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日本史についての雑文その174 宇佐の海人氏
日本列島に到来した新しい文明サイクルの波である「部族国家文明」の600年間は、その「起の部」が紀元前100年頃?紀元後50年頃、「承の部」が50年頃?200年頃、「転の部」が200年頃?350年頃、「結の部」が350年頃?500年頃ということになります。
この時代に先行する原始国家文明の時代においては、皇帝制度以前の古代シナ文明の刺激を受けて水田稲作を行う農村共同体から原始的な国家の形態が生まれ育っていきましたが、この部族国家文明の時代においては、皇帝制度を伴ったシナ帝国の文明の刺激を受けつつ、前の時代に生まれてきた原始的な小国家が統合されていって部族国家連合が各地に生まれ、それが盛衰していく過程が展開され、これら部族国家連合が次の王権国家文明の時代において大和王権に収斂されていくことになるのです。

この部族国家文明の「起の部」は同時に、原始国家文明の「転の部」でもあり、むしろまだこの時代は部族国家文明のほうの伸張は脇役で、原始国家文明が新しい事態の発生を受けて変質し成熟していく過程のほうが表面上目立った現象となるでしょう。もちろん、それらの双方の現象は表裏一体となったものではありますが。

この原始国家文明の「転の部」の始まりを告げる事件は、紀元前108年の漢の武帝による朝鮮四郡の設置でしょう。まずはその時点までの日本列島側の動きを簡単に振り返ってみますと、水田稲作を基礎として、戦争や交易を通して、氏族社会を基本単位とした国家形成が進み、それと同時に、伝統的な自然霊信仰と古代シナ世界の伝統宗教とが習合して神道の原型を形成していき、その神道的価値観に基づいて、中間組織の強固な日本独自のスタイルの祭政一致型の国家が作られていき、北九州では朝鮮半島の諸国家と交易を行う小国家が出現するレベルまで、また瀬戸内以東の西日本各地においては小共同体を祭祀によって統合した大共同体が出現するレベルまで国家形成が進み、東日本においても水田稲作が普及していたという感じでした。
このうち、特に北九州の国家形成の動きには、秦の天下統一戦争以来の打ち続くシナ帝国の戦乱や圧制から逃れてきたシナ系亡命民が深く関わっていたと思われます。彼らの大部分は氏族社会を破壊して皇帝が全てを支配する皇帝専制体制に反対する考え方の持ち主であったと推測されます。
彼らはそもそもシナ帝国が皇帝専制体制になることを嫌って東方へ逃れてきたのであるし、実際、漢帝国初期にはシナ大陸の東側では西方にある皇帝直轄の郡県制の拡大を嫌って戦国期以来の伝統的な諸国王の統治を望み、それを実現していました。それら諸国に住んでいた人達は皇帝の直轄統治は望んでいなかったはずです。
シナ大陸の東側でさえそんな状況ですから、その更に東側にあり氏族社会も健在であった朝鮮半島や日本列島に渡来していたシナ系亡命民たちが皇帝直轄統治を望んでいたとは到底考えられません。彼らは皇帝専制体制のことはむしろ忌み嫌っていたでしょう。
しかし、紀元前154年の呉楚七国の乱や、紀元前127年の推恩の礼によってシナ大陸東側の諸国の自治権が奪われて皇帝の直轄地になっていきました。そしてそれにつれて、そうした西からの圧迫を嫌い、それら諸国から反皇帝派の亡命民が更に多く朝鮮半島や、その更に先にある日本列島の北九州へ逃れてきた可能性は高いといえます。
あるいは、そうした反皇帝派のシナ系亡命民の増加が、衛氏朝鮮を漢帝国に対して殊更に挑発的な態度をとらせることになり、紀元前108年の武帝による侵攻の口実を与えたのかもしれません。まぁそのあたりは漢側の圧迫が最初にあり、その挑発に衛氏朝鮮側が乗ってしまったのかもしれませんが、とにかく漢と衛氏朝鮮が良好な関係でなかったことは確かでしょう。そしてそれはおそらく、基本的に衛氏朝鮮が漢帝国の皇帝専制体制に対して強い警戒心を持っていたからだと思います。

