KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その179 万世一系
このあたり、戦後の歴史学者は勘違いしているのです。江戸時代に発生した「万世一系」の思想は幕末を経て「皇国史観」となって明治維新の原動力となり、そして近代日本の国家理念となったのですが、それは明治時代においては「皇室は神武天皇以来ずっと変わることなく日本を統治している尊いものである」という考え方でした。これはあくまで皇室の統治の一貫性を強調する考え方で、神がかったものはありません。もちろん日本書紀において神武天皇の先祖が天照大神などの神様であると記述されていることは認識されていましたが、明治期はそれを特に強調するような風潮はありませんでした。
それが大正時代になってマルクス主義が入ってくるようになってそれに対抗するために皇室の求心力をもっと高めなければならないという考え方が起こって、神武天皇の上に更に天照大神がくっつくようになり、「皇室は神の子孫である」という「天孫思想」となり、更にそれが第二次大戦前に急速に過激化し「天皇は神である」というところにまで行き着いてしまったのです。この「天皇は神」という過激思想、つまり「現人神信仰」が戦前戦中の自由な言論や思想を弾圧した元凶であったのです。
このような過激思想は戦前戦中の切迫した時代の空気の中で生み出されて保たれていたもので、戦争が終われば解消されていくのが自然の成り行きです。そういうわけで、戦後になってこうした「現人神信仰」は消えていき、自由に歴史について語れる本来の日本の知的空間が戻ってくるようになったのです。例えば足利尊氏を再評価したりすることが出来るようになったわけで、これはごく自然の成り行きであったといっていいでしょう。
それで済んでいれば、そのまま正常な日本、つまり明治時代ぐらいの思想状況に戻っていったはずなのですが、やはり戦前戦中の歪みが大きすぎて、その反動が大きく逆に振れることになり、その振れ幅の大きさが共産主義者の付け入るところとなったのでした。

すなわち戦後の共産主義者たちは戦前戦中の一時的な逸脱であった「現人神信仰」を、まるで明治維新以降の近代日本の全ての時代にわたって国家理念であったかのように歴史を捏造して、近代日本の歴史を断罪して全否定しようとしたのです。それはつまり、近代皇室の全否定であり、皇室を廃止して共産革命を成就させるための深謀遠慮であったのです。
実際、当時は「現人神信仰」そのものに対しては違和感を抱いていた国民が多かったのです。もともと昭和初期まではそんな信仰は存在していなかったわけですから、それに違和感があるのは当たり前なのです。だから共産党が「現人神信仰」を非難したらシンパシーを感じてしまうのです。一度シンパシーを感じたら批判的精神というものはだいたい骨抜きになる人が多いですから、共産党が「明治以来ずっと現人神信仰が主流だった」と言ったら、なんとなくそんな気がしてくるのです。それで付和雷同して共産党と一緒になって皇室を糾弾してしまったりしてしまうわけです。
こうして多くの日本人が共産党の扇動に乗せられていったのですが、幸い共産党の目指す革命は結局は失敗しました。しかしその過程で近代日本の歴史観が全て「現人神信仰」であったかのように誤解が広まってしまうことになりました。そこで各大学において共産主義思想の影響を受けた歴史学者たちが本来の近代日本的歴史観である「万世一系思想」と「現人神信仰」、そしてその中間にある「天孫思想」を一緒くたにして誤解してしまうという現象が生じたのです。いや、誤解ではなく、意図的にそのような誤用をした曲学阿世の共産党御用学者も多くいたとは思いますが。
つまり、「天皇は神の子孫、ゆえに天皇は神」という思想と、「天皇家は神武天皇以来ずっと日本を統治してきた」という思想は本来それぞれ全く別個の思想のはずなのですが、左翼歴史学者はそれらが不可分のものだと考えて、「万世一系思想」が「現人神思想」の1つのバリエーションだと捉えて、「万世一系思想」までも攻撃し始めたのです。

