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日本史についての雑文その178 記紀編纂の目的
記紀の作者が嘘をついてまで強調したかったであろう部分を知るためには、記紀が編纂された目的を考えてみればいいのです。いや、この場合、記紀のうち古事記は日本書紀の編纂作業の途中で生れ落ちた副産物のようなものなので、日本書紀の編纂の目的が何であったのかについてだけ考えればいいと思います。
手っ取り早く結論を申し上げると、日本書紀の編纂の目的は、7世紀後半に新たに建国した日本という国家がシナ帝国を中心とした華夷秩序から独立した「シナとは別の中華」であり、天皇家もまたシナ皇帝と同様に天命を受けて日本を統治しているという正統性についてシナをはじめとした東アジアの諸外国に知らしめることでした。

この日本書紀が海外向けの要素が大きかったことは、日本書紀で使用されている漢文が当時の正式なシナ人の使う漢文であったことからも明らかです。
いや、正確に言えば、日本書紀の全30巻は、正式なシナ式漢文の巻と、日本人の使う変則的な漢文の巻の2種類に大別されるのであり、これはおそらく最初は正式なシナ風の漢文で全巻を仕上げようと意気込んで、おそらく663年の白村江の戦いで捕虜にした唐人の学者に書かせていたのでしょうけれど、思わず編纂作業が長引き、途中でその唐人学者が死に、続きの部分を仕方なく日本人が引き継いだのでしょう。

漢文や漢字は、漢代と唐代とではだいぶ違います。唐の時代のシナ人は漢の時代のシナ人とは全く違う民族だからです。漢字や漢文は表意文字で、異民族でも共通のコミュニケーションが可能な便利なものですが、それでも元々の言語が違う民族ごとにその用法には特有のクセというものが生じます。漢和辞典を引けば分かるように、漢字の音読みには「漢音」と「唐音」があります。同じ漢字でも漢時代と唐時代では読み方すら違うのです。ならば漢文の使い方も違いがあって当然というものでしょう。
もちろん当時の日本人も知識人はみんな漢文は書くことは出来ました。いやこの時代になって成立したばかりの「日本人」には華僑出身者も結構いましたから、漢文はお手の物だったでしょう。ただ、それはやはり日本人特有のクセのついた漢文であったでしょうし、しかもそのベースは漢代の漢文であったのです。
隋や唐が成立する前のシナ大陸は南北朝時代であったのですが、日本はずっと南朝のほうと交流していたのであり、それも600年に隋に使いを出すまでは100年ほど交流を絶っていたのです。ましてや北朝のほうとは全く交流していませんでした。しかし隋や唐は北方遊牧民によって構成される北朝の地域から現れてきたのであり、唐代の漢文というのはこの北朝エリアで使われていた漢文だったのです。一方、南朝エリアは漢代の漢文を使っていました。ですから日本においては漢代の漢文をベースにした漢文が使われていたのであり、唐代の漢文を使える日本人はいなかったのです。
日本は600年に隋に使いを出した後もどうも隋や唐とは関係がギクシャクして、そのまま663年の白村江の戦いに敗れ、半ば鎖国的に日本列島に引きこもり、唐とは全く交流が無い状態であったわけですから、日本国内で唐風の漢文を使えるのは白村江の戦いの捕虜の唐人学者ぐらいで、他にストックは無い状態だったのです。
そんな稀少な唐人にわざわざ唐風の漢文で書かせるわけですから、日本書紀が唐に見せることを大きな目的として書かれたことは明らかということになります。日本国内で読むことのみが目的であれば、最初から日本人に通じる漢代の漢文で書けばいいのです。
そして、日本書紀の編纂に手間取っているうちにその唐人学者は死んでしまい、仕方なく後を引き継いだ日本人が漢代の漢文で続きを書いたか、あるいはなんとか唐風の漢文の模倣をしようとして、それでもやはり日本人のクセが残った漢文で書いたか、とにかくそういう紆余曲折の末に720年に日本書紀は完成したのです。

さて、私は別にここで日本書紀編纂の苦労話をしようというわけではなく、ここで重要なことは、日本書紀は唐をはじめとした外国に見せることを目的としていたということなのです。となると、漢文の種類だけではなく、その文の内容そのものも、外国人向けのものになっているはずなのです。つまり、「日本という国家が天皇家によって統治されることの正統性」を「外国人に理解させること」が日本書紀の主要な目的でなければいけないのです。
では、外国人、といってもこの場合は主に想定されているのはシナ人ということになりますが、シナ人が最も納得する「統治の正統性の根拠」とは何なのかというと、それは「有徳性」ということになります。天皇が有徳の君主なのであれば、天命を受けて日本という国家を統治する正統性は十分にあるということになります。そして、その有徳性を最も分かりやすく示すシナ史書におけるお決まりの手法が「易姓革命」なのです。
「史記」は伝説的な五帝の時代から漢の武帝の時代までが書かれていて少し変則的ですが、その後の「漢書」以降のシナの二十四史の基本的なパターンは、新しく興った王朝の官僚御用学者によって前の王朝の歴史が描かれるのです。そして、必ず前の王朝の末期は悪く描かれ、前の王朝がいかに徳を失っていたのかが強調して描かれます。そして天がその前の王朝から地上の統治権を剥奪して、新たに有徳の者に地上を統治するように天命を下すのです。それがその官僚御用学者の仕える新しい王朝の創始者ということになるのです。そのように前王朝の歴史記述にかこつけて、実際には前王朝の末期を誹謗することによって、易姓革命思想によって現王朝の支配を正当化するのが、シナ史書の毎度毎度お決まりの基本的手法です。

