思想のおかげでした。その漢を滅ぼして新王朝を開いた王莽は漢王朝の外戚一族の政治家で儒教原始主義者で、その新を倒して後漢王朝を開いた劉秀は劉一族の傍系の地方豪族でした。ちなみに後漢は漢とは連続性は無い全くの別王朝です。劉秀は劉一族ではありましたが漢王朝とは全く無関係で、漢王朝は一旦王莽によって完全に滅ぼされていますので、劉秀の即位に漢王朝は何ら関与もしていないからです。
しかしこのあたりまでは、まだ劉氏やその外戚など、王朝の中心勢力に近い筋から次の王朝が生まれてくる傾向があったのですが、この後になってくるともう「なんでもあり」状態になっていきます。
まず後漢末期の混乱期に現れた魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備の三人の皇帝は後漢の下級地方豪族の出身で、その三国を統一して晋王朝を開いた司馬炎は魏の一軍人の出身でした。その晋を華中に追った華北の五胡十六国の各皇帝は北方遊牧民の族長たちがめいめい勝手に僭称したものでシナ皇帝としての実体は無く、それに続く南北朝時代の北朝の皇帝たちは華北を乗っ取った北方遊牧民が漢化した貴族階級の出身で、一方の南朝の皇帝たちは華中に逃れた晋王朝の貴族階級の出身でした。
南北朝を統一した隋や唐はトルコ系遊牧民がシナ王朝を乗っ取ったもので、五代十国と宋も同様でした。遼と金、そして元はシナ王朝ですらなく、単なる異民族王朝がシナをその版図の一部にして支配していただけのことでした。明に至ってはシナ人カルト教団が作った王朝で、そのシナ人にしてもトルコ化とモンゴル化を経た後のもので秦漢時代のシナ人とは全く違う民族でした。その明を滅ぼした清は元の後継国家で、これも異民族王朝がシナをその版図に組み込んだだけのものでした。
そして清が滅びてシナからは世襲の皇帝がいなくなりましたが、シナ世界の権力者はその後も皇帝的な専制支配者であり続け、中華民国時代はそうした独裁者が乱立して統一国家としての実体は無く、その分裂状態を統一して成立した中華人民共和国、つまりレッドチャイナは毛沢東主義というカルト宗教を奉じる山賊集団が作った全体主義独裁国家であり、その指導者はまさに「赤い皇帝」と呼ぶにふさわしい存在でした。最近は毛沢東主義すらも捨て去り、民族主義に回帰して、まるでナチスドイツのような狂信的全体主義国家と化してきています。

さて、始皇帝以来の天下統一を達成して漢帝国を真の意味でのシナ帝国として再編した武帝ですが、その天下掌握の基礎となったのは決して儒教の唱える「帝王の徳」などという実体の無いお題目ではなく、漢帝国が徐々に蓄えてきた実力でした。
初代の劉邦から4代の少帝弘の時代まで混乱が続いた漢帝国は5代皇帝の文帝の治世から直轄地の内政重視に切り替えて善政を敷き、徐々に国力を増していきました。そして紀元前157年に6代皇帝の景帝が即位した以降は、自信をつけた漢帝国の中央政府はシナ各地の諸王国の力を押さえ込もうとし始め、諸王国は独立を維持するためにそれに反抗するようになりました。
そうした中、景帝が諸王国の領地の削減を強行しようとしたので、それをきっかけに紀元前154年に江南の呉王国が反乱を起こし、それに楚王国や趙王国などの6カ国が呼応して呉楚七国の乱が勃発しました。反乱軍は匈奴帝国や南越王国の助力も受けて強大なものとなり、これを鎮圧しようとする皇帝軍と勢力は拮抗し、漢帝国の天下を二分した戦いとなりました。これは単なる反乱というより、郡県制への移行を志向する皇帝勢力と郡国制の維持を志向する諸王勢力との漢帝国の向かうべき方向性を賭けての決戦であったといえます。
結局、この決戦に反乱軍側は3ヶ月であっけなく敗れ、この乱の後、皇帝による諸国王に対する締め付けはますます厳しくなり、諸国の王の下に漢帝国の中央政府から派遣される官僚が諸国の統治の実権を握るようになり、王はお飾りのような存在になっていきました。
そうした状況の中で紀元前141年に7代皇帝の武帝が即位し、紀元前136年に儒教を国教として、皇帝の徳によってシナ全土、いや世界全体を遍く直轄統治することを理想とするイデオロギーを前面に押し出して皇帝権力を絶対的なものへと高めていったのです。そして紀元前127年に「推恩の礼」が発せられて、諸国王の領地や財産などを細分化して分割相続するように定められて、諸国王はその権力基盤を失い、国王権力は消滅して中央集権制が完成したのです。
こうしてシナ全土に実質的に郡県制を敷いて直轄支配を達成した武帝は、「儒教の徳治思想によって権威づけられたシナ皇帝による専制支配」というシナ帝国の国家の在り方、つまり「シナの国体」を創始したのです。この後、1912年に清帝国が倒れるまで、この国体はシナ世界という概念の骨子であり続けたのです。
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この記事に対するコメント

>そもそもシナ帝国というものは雑多な異民族の寄せ集め国家なので、

本当です。漢民族などという一民族はもともとなかった。

>つまり「弱肉強食」の論理、具体的にはアメとムチを駆使したマキアベリズムのみによっても成立し得たのです。

秦王朝はちゃんとした法治国家でしたから、権謀術数や暴力だけで成り立っていたと考えるのは儒者の宣伝に乗せられています。

儒教の易姓革命思想で漢王朝が正統性を得たとのご指摘もあたっています。『史記』は武帝期に儒教が国教となって書かれたものですから、「本記」は易姓革命の思想で劉邦は有徳者だから天下を取れたと書いています。

秦王朝が15年で滅びたのは封建制諸国家復活を画策した勢力のクーデターからだと考えます。始皇帝と李斯の中央集権策は世界政府を樹立するものであった。世界が国々に分かれているから戦争がおこる。世界を一国に統一するために秦王朝が誕生した。

【2007/04/09 12:02】 URL | 天の安川 #- [ 編集]


 吾楚七国の乱というのは、世界史で何気なく習って覚えていましたが、中国の国体を決定づける重要な意味があった戦いだったのですね。

 郡国制と郡県制との違い。わかりました。

【2007/04/15 21:20】 URL | 田島敬一 #gT61Wq7M [ 編集]


このコメントは管理者の承認待ちです

【2010/08/29 18:37】 | # [ 編集]



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