要するに、天照大神から神武天皇に至る系譜を否定することは「現人神思想」および「天孫思想」への攻撃にあたり、神武天皇以降の皇統を否定することは「万世一系思想」への攻撃にあたるのですが、もともと戦後の日本人が違和感を持っていたのは前者のほうだけであったので、最初は前者への攻撃しか出来なかったのですが、左翼歴史学者が半ば意図的に前者と後者を混同させたために、前者への憎しみの感情を利用して後者への攻撃をすることも可能になったのです。
こうして神武天皇以降の皇統までも攻撃されるようになったのですが、こちらのほうが実は共産党の攻撃先の本命であったのです。何故なら、「現人神思想」や「天孫思想」は所詮は非常時における逸脱的な思想にしか過ぎないのであり、しかもその逸脱のきっかけになったのが他ならぬ共産党の戦前の反社会的活動であったので、これら逸脱思想と本来の近代日本の正統思想である「万世一系思想」との間の断絶が際立った状態というのは共産党にとってはあまり都合が良くないのです。出来れば「万世一系思想」という近代日本の正統思想を一緒くたにして潰してしまいたいというのが共産党の本音であり、それが成就してこそ、近代日本において共産革命が可能になるという考えであったでしょう。
ただ、神武天皇以降の皇統を攻撃するといっても具体的にどうするのかというと、それはやはり学術的には原典を攻撃するしかないわけで、つまり記紀批判ということになるのです。記紀の内容が信用できないものだとして、神武天皇以降の皇統は出鱈目だという印象を与えれば、「天皇家は神武天皇以来ずっと日本を統治してきた」という明治維新を実現させて明治日本を支えた思想が崩壊し、近代日本はその正統性を失って崩れ去り、そこに新たに共産主義の楽園を築くことが可能になるという算段です。

では、どうやって記紀の中の皇統の記述の信用度を否定するのかというと、「記紀はもともと万世一系思想をもって天皇家の統治を正当化しようとした文書だから、無理やり嘘をついて万世一系をでっち上げているに違いない」という予断の論理でそれを行うことにしたのです。考古学的史料やシナ史書による裏づけが存在しないというのも補強材料にもなりました。
しかし、この予断の論理には無理があります。例えばこれが「史記」の殷周戦争の件であれば「史記は易姓革命思想によって王朝交替を正当化しようとした文書だから、殷の最後の王の暴政の記述は周王朝の統治を正当化するためのでっち上げである可能性が高い」という予断の論理には十分説得力はあります。それは、「史記」が書かれた時代は実際に易姓革命思想が社会における有力な価値観であったし、「史記」自体、易姓革命思想を重んじていることは読めば分かります。
しかし、記紀に関する戦後左翼歴史学者による上記の予断の論理は成立しません。何故なら、記紀編纂時の日本およびシナにおいて「万世一系思想」などというもの自体が存在していないからです。「万世一系思想」は江戸時代の日本において発明されたものなのです。存在もしていない「万世一系思想」に基づいて天皇家の統治を正当化することなど不可能なのです。だから記紀の作者はわざわざ皇統を一系のようにでっち上げるような無意味な嘘をつく必要などないのです。
つまり、これによって、記紀の中の皇統に関する記述が虚偽であるという意見を正当化する論理は崩壊したのです。虚偽である証明が出来ないということは、それは真実である可能性が高いということであり、他の史料によって裏づけられない以上はそれが真実であると確定することは出来ませんが、司馬遷型の史料であるという特性から考えて、意味の無い部分に関しては嘘は極力つかずに真実と推測されることを書き込む傾向が強いことからも、少なくとも日本書紀の作者は、この皇統の記録に関しては真実であると確信あるいは推測して記述したのであろうと思われます。

