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日本史についての雑文その173 朝鮮四郡
儒教を国家原理として取り入れてシナ帝国が完全体となって生まれた時に、そうしたシナ帝国の侵略的傾向という宿命は同時に生まれたのであり、その時代がまさにこの漢の武帝の時代であったのです。
武帝は自らが国教として定めた儒教の謳いあげる有徳の君主を自ら体現するために中華の文明地帯を更に辺境に拡大せねばならなかったのであり、また、シナ全土を直轄地として支配した武帝は、その直轄地内の商業都市である「県」の巨大なネットワークを流れる大量の血液として、帝国の外縁の新たな服属国や友好国からの膨大な物産の流入を切実に必要としていたのでした。

そうした各方面からの物産のシナ帝国への交易路の流れを妨げる外部勢力の排除がシナ統一後に武帝に課された仕事でした。その外部勢力とは、まず西北方の草原地帯からの物産の交易路を塞いでいたのが匈奴帝国で、東南方の南シナ海方面やインド洋方面からの物産の交易路を塞いでいたのが東越王国や南越王国で、そして東方の日本列島方面からの物産の交易路を塞いでいたのが朝鮮王国、つまり衛氏朝鮮だったのです。

匈奴はモンゴル高原に暮らしていた騎馬遊牧民であり、普段は広い平原に散らばって暮らしており、必要がある時はシナ北方の辺境に来てシナ人と交易をしていましたが、秦の始皇帝がシナを統一して交易利権を独占して匈奴からも激しい搾取をしたので、匈奴は怒って反抗したのですが始皇帝は大軍を送って鎮圧してしまいました。
これ以降、匈奴はシナの圧迫に対抗するためにバラバラだった部族が結集するようになり、匈奴帝国を作りました。この匈奴帝国の軍は騎馬戦術を使ったので非常に強力で、紀元前200年には漢帝国の皇帝となった劉邦の軍を破り、これ以降は匈奴は漢帝国の北方の国境地帯を制圧してこの地域の交易利権を手中にしていましたが、漢帝国は匈奴には手を出せない状況が続いていました。
そこでシナ帝国を再び統一した武帝は紀元前129年から匈奴に対する攻撃を開始し、紀元前117年ぐらいまで大軍を次々に送り込んで攻勢を続け、匈奴の勢力を黄河湾曲部北方の陰山山脈方面に押し込んで、東トルキスタン方面へ繋がる敦煌などの回廊地帯を確保して直轄地としました。そして匈奴との戦争と並行して、匈奴帝国の西方に位置する西域の交易路の開発に力を尽くし、西域にあった幾つかの遊牧民国家と友好国関係を築き、時にはそれら諸国とトラブルもあったのでそういう時は西域にも大軍を派遣して戦争を行ったりもしました。
続いて武帝は紀元前111年には大軍を南方に送り広州あたりにあった南越王国を滅ぼし、紀元前110年には福建省にあった東越王国を滅ぼして、これら地域を直轄地としました。更に紀元前109年には雲南省東部にあった滇王国を討ち、これを服属国としました。これら南方遠征によって南シナ海やインド洋へ通じる交易路が開けました。
これで残るは日本列島方面に通じる交易路を塞いでいる衛氏朝鮮だけということになりました。衛氏朝鮮はもともと漢帝国とは友好国の関係にあり、漢帝国との特約関係のもと、朝鮮半島から日本列島方面の物流の総合窓口として朝鮮半島全域で治安維持を肩代わりすることをもって朝鮮王の王号を賜り、漢帝国皇帝に対して友好の意思表示をしていましたが、武帝は紀元前108年に衛氏朝鮮が皇帝に対して臣従の礼を失したということを糾弾し、大軍をもって征伐したのでした。

