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日本史についての雑文その188 記紀編纂史
日本書紀を作ろうという計画が持ち上がったのは、おそらく663年の白村江の敗戦後にシナ大陸から軍事的に完全に撤退して、シナの律令制度を本格的に導入して新たな統一国家を作る事業が始まり、大津京への遷都準備と並行して近江律令の制定作業が進められ、その中で国号を「日本」とすること、君主号を「天皇」とすることが決められ、667年に大津京への遷都の後、668年に天智天皇が実質的な「初代天皇」として即位して日本が建国された時点なのだろうと推測されます。それは新しく作られた「日本」という国がシナ帝国の華夷秩序からは独立した独自の華夷秩序を持った「もう1つの中華」であり、その「天子」である「天皇」が「日本」を天命を受けて統治する正統性を有していることを唐をはじめとした近隣諸外国にアピールするためでした。
ところがそれが具体的に動き出す前に671年に天智天皇が死んだ後、日本国は分裂し、672年に壬申の乱が起こり、それを勝ち抜いた大海人皇子が673年に即位して天武天皇となり、その後も戦後処理の煩雑さの中で史書作成計画の着手は先延ばしになり、ようやく681年に天武天皇が史書作成の委員会を設置してから本格着手ということになりました。
この際に最初にまとめられたのが「帝紀」と「旧辞」であったと思われます。天皇家に伝わっていた皇統譜や伝承が集められて「帝紀」にまとめられ、他の諸氏族や社寺に伝わっていた伝承が集められて「旧辞」にまとめられたと推測されます。
おそらくホムタ大王(応神)の時代以前は皇統譜も伝承もほとんど口承で伝えられていたのでしょうが、オオサザキ大王(仁徳)の時代以後はそれ以前の分も含めて書き残されるようになったのではないかと思われます。ただまとまった形では存在していなかったので、この681年以降に天武天皇の命令で「帝紀」と「旧辞」にまとめられたのでしょう。
おそらく、この「帝紀」においては、各大王の治世ごとに冒頭に皇統譜中の情報が記入され、その後に、その大王の時代に相当するであろうと思われる伝承が順不同で箇条書きされていたのでしょう。その皇統譜中の情報も詳細部分は不確かなものも多かったと思われます。
また「旧辞」は各氏族や社寺ごとに伝承が箇条書きにされていたものなのでしょう。ですから、あまり国政に関係ある重要な事件などについての記述は無く、ローカルな話題に限定されていたものが多かったのだと思われます。そしておそらく伝承の分量としては「帝紀」に収録された分よりも「旧辞」に収録された分のほうが多かったぐらいではないでしょうか。

そうやってまとまった「帝紀」「旧辞」を精査してみて天武天皇は、天皇家の始祖のイワレヒコが大和へやって来てから9代後のミマキイリヒコが初代大王に推戴されて、そこから自分の代に至るまで王朝の交替などの易姓革命に類するような事件が存在していないことに気づきました。つまり天皇家がこの時点で「万世一系」であることが分かったということになります。
断っておきますが、これは歴史的事実として「万世一系」が確定したということではありませんし、私自身がそのように盲信しているわけでもありません。多面的に検証されて証明されていない以上、歴史学の立場としては「万世一系」を証明するのは難しいでしょう。しかし、ほぼ確実に言えることは、この680年代の時点で天皇家に伝わっていた記録を見る限りでは「万世一系」であったのであり、その資料は少なくとも天武天皇にとっては信頼に足るものであり、天武天皇は「万世一系」であると確信していたであろうことで、しかも天武天皇は少なくとも「万世一系」自体を喜ばしいこととは思ってはいなかったであろうこともほぼ間違いないでしょう。何故なら、それは唐などのシナ文化圏に対して王朝の正統性や有徳性をアピールするための説得力が決定的に不足していることを意味しているからです。