そもそもこの時代においては易姓革命によって天命を受けたことをもって統治の正統性の証明とするのが一般的な考え方で、特にシナではそれが顕著であったのであり、日本書紀はシナ向けの文書ですから出来れば易姓革命の描写を盛り込んで天皇家の統治の正統性をアピールしたいところであったはずなのですが、結局そういう記述は日本書紀には存在しません。王朝の交替があったならそこを脚色して易姓革命物語に仕立て上げることは容易だったはずなのですが、そういう記述は無い。してみると、つまり王朝の交替は全く無かったということになります。「王朝交替の場面を書きたかったが書けなかった」というのが真相ではないかと思います。それは本当に王朝交替が無かったからであり、日本書紀の作者も「存在しなかった王朝交替をでっち上げる」ということまでは流石に出来なかったので、「仕方なく」本当のことを、つまり「皇統は万世一系である」という事実を、大して誇らしげでもなく書くしかなかったのではないかと思います。
少なくとも作者はそれが事実であるという認識は持っていたということにはなります。その作者が引用した史料の信憑性までは保証できませんが、少なくとも意図的に嘘を書いたということはないでしょう。おそらく皇統に関しては、確かに存在した史料を基にして書き込んだのでありましょう。古い時代の分でも、皇統に関する簡単な記録ぐらいは揃っていたのではないかと思います。ただ、それが他の史料によって多角的に裏付けられない限り、それが間違いない真実として確定するということは無いわけですが、逆に間違いなく虚偽であると決め付けて全く無視するというわけにもいかないでしょう。

このあたりは些細なことのようでいて、実は結構大きな違いを生む部分であって、例えば世界の他の地域の史書の記述などにも他の史料との照合がとれないので不確定事項になっているものは結構あります。
例としては古代ローマの初期の王達などがそうで、初代のロムルスなどは神の子だとされていますので神武天皇と似たようなものでしょう。しかしロムルスは神武天皇ほどは無視されているわけではなく、少しは詳しいローマ史の解説書などにはちゃんと「ローマの建国」という項目の中で、「おそらく何らかの史実を反映しているであろう言い伝え」というようなレベルの扱いでちゃんと名前も紹介されますし、かの有名な彫像の写真も紹介されることが普通です。
だいたい、2代天皇から9代天皇までのいわゆる欠史八代はともかくとして、初代の神武天皇にしても10代の崇神天皇にしても、ローマ史書におけるロムルスに関する記述よりもよほど詳細な記述が残されており、それがあやふやな熊女の息子が1900年生きたとかいう御伽話の類ではなく、いくらかは怪しげな超常現象や怪奇人間も登場し、言葉を話す動物もごくたまに登場するが、まぁそんな程度の記述は古代の文献では普通にあるレベルのもので、日本書紀は一応ちゃんとした歴史記述の体裁で書かれており、しかもそれが遥か後世の偽書の類ではなく8世紀初頭の国史として書かれているのであるから、神武天皇や崇神天皇は少なくともロムルスよりはちゃんとした扱いを受ける資格はあると思われます。
また、例えば親鸞などは近年に至るまで、実は他の史料の裏づけが取れないので架空の人物ということになっていたのですが、新史料の発見によって実在性が確認されたわけで、他史料の裏づけがとれないからといって、全く無視していいというわけでもない一例といえるでしょう。まぁ神武天皇に関してはおそらくさすがに他の史料が発見されることはないでしょうけれど、仁徳天皇以降の時代となるとおそらく文字の使用も頻繁であったであろうし、今後も新史料の発見によって実在が確認される可能性は大いにあるでしょう。実際、戦後の左翼史観によって一時は否定された雄略天皇の実在は1978年の稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文発見によって可能性が高いとされるようになったのですから、今のように初期の皇統を全く無視しているのはいかがなものかと思います。