日本書紀編纂事業が実際に始動したのは663年の白村江の戦い以降のことで、具体的な活動開始は天武天皇時代の681年のことでしょう。それまでにシナでは二十四史のうち、「史記」「漢書」「三国志」「後漢書」「宋書」「南斉書」「魏書」は既に南北朝時代までに完成しており、更に唐代に入ってからは律令の整備と並行して史書の編纂が唐の2代皇帝の太宗の命によって急ピッチで進められて、629年に「梁書」、636年に「北斉書」「陳書」「周書」「隋書」、648年に「晋書」が完成していました。
この太宗の時代の一連の史書編纂事業は律令国家である唐帝国の基礎を築いた「貞観の治」の重要な要素として行われたのであり、だいたいその一世代後ぐらいにそれを見習って律令国家を建設しようとしていた天智天皇や天武天皇らに史書編纂事業の重要性を認識させると同時に、その編集方針の指針も提供したのでした。太宗時代の一連の史書以降は官製史書の傾向が一層強くなり、内容も易姓革命思想に偏り、信頼性は非常に低くなっていったと言われていますから、その編集方針というものの内容は推して知るべしでしょう。
そして日本書紀編纂事業が開始される直前の659年には更に唐では「北史」が完成し、649年から編纂作業が開始されていた「南史」はまさに日本書紀編纂開始時にはその仕上げ作業が行われており、683年に完成したのです。
このように、日本書紀の編纂が行われた時代というのは、シナの歴史を通じて最も多くの史書が集中して作られていた時代なのであり、しかもそれらは全て易姓革命思想に貫かれていたのです。
ですから、当時のシナ人、特に唐王朝の官人や宮廷人に、日本がシナと対等な国家で、その日本を支配する天皇家の正統性を説得力をもって納得させるためには、天皇家もまた易姓革命によって前代の悪逆な王朝を倒して、日本を統治する天命を受けた王朝なのだという「歴史的事実」を示すのが最もスタンダードな手法であったといえるでしょう。そういう「実際にはあり得ない易姓革命をでっち上げてでも」現王朝の正統性を示そうとするのが、当時のシナ的な歴史記述の当たり前の姿だったのであり、当然ながら当時は日本もそうした歴史記述文化を共有していたはずなのです。
それにもかかわらず、実際には日本書紀には易姓革命による王朝交替劇は描かれていません。ご存知の通り、万世一系の天皇家の歴史が連綿と語られているわけです。これはつまり、実際に王朝交替があったのならば、それに様々な粉飾を施して易姓革命のように見せかけることは可能であるし、おそらく日本書紀の作者は喜んでそれを行ったでありましょうけれど、いくらなんでも「実際に起きてもいない王朝交替そのもの」をでっち上げることは流石に出来なかったということなのでしょう。

戦後の歴史学者はこういう私のような考え方はしません。万世一系の天皇家の歴史のほうこそがでっち上げだと考えます。日本書紀の作者は万世一系によって天皇家の支配の正統性を示そうとしたのであって、だから万世一系の皇統をでっち上げたのだと主張するのです。しかし、こういう考え方は私には理解不能です。だいたい、何故、日本書紀の作者がそんな無意味な嘘をわざわざつく必要があるのか、さっぱり分かりません。
日本書紀が編纂された奈良時代初期、つまりシナでは唐代初期においては、「万世一系」などという観念には大した価値など無かったのです。あくまで王朝の支配の正統性を担保するのは、「徳」の有無であり、天命がその王朝に下ったかどうかなのです。そしてそれを主張する根拠となる歴史的証拠が「易姓革命」だったのです。単に同じ血統の王族が統治を継続しているからといっても「それがどうした?」で片付けられるのがせいぜいだったでしょう。
そのような「万世一系」に価値が見出されるようになるのは、シナで異民族王朝が何度も成立して「易姓革命」思想の虚構や欺瞞が明らかになった後、江戸時代になって水戸学や国学において「王朝の交替が無く平和が続いているのは日本の皇室のほうがシナの皇帝よりも徳がある証拠」という逆転の発想で「易姓革命」思想をひっくり返した時よりも後のことなのです。
いや、それもあくまで日本においては江戸時代以降に「万世一系」が重んじられるようになったというだけのことで、シナ人などは現在に至るまで一度たりとも「万世一系」を価値あるものだと見なしたこともありません。しかし、日本書紀はその使用している漢文の形態からも、シナ人に読ませることを目的として編纂されたものなのです。その編纂方針はおそらくは中途での唐人学者の死によって結局は貫徹は出来なかったのですが、少なくとも当初の、そして基本的なコンセプトはそのようであったはずです。
そのような日本書紀において、しかもこの時代において、どうしてわざわざ「万世一系」などをでっち上げる必要があるのか、私には理解できないのです。
確かに日本書紀の作者は間違いなく嘘つきです。この時代の歴史家で嘘つきでない者など存在しません。しかし、嘘つきだからこそ、無意味な嘘はつかないはずなのです。無意味な嘘をついて、それがバレて文書の信頼性が揺らいでしまったら、本当につきたかった嘘もバレてしまう危険が生じてくるのです。無意味な嘘をついてそのようなリスクを増やすような愚かなことをするはずはないのです。日本書紀は約60年間もの時間をかけて編纂されたわけですから、編纂者がそのような初歩的なミスをするはずがないのです。「万世一系」は、わざわざでっち上げてまでも強調するような項目ではないのです。
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