しかし、こんなことは単なる言いがかりであり、そもそも友好国は皇帝に臣従しているわけではないのです。実際は武帝は朝鮮半島や日本列島方面からの物産の交易利権を途中で衛氏朝鮮に握られるのを嫌い、その利権を独占するために衛氏朝鮮を排除したかっただけのことでした。
ただ、儒教の徳治思想に従えば、シナ皇帝は世界で唯一の支配者であり、有徳の文明世界の君主なのですから、その皇帝の徳を理解せずに従わなかったり、無礼な振る舞いをする者はとんでもない野蛮人であり、そのような野蛮人は排除して、その地を皇帝が支配したほうがその地の民も徳に目覚めることが出来て幸福なのだということになります。また、征伐して皇帝の徳の偉大さを思い知らせて徳に目覚めさせることも善行ということになります。このような考え方は王化思想といいます。もちろんこれもとんでもないフィクションなのですが。
しかし、儒教思想を基本としたシナ帝国主義、つまり中華思想においては、皇帝支配下のシナ人は文明人で一段優れた存在であり、シナ帝国周辺の異民族は野蛮人で一段劣った存在なので、シナ人は異民族を善導する必要があり、資格があり、権利があるということになるのです。つまり、シナ人側の都合、特に皇帝や権力者の勝手な都合で好きなように異民族を支配したり征伐してもいいということになるのです。
このような思い上がった差別思想も、まだこの時代は権力者が外征の口実に利用するためのものでしかなかったのですが、次第にこの差別思想そのものが一人歩きして暴走するようにもなります。

さて紀元前108年に漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島を直轄地として、楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡、真番郡の4つの郡を置いて郡県制を敷きました。
郡県制とは、皇帝直轄の交易都市である「県」を複数含んだ一定のエリアを、人民が兵役で集められた皇帝直轄軍の軍管区単位に行政区を分けて統治するシステムで、この行政区を「郡」と呼んだのです。「県」も「郡」もその責任者は漢帝国の中央政府から派遣された官僚で、「県」の責任者は「県令」、「郡」の責任者は「太守」と言いましたが、太守は大きな権限を与えられており、県の内部の行政にも大きな裁量権を持っていました。
その漢帝国の直轄地の行政区が朝鮮半島に4つ設けられたということになります。楽浪郡の本部は今の平壌付近に置かれ、朝鮮半島の北西部を管轄しました。臨屯郡は白頭山を中心とした半島北東部で日本海にまで至るエリアを管轄しました。玄菟郡は日本海に面した半島東部を縦長に南北に伸びたエリアを管轄しました。そして真番郡は半島南西部を管轄し、その本部は今の釜山付近にあったと考えられます。
このように朝鮮半島はすっぽりとシナ皇帝の直轄地に含まれたのであり、衛氏朝鮮や三韓地域に存在していた多数の都市国家は全て、4つの郡の中にある県として再編成されて、漢帝国の中央政府から派遣された県令の管理下に入りました。

武帝が何故、朝鮮半島を服属国にせずに直轄地にしたのかというと、武帝の欲したものが朝鮮半島の乏しい物産ではなく日本列島の豊かな物産であったからです。つまり、武帝にとっての朝鮮半島の価値は「物産の通り道」であり、通り道としてならば変に現地民に自治権など与えずに直轄地にしてしまったほうが物流がスムーズで良いわけです。
例えば西域諸国は貴重な馬の産地でしたから直轄地とはせずに友好関係を結び、経済的圧迫を与えずに良馬を産し続けるようにして取引を拡大しましたが、そこに至る回廊部分である敦煌などは直轄地にしました。滇王国はインド洋方面からの物資の通過点ではありますが、滇自体が物産豊かな土地でしたし、直轄地を維持するには険阻に過ぎたという事情もあり服属国ということになりました。南越や東越の場合は南シナ海方面への通路であり直轄地となりました。匈奴は北方に追いやられましたが漢に屈服したわけでもなく特に友好的でもありませんでしたので漢から見れば蛮地という扱いになります。
そういった分類でいえば日本列島も元来は蛮地であったということになります。しかし武帝が朝鮮半島を直轄地にしたということは、それは日本列島との交易や外交関係を視野に入れているということであり、そして実際に紀元前108年に対馬海峡を挟んで対岸に漢帝国の直轄地が出現したことによって、日本列島、特に北九州の倭人国家群は、漢帝国のアプローチに対してどのような対応をとるのかの選択を迫られることになったのです。
この朝鮮半島における今までに無い全く新しい事態の出現による外来刺激こそが、日本列島に「部族国家文明」の「起の部」を到来させることになったのです。そして、それは同時に、日本列島において進展していた「原始国家文明」の展開を「転の部」へと導くことにもなったのでした。
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この記事に対するコメント

 漢帝国とはいいものだとばかり思っていましたが、そのような侵略的な性格があったとは、初めて知り、目からうろこが落ちる思いがしました。

【2007/04/15 20:44】 URL | 田島敬一 #gT61Wq7M [ 編集]



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