そこで天武天皇はイワレヒコの部分の「帝紀」の前に神話を創作して付け足すことにして、その中で易姓革命を起こしてイワレヒコの先祖が日本統治の天命を受けたことにして、それをイワレヒコに継承させることにしたのです。
そのために天皇家に伝わっていた素朴な土俗神話であった「日向神話」をまず「帝紀」のイワレヒコの部分の前にくっつけて、更に前に前に繰り上がるようにして様々な神話を付け足して日本神話を作っていくことにしたのです。おそらく最初に歴史記述のみの「帝紀」をとりあえず作った時は、この素朴な「日向神話」が日本書紀において使用される予定は無かったのではないかと思われます。
こうして「創生神話」「天岩戸神話」「出雲神話」「国譲り神話」「天孫降臨神話」「日向神話」から構成される日本神話が創作され、「帝紀」の冒頭に付け加えられました。その後、「帝紀」の各大王の項目に「旧辞」から選りすぐりの話を適切だと思われる箇所に挿入していって、物語の順番を並べ替えたりして整理し、神代からオオハツセノワカタケ大王(雄略)までのエピソードによって構成される「原・古事記A」と呼べるようなテキストが完成したのでしょう。
このあたりの、イワレヒコからオオハツセノワカタケ大王までの挿入された伝承部分は、オオド大王以降のようにリアルタイムで記録を残していったものではなく、あくまで伝承であり、なんらかの事実の反映なのでしょうけれど後世の脚色が既に入っていたものであり正確な事実ではないものも多かったでありましょうし、しかもこれらの伝承がバラバラに存在していたので1つのストーリーに繋げると相互に矛盾を起こしてしまったりしたと思われます。それらをまとめるに際して矛盾解消のために新たなストーリーを挿入するようなこともあったかもしれません。しかし、それはあくまで伝承部分の不確かさであり、皇統譜部分については信頼できる情報が残っていたのだろうと思われます。
そして、この「原・古事記A」は漢文で書かれていたのですが、天武天皇は新しく作った日本神話も含めて、この新しい史書を日本語でも残しておくことを望み、漢文化するにあたって削除していたそれぞれの神話や伝承に含まれていた歌謡の部分を復活させて、再び全部を日本語化して「原・古事記B」といえる口承を作り、それを稗田阿礼という官人に暗誦させることにしました。
何故そういうことをしたのかというと、この頃は漢字の意味を大和言葉に置き換えたり、漢字の語彙に相当する新しい大和言葉を創造したりして、大和言葉を発展させて「日本語」というものを作っていた時代だったのであり、そのテキストとしてこの新しく作った史書を利用したというところだったのでしょう。

だいたいこのあたりまでが天武天皇の時代に進んだ作業で、天武天皇が686年に死んで、代わって持統天皇が即位し、689年あたりから、今度は「原・古事記」とは別にオオハツセノワカタケ大王の時代から始まる新しい本格的な史書を作るプランが立ち上がり、こちらは唐風の漢文で清書していく作業と同時進行していくことになりました。その際には、「旧辞」から追加の伝承が加えられたり、新たな原資料として、オオド大王(継体)以降に大和朝廷として書き残し始めた公式の記録や、「日本旧記」「日本世記」などのような伝承集、宮廷の官人が回帰残した私的な記録集、「百済記」「百済本記」などの外国史書、そして聖徳太子が編纂した歴史書である「国記」の大化の改新の際の焼け残った部分などが追加されました。
おそらくオオド大王(継体)以降は大和朝廷として公式の記録を書き残し始めたと思われ、これによってオオド大王以降の項目については出来事の年次が明らかとなったので、記録をそのまま日本書紀に落とし込んでいくことが出来るようになりましたが、オハツセワカサザキ大王(武烈)以前の分は、伝承や記録の具体的年次はほとんど不明だったので、それぞれの大王の治世の中で適当に年次を割り振って書き込んでいくことになり、このあたりは詳細な歴史記録としては年代的にはほとんど信用することは出来ないものとなりました。
これらの作業は特に当時の政治情勢にとってデリケートなオキナガタラシヒヒロヌカ大王(舒明)以降の時代の分は難航しました。関係者の中にはまだ存命の人もいたでありましょうし、関係者の近しい子孫も多く健在であったからです。
また、そのように難航しているうちに途中で唐風漢文を書ける述作者が死去して、仕方なく日本人の学者が述作を引き継いだことによって日本風漢文での清書に切り替わったりもしました。これによって日本書紀内に漢文の文体の不統一が生じることにもなり、当初に計画されていたような唐人に堂々と見せられるような正式な漢文で書き上げるというようなわけにはいかなくなったりもしましたが、それでもなんとかとりあえず持統天皇の治世の間にはだいたい完成に至るようになりました。

