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日本史についての雑文その176 歴史記述
まず、現在の日本の歴史学界では、日本書紀や古事記に記述してあることは事実ではないという考え方が一般的ですが、これは非常に偏った考え方であろうと思います。記紀が書かれたのが7世紀末から8世紀初めにかけての時期で、その内容はその当時において宮中や豪族、民間において伝えられていた伝承や、当時はまだ当事者や当事者の子孫が多く生き残っていた出来事の記録などだったのであり、しかも編纂者は正体不明の民間学者というわけでなく天皇を責任者としたれっきとした貴族や官僚たちのグループであり、彼らは決してペテン師の類ではありません。
もちろん古代のことですから内容に間違いもあるでしょうが、彼らはちゃんとした歴史書を作ろうとしていたのは確かであり、最初から偽書の類を作ろうとしていたわけではないでしょう。もちろんそれは彼らなりの価値観の上での「ちゃんとした歴史書」ということなのですが。
しかし多少の間違いはあったとしても、悪質な捏造や改竄は無かったのではないかと思われます。何故なら、当時は現在よりも記述内容の関係者やその子孫が健在であったので、もし酷い捏造があれば必ず記紀を偽書だとして糾弾する声が残されているはずだからです。
権力の監視が怖くてそのような声は上げられなかったという意見もあるでしょうが、当時の律令政府に日本中に言論統制を敷くような強大な権力があったともあまり思えません。百歩譲ってそのような強大な権力があったとしても、百年も経てばそのような締め付けは緩んできます。実際、その頃には律令国家体制は弛緩してきています。それでも記紀に対する異論というものは全く出てきていません。
記紀に対する異論のようなものが出てくるのはずっと後世になってから、だいたい江戸時代以降のことで、それもどう考えてもその異論のほうが怪しい言い分のほうが多く、本格的に記紀を偽書だとするような風潮が現れたのは戦後になって突然の出来事でありました。これは、本当に記紀が偽書だとするならば不自然な流れではないでしょうか。いや、もちろん記紀の内容に全く嘘偽りが無いということではないのです。ただ、嘘偽りが含まれているということと、偽書であるということとは大きな違いのあることなのです。

そうした戦後になっての突然の記紀批判論の発生は第二次大戦の直前や最中に極端に記紀の記述を絶対視する風潮があったことに対する反動が戦後になってから起きて、記紀の記述を疑問視する説を唱えることが流行したことに端を発します。
だいたいアカデミズムやジャーナリズムなどというものは、議論さえ許されないようなタブーがタブーでなくなった場合、狂喜して従来の絶対視されていた価値観に徹底的に疑問を投げかけて検証するものです。例えば戦前は完全に悪役であった足利尊氏を再評価するようになったり、近年では北朝鮮関連の言論タブーがだいぶ崩壊してその反動でマスコミでは北朝鮮関連の報道が洪水のようになりました。
これらはだいたい学術的、あるいは社会的に肯定的な出来事ではあったのですが、戦後の記紀タブーの解禁による記紀否定論の場合は、それが終戦直後の日本における共産革命直前的な状況の中で政治的に利用され、結局は逆に記紀否定論が絶対視されることになり、記紀否定論に疑問を差し挟むことが新たなタブーとなってしまったという意味で、非常に否定的な影響を後世に残したといえるでしょう。
そうして戦後の記紀への疑問視を政治的に更に歪曲して固定化した左翼的な記紀否定論が長らく戦後日本歴史学会のスタンダードになったのです。この戦後の記紀否定論によれば記紀の記述は虚構で後世の創作だということになります。