しかし結局、朝鮮半島も紀元前108年に皇帝の直轄地にされてしまったわけで、そうなると、あくまで皇帝専制体制を嫌う人士は、シナ系であろうが半島原住民系であろうが、とにかく亡命民となって北九州へ逃れてくるしかないわけで、もともと北九州も皇帝専制体制を嫌うシナ系亡命民を多く抱える土地柄ですから、紀元前108年以降の北九州は、にわかに反漢的気運が高まっていったと思われます。
しかし、対馬海峡を挟んだ真番郡にシナ帝国の商業ネットワークに直結した交易ルートが出現したという現実は、それを脅威と感じる者にとっては不気味そのものだったでしょうが、既に朝鮮半島との交易によって利得を得ていた北九州の各地の小国家や共同体の首長たちにとっては、非常に魅力的なものに映ったことでしょう。
だいたい、北九州の小国の王たちの権力や権威、そして財政的基盤には、朝鮮半島との交易によって得られるものによって支えられている部分が無視できないほど存在していたのであり、彼ら自身が既に半島との交易関係無しにはその地位を保持できないほど、半島とは運命共同体になっていたのです。それなのに朝鮮半島が漢帝国の直轄地になったからといって、亡命民たちの言う通りに断交などしてしまったら、今度は自分の地位が危うくなるのです。
それに、亡命民たちの言うようにシナ帝国がそんなに危険な存在なのだとしたら、断交などして下手に刺激して、対馬海峡を挟んでそのような獰猛な敵と向かい合うことになるほうがかえって危険なのではないかという考え方も首長たちにはありました。
それにどうやら、漢帝国は北九州の諸国に対しては、朝鮮半島のように直轄地にしようという考えではなく、真番郡を介して友好的に交易を行おうということのようでした。つまり、倭人国家にとっては今までと大して変わりない状態で、しかも交易によって得られる利得は今までの何倍にも膨れ上がるようなのです。
それならば別に断交などせずに漢帝国と上手くつきあっていけばいいのではないか、という意見が北九州の倭人国家の王達の大勢を占めたのではないかと思います。亡命民たちの中にも仕方なく王達の決定に従う者も多かったとは思います。こうして紀元前100年ぐらいから北九州の倭人諸国家は朝鮮半島南端の漢帝国の直轄地である真番郡と交易を開始するようになっていきました。

しかし、中にはどうしてもその決定に納得できない亡命民グループも存在したことでしょう。彼らはおそらく、シナ大陸や朝鮮半島でシナ帝国や皇帝専制体制というものを直接観察し、その行状をよく知り、その本質を見抜いていた者たちだったのでしょう。すなわち、シナ帝国というものは、たとえ最初は友好国として交易関係にあったとしても、必ず次には服属を求めてきて、服属させれば次には直轄支配を望んでくるものなのだということです。それはシナ帝国の持って生まれた本能のようなものであり、そうした果てしない侵略的性向こそがシナ帝国の本性なのです。だから、目先の交易の利得に釣られて、とりあえず友好国だからといって安易にシナ帝国と付き合えば、朝鮮半島の二の舞になって日本列島もシナ帝国に呑み込まれてしまうのである、というような意見を主張していたのであろうと思います。
特にシナ帝国の場合、最初は友好国として遇していても、その更に遠方により魅力的な物産地や市場の存在を確認すれば、その友好国には途端に通り道としての存在意義しか見出せなくなり、服属国や直轄地にして皇帝の支配する奴隷居住地域にしてしまう傾向がありました。直轄地になるとシナ皇帝の直轄軍によって治安維持が行われるようになり、現地住民には商売上の利権も残らず、氏族社会などの中間組織は解体されて、全ては皇帝に収奪されてしまいます。現地住民にはデメリットしか無いのです。
そうしたシナ帝国の傾向を見抜いていた反皇帝派のシナ系亡命民のグループは、朝鮮半島から見て北九州より更に遠方に、そうした魅力的な物産地や市場が存在するものかどうか調査することにして、宇佐に本拠を置いて南方と東方の海路を開拓して各地の事情に通じている海人氏という海洋民氏族に相談しました。するとどうやら東方には未だ未発達ではあるが潜在能力では北九州を遥かに凌駕する巨大な物産地や市場が広がっていることが分かりました。
こうなると北九州勢力が朝鮮半島の真番郡と取引することは非常にリスキーなこととなってきます。対馬海峡を挟んで目と鼻の先にある真番郡には漢帝国の皇帝直轄軍の大軍が駐屯しているのです。日本列島の奥地の商業利権に目をつけた武帝が朝鮮半島に続いて北九州も直轄地として支配しようとして大軍を差し向ける可能性もあるのです。
そこで交易反対派の亡命民グループは再度、北九州の倭人の王達に漢帝国との交易のリスクを説いたのですが、目先の交易の利を重視する王達はやはり進言を聞き入れず、ここに至り反対派亡命民グループも北九州の王達への説得を断念し、瀬戸内以東の部族に働きかけて危機を説いて北九州やシナ帝国との交易に参加しないように呼びかけることにしました。そして宇佐の海人氏を北九州勢力から離反させて北九州勢力が瀬戸内海の海上流通路を使えないようにしたのです。

