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日本史についての雑文その175 神武東征
以上、ここまで多分に想像を交えて書きましたが、要するにこれは神武東征のイントロ部分ということになります。細部については相当部分は妄想というか、史料の空白を想像で補っています。
ただ、もともとシナ大陸の戦乱や圧制を嫌った難民が日本列島へも渡来してきていたのはおそらく間違いないことで、彼らが紀元前100年ぐらいまでは主に北九州に集中していたのも、その時代の出土品や社会の発展段階の地域差を見る限り、ほぼ間違いないでしょう。そして彼らが難民になった原因を作ったのはシナ大陸における皇帝専制体制であったことを考えると、彼らが皇帝専制体制を嫌っていた可能性も高いといえるでしょう。

そうした状況において、北九州の倭人諸国家が対馬海峡を挟んで今まで交易関係にあった朝鮮半島が紀元前108年に突如として漢帝国の直轄地になったという現実を突きつけられた際、その現実への対応を巡って倭人諸国家の中で意見対立が生じた蓋然性は非常に高いといえるでしょう。
こうした新しい事態の発生に対しては、従来の路線をひたすら踏襲する人、目先の利得に走る人、歴史的経緯を鑑みて慎重になる人など、様々な反応が予想されますが、特に新時代を切り開いていく人というのは、この変化の本質を捉えて新天地に切り込んでいく人です。
その新天地とは、漢帝国との交易に積極的なスタンスの人の場合はもちろん交易を意欲的に推進していくということになるのでしょうけれど、漢帝国との交易に危険を感じて反対するスタンスの場合においては、いっそ北九州以外の新天地に飛び出していこうという方向性として現れる可能性が高いといえるでしょう。

実際、この紀元前108年以降、北九州と朝鮮半島の漢の直轄地との交易が盛んになったのはシナ文献や出土品などからも確実なことで、その後、北九州の国家形成はますます進み、共同体間の上下の階層関係はますますピラミッド状に積み上がっていったようです。それは出土品などから類推されることです。そして紀元後57年には後漢王朝から博多の奴国の国王が「漢委奴国王」の称号を賜ることになります。こうした国家統合の進展は漢帝国との交易の影響によるものでしょう。
一方の瀬戸内以東の銅鐸文化圏では紀元前100年ぐらいから銅鐸が巨大化し始め、従前の農耕神祭祀から祖霊祭祀への移行が生じて、共同体の事業を円滑に行うための政治性を帯びてくるようになったことは出土品から判明しています。この紀元前100年あたりを境目にして瀬戸内以東でも大きな政治的な変化が生じたのです。
そして祖霊祭祀が古代シナ文化であることと、紀元前100年を挟んでその前は瀬戸内以東では祖霊祭祀はあまり見られず、それ以後には祖霊祭祀が見られるということ、そしてシナ系亡命民が多く存在していた北九州ではそれ以前から祖霊祭祀が多く見られて共同体祭祀の政治性も高かったということを考えると、紀元前100年あたり以降から、シナ系亡命民が北九州から瀬戸内以東へ飛び出していくようになったということが強く想像できるのです。
もちろんそれは複数のグループが別個で東へ向かったのであろうし、多くは陸路で東へ向かっていったのであろうと思います。また、東の新天地に向かったのはシナ系だけに限らず、朝鮮半島から亡命してきていた者もいたであろうし、北九州の倭人が瀬戸内以東に新天地を求めたケースもあったでしょう。
そして、紀元前100年以降は瀬戸内以東でも共同体の統合が進んでいったことも考古学的に確認されています。この時代になると瀬戸内以東でも戦争が起こった痕跡が散見されますが、むしろ共同体の統合は祭祀を通じて進められたようで、近隣共同体間で戦争はあまり多くはなかったようです。
ただ、この時期の瀬戸内以東に軍事的要素が全く無かったかというとそんなことはなく、紀元前50年ぐらいから瀬戸内海沿岸や大阪湾周辺に高地性集落が発生するようになり、これは何らかの軍事的緊張を意味するものだとされています。この時期の高地性集落は割と急ごしらえで海を見下ろせる高台に設置されることが多く、瀬戸内海を通る敵の水軍の襲来を想定しての見張り場や狼煙台としての機能と、臨時の避難所、砦や山城の機能を備えたものとされています。