そもそも、単なる王朝の年代記のような簡単なものではなく「歴史を記述する」という行為は述作者の主観が入る極めて政治的行為であり、政治が発達した社会でしか歴史記述という行為は発生しませんでした。例えば、政治が未発達であったアメリカインディアン社会や、宗教が政治より発達していた古代インド社会では歴史記述という営為は発達しませんでした。
歴史記述という行為を発明したのは、古代ギリシアのポリス政治の発達した時代のヘロドトスであり、この系譜は古代ローマ時代の歴史家たちに引き継がれ、更にローマ帝国滅亡後は中世ヨーロッパと中世イスラム世界に引き継がれ、そしてこの流れが近代西洋史学に繋がっていくのです。
このヘロドトスから始まる歴史記述の流れは、もちろん個々の歴史記述においては過誤や思い込みも甚だしいものもありますが、だいたいトータルとして見れば客観的に歴史を検証しようとする姿勢が基本であるといえます。何故そうなったのかというと、これら古代ギリシアや古代ローマは多神教世界であり、また重層的な中間組織の多様な社会であったので、政治権力や価値観が多元的であり、歴史記述は非常に影響力の大きな政治的営為であるがゆえに、特定の政治権力に偏りすぎた歴史家は他の政治権力から攻撃されることになり、常に身の危険が発生するのであり、それを避けるために出来るだけ特定の政治権力に偏らず、全ての政治権力から距離をとって中立的な歴史記述を心がけることが自分の安全を保障する最良の手段であったからです。
一方、それとは別系統の歴史記述の系譜が生まれたのが古代シナでした。これは皇帝専制体制下で政治制度が急速に整備されていった漢帝国の前期、武帝の時代に出現した司馬遷の「史記」に始まる系譜です。しかしこの司馬遷に始まる系譜の歴史記述は、ヘロドトスの系譜とは違い、多神教的世界観や氏族社会などの中間組織が崩壊して皇帝専制体制が確立した後で生まれたものであるゆえに、政治権力が皇帝権力ただひとつという状況の中で、政治的営為である歴史記述もまた、皇帝権力の影響下に呑み込まれていったのです。
司馬遷はそれでもまだ在野の歴史家であったと言われていますが、「史記」に続く歴史書である「漢書」の作者の班固、「三国志」の作者の陳寿になると、これはもう皇帝お抱えの官僚であり、歴史家というよりは、皇帝専制体制の正当化のための政治的営為を繰り返す御用学者というべき存在でしょう。
結局、この後、清の時代に書かれた「明書」に至るまでの二十四史における作者は全員が皇帝配下の官僚御用学者であり、しかも流石に権力一極集中のシナ社会らしく、歴史記述という行為はこの官僚御用学者のみによって独占され、在野に一般的な歴史家というものを全く輩出することが無かったのでした。主に在野の雑多な歴史家によって系譜を繋げてきたヘロドトスの系統とは全く違う部分であります。

このようなシナにおける歴史記述の状況では、公平中立的な歴史記述というものは不可能というもので、そもそも「史記」以降の二十四史の記述方式自体が、「本紀」という皇帝の伝記部分が中心となって構成されているのであり、皇帝に奉仕し皇帝を正当化し賛美するための歴史記述であることは明白です。
また、司馬遷が「史記」を書いた時代には儒教が国教となっていましたから、「史記」も儒教論理をベースにして構成されており、皇帝は有徳の君主であり、中華世界は文明の地で辺境地帯は野蛮人の土地ということになっています。もちろんこれはフィクションですから、既にここに嘘があります。しかしもっと重大な嘘は易姓革命思想に基づいた歴史観を基本にした点です。
この「史記」においては、例えば周が殷を倒した時には殷の最後の王が悪逆非道の限りを尽くしていたことになっています。そして更に遡って殷が夏を滅ぼした時も、夏の最後の王も全く同じような悪逆非道を行っているのです。実際はこんなことはあり得ないのであって、司馬遷がここで言いたいことは、悪逆の限りを尽くして徳を失った王朝から天が統治権を取り上げて、新しい王朝に地上の支配権を与えたということなのです。つまり易姓革命思想に基づく王朝交替を正当化しようとしているのです。そのために歴史上にそうした実例があるということにしたくて、夏や殷の最後の王に悪役を演じさせているのであり、イデオロギーのために歴史的事実を捻じ曲げる典型例だといえます。
このように、司馬遷からして既に酷い嘘つきではあるのですが、彼はまだイデオロギーにのみ忠実なタイプであり、あくまで彼自身の価値観を正当化するために嘘をついており、漢時代において劉邦批判を書き残したりして、まだ骨があるほうなのですが、「漢書」の班固より以降の官僚御用学者となるともう完全に皇帝の下僕であり、皇帝や王朝の正当化のために平気で嘘を書くことになります。これが現在にまで続くシナにおける歴史文化であり、まぁ一種の「愛国無罪」というやつです。国家のためなら平気で嘘をつくわけです。
こうしたシナにおける歴史記述の在り方は、後に隋唐の時代になって周辺の政治が発達してきた諸国、すなわち朝鮮や日本においても採用されていくことになります。政治が発達してくると歴史記述をする欲求が生じてくるものだからですが、その際にこの極東地域においては、この司馬遷型の歴史記述しかお手本が無いわけですし、朝鮮や日本ではこの時期は隋や唐の皇帝専制の中央集権体制をモデルにした政治体制を構築しようとしていましたから、この司馬遷型の歴史記述が相性が良かったのです。こうした背景があって日本における日本書紀や古事記が成立してきたのです。
つまり記紀はこうした司馬遷以来の「王朝正当化のために平気で嘘をつく史書」の系譜に位置するものだから信用できないということなのです。確かにそれは一理あります。記紀には嘘が含まれている可能性が高いと思って注意深く読んでいく必要があるのは同感です。しかし、全てが虚構であるというのはあり得ない話でしょう。
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