また、天武天皇の作らせた「原・古事記A」を原資料にして神代からアナホ大王(安康)までの時代の部分も日本書紀の冒頭に追加されることにもなりました。これは、もともとは日本書紀とは別に「原・古事記A」はシナ向けに文書化される予定だったのでしょうけれど、結局は日本書紀に一本化することになったのでしょう。
このように後から「日本書紀」のオオハツセノワカタケ大王の条の前に、全く別文書である「原・古事記」のアナホ大王の条をくっつけたために、もともとオオハツセノワカタケ大王の条が「日本書紀」の冒頭であるという計画でしたから、条の冒頭に即位前の説明として「アナホ大王の死」に関する記述があり、そこに当初は予定に無かった「原・古事記」のアナホ大王の条を持ってきたところ、当然ながら本来は「アナホ大王の死」の記述はアナホ大王の条の末尾に書かれるべきなのですが既にオオハツセノワカタケ大王の条に書かれてしまってますので重複になってしまいます。そこでアナホ大王の条の最後の部分には単にアナホ大王の死を紹介するにとどめて、その上で「この話は詳しくはオオハツセノワカタケ大王の記にある」という注釈を加えるという異例の事態となっているのです。
これはつまり、もともとの「日本書紀」はオオハツセノワカタケ大王の条から始まる予定だったということと、急遽予定変更してその前の部分は付け加えられたということを示しており、また、その前の部分の内容、つまり神代からアナホ大王までの部分の内容というのが「古事記」と非常に似通っており、オオハツセノワカタケ大王以降の部分は「古事記」には見られない記事が非常に多いということからも、本来は「原・古事記」と「日本書紀」とは全く別個に作られていたということが想像できます。
おそらく、当初は作成者サイドとしては、あくまで「原・古事記A」はちゃんとした歴史というよりは伝承的な王朝前史という位置づけで、正式な歴史書としてはオオハツセノワカタケ大王の時代以降の記録をまとめた「日本書紀」を作成するというつもりだったのでしょう。つまり2冊まとめて読めば神代からの全ての流れが読めるが、確実に間違いない歴史は日本書紀のほうを参照してもらうという、そういうコンセプトの区別があったのだと思います。ただ、結局はそういう区別が曖昧になり、ややこしいことは止めて、全部ひっくるめて正式な歴史として日本書紀として一本化することにしたのでしょう。
この神代からオオハツセノワカタケ大王の時代について扱う天武天皇肝いりの文書「原・古事記A」は、先述のようにもともとは「日本書紀よりも古い時代の神話や伝承にある事柄について記した書物」という、つまり「古い事の記録」というコンセプトであったと思われますので、「古事記」というタイトルも最初から決まっていたか、あるいは持統天皇時代に日本書紀の当初予定の「オオハツセワカタケ大王以降の歴史をまとめる」というコンセプトが決まった時点でこちらの「原・古事記A」は日本書紀編纂作業の中で原資料の1つとして「古事記」と呼ばれていたのかもしれません。
後に日本書紀編纂中の712年に「原・古事記B」の暗誦を太安万侶が漢文と上代特殊仮名遣いの混交文で書きとめた別文書を完成させましたが、既にほぼ同じ内容の「原・古事記A」が日本書紀編纂チームの中では「古事記」と呼ばれていたので、おそらくは編纂チームの一員でもあった太安万侶はこの自分のまとめたBのほうも「古事記」と名づけたのでしょう。いや、実際AよりもBのほうが内容が充実していましたから、安万侶にしてみればこちらのBのほうこそが「古事記」の決定版であるという意識はあったでしょう。
そして、702年に持統天皇が亡くなると日本書紀の最終巻の持統天皇紀が作成されるようになり、その後、全巻を通して漢籍による潤色を行ったり、新たに記事を付け足したり、逆に余分な記事を省いたりする最終的な整理作業が行われるようになっていきましたが、この太安万侶が作ったB版の「古事記」のほうも日本書紀の最終整理作業の原資料になったり影響を与えたりしたことでしょう。
以上、このような曲折を経て、712年に「古事記」、そして720年に「日本書紀」が完成したのだと思われます。