この宇佐の海人氏は瀬戸内海の海上交易を中心的に担っていました。というより、この時代は瀬戸内海の海上流通路はまだほとんど発達しておらず、海人氏ぐらいしか瀬戸内海を往来する船は運航させていなかったのです。その海人氏が北九州の倭人国家の勢力から離反してしまえば、北九州までが漢帝国の交易圏に組み込まれたとしても、その先までは漢帝国の交易圏はなかなか伸びてこないのです。
北九州勢力が海人氏の瀬戸内海航路を利用できなくしてしまえば、漢帝国から見れば朝鮮半島の先に見える商業圏は北九州地域だけということになり、それほどの魅力のあるものとは判断されず、北九州が最遠方の友好国ということになり、その先が蛮地ということになれば、蛮地を征服する目処が立たない限りはとりあえず北九州を最遠方の友好国として温存していくしかなくなるのです。
そうやって北九州勢力が瀬戸内以東に及ばないようにしたところ、真番郡のほうが持ち堪えられなくなってきました。何故なら、シナ帝国の「郡」や「県」の経費は現地調達制となっており、郡が保有する行政機関や皇帝直轄軍の維持費も現地における上がりによって賄われるからです。現地の採算が赤字になれば郡は廃止されてしまうのです。朝鮮半島南端の真番郡は対日貿易で上がる利益を見込んで設置されていますから、北九州諸国のみを相手にした貿易に限定されることになれば、当初予想していた交易規模を大幅に下回ることになり、真番郡は大赤字を出して廃止されます。そういうわけで真番郡は採算が取れなくなり、紀元前82年に廃止されました。
真番郡が廃止されたことによって当面は日本列島に対するシナ帝国による切迫した軍事的脅威は無くなりましたが、そうして時間を稼いでいるうちに、対シナ帝国貿易反対派はその間に更に瀬戸内以東の防御態勢を更に固めることにしました。何故なら、朝鮮半島の残る直轄郡を維持するためにシナ帝国がますます北九州諸国に交易規模の拡大を求めて、それに応えて北九州諸国が瀬戸内以東へ進出してくる可能性があったからでした。
それを防ぐためには瀬戸内以東の地域や瀬戸内海の海路が北九州勢力や漢帝国によって征服されないような防御態勢を敷く必要があります。幸い海上では海人氏に強みがありますから、海人氏の陸上根拠地を出来るだけ北九州勢力から遠くに離して陸上から攻略されないようにして、そこから海上に出た海人氏の船と瀬戸内や畿内の陸上の部族との連携を上手くとって、北九州勢力の東進に備えるのが得策ということになります。

このような計画を実現するためということになると、海人氏の新しい根拠地は、北九州から最も遠く、かつ瀬戸内海に面している場所が良いわけで、瀬戸内海の東端が望ましいということになります。つまり大阪湾ということになるのですが、当時の大阪湾は内陸部まで湿地帯で水路が入り組んでおり、船で奈良のあたりまで行くことが出来ましたし、淀川を遡って琵琶湖まで至ることも出来て、水軍の根拠地としては申し分の無い最良の地でした。
その地へ入り海人氏の本拠地を築き、近隣の他の部族にも協力を呼びかけていって、畿内に北九州勢力に対抗できる勢力を作っていけば、海上からの瀬戸内の各部族への共闘の呼びかけもスムーズに受け入れてもらえる可能性が高まるのです。単なる海上勢力に過ぎない海人氏ではなく、畿内の有力な国家連合の盟主としての海人氏のほうが、他の地域の部族勢力もその呼びかけに応じやすくなるからです。
そういうわけで、海人氏は皇帝専制体制を嫌悪し漢帝国との交易に反対するシナ系や半島系の亡命民を伴って、一族の大部分を引き連れて船団を仕立てて宇佐を出発して、瀬戸内海を東へ進み大阪湾を目指したのでした。これが紀元前77年のことで、この時の海人氏の首長の名前がイワレヒコというわけです。
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