また、継体以前の天皇は考古学的史料と日本書紀の記録の整合性がとれないという理由で実在性が低いとも言われていますが、シナ式の歴史記録文化が導入される以前の日本列島では1年を2年分カウントする農耕暦が使用されていたとも言われています。
おそらく通常暦でちゃんとした記録を取り始めたのが継体期からでしょう。日本書紀でも継体天皇のところから細かく現実的な政治的記事が増えてきます。逆に古事記ではこの継体天皇のところから皇統譜のみの記述となります。古事記はそうした細かい政治的記録は参照しないで成立しているようなのですが、これはつまり継体期からそういう記録が書き残され始めたということでしょう。そういった記録をとり始めた時点で従来の農耕暦ではなくシナなどに合わせた通常暦での記録に切り替えたというのはあり得そうな話です。
そのように継体より前の時代の記録が全部1年を2年にカウントしていたと仮定すると、初期天皇の異常な長寿現象も説明がつき、例えば日本書紀では127歳で没したと記述されている神武天皇は実際は64歳で没したことになり、なんとか現実的数字になります。また、神功皇后は355年に摂政開始、応神天皇は390年即位となり、これはまさに高句麗と朝鮮半島で争っている時期、崇神天皇は207年即位で倭国大乱の時代で卑弥呼と同時代人ということになり、神武天皇は紀元前77年に東征を開始し紀元前74年に橿原で即位したということになり、これは漢の武帝の朝鮮四郡設置によって日本列島が影響を受け、畿内でも国家形成へ向けた動きが本格化し始めた時代で、大阪湾付近では畿内でおそらく最初の戦争の痕も発見されています。

おそらく継体以後の時代の歴史記録の記録形態と、それ以前の時代の伝承や記録の記録形態は根本的に異質のものだったのではないかとも思われます。継体以後は事務的な箇条書きであり、継体以前は口承や謡の中に組み込まれていたのではないでしょうか。あるいは継体以前の記録も仁徳期以降には文書化されていたのかもしれませんが、それは非常に韻文的で、上代特殊仮名遣いが多用された変則的漢文で、日本書紀の筆記者であった唐人学者には大変分かりにくいものであった可能性もあります。まぁそういうふうな理由で、この2種類の暦の同居現象は整理し切れないままに日本書紀に残ったのではないかと思います。
あるいは、意識的に嘘の記述をする部分以外は、愚直なまでに原史料に忠実な記述をするようにという編集方針が存在したのかもしれません。確かに日本書紀文中には筆記者である唐人学者の「こんなこと書いてあるけどちょっとこれはおかしいんじゃないの?」というようなボヤキというかツッコミというか、そういう脚注が随所に見られるので、彼が嘆きたくなるような融通の利かない編集方針が存在した可能性はあります。

このように暦年の問題が解決すれば、考古学的史料との整合性もそれなりに取れてくるのであり、そうなってくると、初期の天皇をひたすら無視する現代歴史学会の歴史記述の仕方は、ロムルスやその他の初期ローマ王たちの扱いと比較すると、少し冷酷に過ぎるようにも思えるのであり、そういった仕打ちの背景には、やはり他の文書史料や考古学的史料との整合性が無いという理由だけではなく、何らかのプラスアルファの要因があるのではないかと思えます。
そのプラスアルファの要因とは、やはり記紀が古代ローマ史書と違い悪意ある捏造文書だという先入観を持たれていることでしょう。つまりロムルスについて述べたローマ史書は単に古い記録であるので不確かな記述になっているだけだとして同情的に見てもらえるのに対して、神武天皇について書いた日本書紀は「天皇家の支配正当化のために万世一系をでっち上げた悪質な文書」というレッテルを無意識のうちに貼られているのです。そういう先入観があるから、どうしても記紀や初期天皇を冷たく扱ってしまい、ついつい無視しがちになるのです。
また、初期天皇がそういう歴史学会から白眼視されている存在であると分かっているために、苛められっ子の味方をして自分も苛めされるのがイヤで、ついつい自分も苛める側に加わってしまうというように、「君子危うきに近寄らず」という心理で、あえて触れることなく無視し続けるというような日和見態度の歴史学者も多いでしょう。

しかし、そもそも「万世一系思想」が記紀編纂の時代に存在していない以上、少なくとも初期の皇統の部分に関しては記紀は嘘つき文書ではないわけで、そもそもそうした疑惑は戦後の混乱期に共産主義者が政治的意図をもって捏造した冤罪であって、その誤解が解けた以上は初期の天皇に関してはここまで冷遇される理由というものも存在せず、親鸞とまでは言わないが、せめてロムルス程度の扱いはしてもいいのではないかと思います。
そういうわけで私は神武天皇以下の初期天皇に関しては、古代ローマの歴史に関する本の中でロムルスが扱われている程度の扱いはしていくつもりです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。