つまり、瀬戸内以東では紀元前100年頃の政治変動以降、海上を侵攻してくる何らかの軍事的脅威を想定しての各部族の軍事的な共闘関係が構築されるようになり、それが紀元前50年ぐらいには一応機能するようになったのだといえます。
そしてこうした動きがきっかけとなってであろうと思いますが、紀元前100年ぐらいから瀬戸内海の流通路が整備されるようになり、北九州から大阪湾までの東西流通路が機能するようになったのは出土品などから類推されています。しかしこの頃はまだ、意外なほどに北九州圏で流通していたシナ大陸からの舶来物などは瀬戸内以東では出回っておらず、どうやら北九州圏と瀬戸内以東圏とは冷えた関係にあったようで、瀬戸内海の流通路というのは、もっぱら瀬戸内以東の勢力内での流通や情報の遣り取りのために機能していたようなのです。
つまり、これらから推測されるのは、紀元前100年ぐらい以降、北九州と瀬戸内以東の間に軍事的緊張関係が生じて、それがきっかけになって瀬戸内以東の共同体の統合が進み、国家形成へと進むようになり、そうして出来上がっていった瀬戸内以東の各地の勢力が連帯して北九州勢力の侵攻を食い止めるための防御態勢を構築していったということです。
そして、その緊張関係は、紀元前100年ぐらいに北九州から瀬戸内以東に向かって離反していった反漢派のシナ系亡命民らの北九州およびその背後にいる漢帝国への警戒心が原因となって生じたのではないかとも推測できるのです。
そしてその反北九州同盟の動きに密接に関わってくるのが瀬戸内海の海上勢力です。高地性集落も海上兵力とペアになって機能するものでしたし、防御態勢を機能させていたのは瀬戸内海の海上流通路でした。そして確かに瀬戸内海の海上権さえ押さえておけば対漢貿易は北九州だけの限定的なものになるのであって、対漢貿易を嫌って東へ向かった亡命民たちの望みを達するためには瀬戸内海の海上勢力との連携は不可欠なのです。

実際、そうやって瀬戸内以東勢力が紀元前100年以降に踏ん張って北九州勢力の浸透を防いだことによって、朝鮮半島南端の真番郡の対日貿易額は予想よりは振るわなかったようです。朝鮮半島が漢の直轄地となったことによって北九州と朝鮮半島の間の貿易自体は飛躍的に拡大したのですが、おそらく漢帝国の当初の試算ではもっと貿易規模は大きくなるはずだったのではないでしょうか。何故なら、わざわざ物産の乏しく狭小な朝鮮半島に4つも郡を設置しているからです。よほど対日貿易で多くの利益を見込んでいたのだと思われますが、それはおそらく瀬戸内以東、畿内まで含んだ貿易予想額の試算だったのではないでしょうか。それが予想外の瀬戸内以東勢力の離反によって対北九州限定の貿易になってしまい、紀元前82年には真番郡、臨屯郡は赤字のためにあっけなく廃止ということになってしまったのです。
これは武帝の極端な積極政策のために漢の国力が著しく衰弱し、人口が半減したという要因もありますが、瀬戸内以東勢力と反漢派シナ系亡命民の作戦が見事に成功したともいえます。そして最初からこの作戦の成功のためには瀬戸内海の海上勢力の協力が不可欠なのであり、反漢派の亡命民は最初から瀬戸内海の海洋民と結託して、その上で瀬戸内以東の各勢力と連携していく方法を模索していったのではないかと思われるのです。

こういった脈絡を理解した上で日本書紀や古事記を見ると、イワレヒコの東征物語やその後の天皇家の支配領域の拡大の物語が目につくわけで、これらはこうした紀元前100年頃以降の日本列島内の動静の一断面を伝えるエピソードなのではないかと思えるのです。
もちろんイワレヒコが最初から日本列島の支配者であったはずはなく、イワレヒコのような行動を選択した者はこの時代において他にも多数存在したであろうし、イワレヒコはその大勢の中の一人であったでしょう。ただ記紀は天皇家の支配の正統性を述べるための文書ですから、天皇家の祖であるイワレヒコが最初から日本の支配者たるべく正統性を有していたかのような書き方になっているのは当然で、そういう意味でこの物語は時代の一断面を表しているに過ぎないと解釈すべきなのです。
また、この時代の日本列島においては、イワレヒコとは全く逆の方向を向いて発展していった北九州勢力も存在していたわけで、むしろこの時代においてはそちらのほうが対外的には日本列島を代表する主流派の勢力であったでしょう。
ただ、ここでどうして先述のようなイワレヒコの話に唐突に繋がるのかについては記紀の内容に立ち入って説明しなければ不明確な部分もあるでしょう。いや、そもそもイワレヒコなる人物が実在したのかも疑問ですし、実在したとしても記紀の記述に従えばそれは紀元前660年あたりのことではなかったかという疑問もあります。いや、そもそも記紀の記述に信憑性があるのかどうかが問題です。まずは、そうしたあたりから私の考え方を説明していく必要があるようです。
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