このように出来上がった日本書紀において、オハツセノワカサザキ大王(武烈)以前の大王の統治期間が二倍暦で記載されていると仮定して通常暦に直して、オオド大王(継体)即位を506年とすると、オハツセノワカサザキ以前の歴代の大王の在位年次は以下のようになります。

カンヤマトイワレヒコ(神武) 紀元前74年?紀元前36年
カンヌナカワミミ(綏靖) 紀元前36年?紀元前19年
シキツヒコタマテミ(安寧) 紀元前19年?0年
オオヤマトヒコスキトモ(懿徳) 0年?17年
ミマツヒコカエシネ(孝昭) 17年?59年
ヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安) 59年?110年
オオヤマトネコヒコフトニ(孝霊) 110年?148年
オオヤマトネコヒコクニクル(孝元) 148年?177年
ワカヤマトネコヒコオオヒヒ(開化) 177年?207年
ミマキイリヒコイニエ(崇神) 207年?241年
イクメイリヒコイサチ(垂仁) 241年?291年
オオタラシヒコオシロワケ(景行) 291年?321年
ワカタラシヒコ(成務) 321年?351年
タラシナカツヒコ(仲哀) 351年?355年
オキナガタラシヒメ(神功) 355年?390年(摂政)
ホムタ(応神) 390年?411年
オオサザキ(仁徳) 411年?454年
イザホワケ(履中) 454年?457年
ミツハワケ(反正) 457年?459年
オアサズマワクゴノスクネ(允恭) 459年?480年
アナホ(安康) 480年?482年
オオハツセノワカタケ(雄略) 482年?494年
シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコ(清寧) 494年?496年
ヲケ(顕宗) 496年?498年
オケ(仁賢) 498年?502年
オハツセノワカサザキ(武烈) 502年?506年

これらの大王の在位年次は、こうして修正してみればそれなりに現実的なものであり、しかも考古学的知見やシナなど外国史書との整合性も全体的には取れており、もちろん古代のことでもあり、それが完全に正確なものであったというわけでもないのでしょうけど、おそらくは天皇家にちゃんとした形で皇統譜が伝わっていたものでしょう。
但し、日本書紀においてはイワレヒコ以前の神話の部分は、個々の記事については民族の遠い記憶を反映したものではありますが、全体的なストーリーは荒唐無稽であり、後世の作り話であると考えたほうがいいでしょう。つまり歴史ではないということです。
そして、イワレヒコからオハツセノワカサザキの時代の記述については、実際にそうした王や大王がそれらの時代に存在したのは事実ではありましょうが、例えばオオサザキ大王の時代の中身を記述する際には、各地に伝わる伝承の中でオオサザキやその関係者が登場するものを選び出してそれらをオオサザキ在位期間の適当な年次に貼り付けただけのものであり、中にはオオサザキが全く登場しない伝承でも強引に貼り付けてあるものもあり、正確な歴史記録というよりは、各大王の在位期間のイメージを把握することに有用なものだと考えればいいでしょう。

もちろん個々の伝承の中には、史料的に価値のあるものもあるのですが、各大王在位期間のストーリーとして必ずしも正確なものではなく、またその全体像を余すところなく伝えたものであるというわけではないということです。例えばイワレヒコについては大王に即位する前の東征伝承しか残っていないわけで、その在位期間についての具体的記事は欠いているのであるし、オオサザキなどは対外的に事件が盛りだくさんであったはずなのですが伝承においてはそういうことには触れられていません。
あくまでも伝承を伝えていた主体は豪族や神社、一般人であったのであり、こういった主体にとっては高度に政治的な話などは興味は無く、ただ単に大王を顕彰したり、自分たちと大王との縁故を強調することに狙いがあったのであり、それに関係の無い事象については、歴史学的にどれほど重要な事柄であろうとも平然と切り捨てられていたのでしょう。
また、伝承というものはそのように伝承を伝える側の利益になったり、大王を単に褒め称えることに目的があるのであって事実関係を正確に記録することが第一目的ではないので、時には非現実的な脚色や、明らかな嘘なども含まれているもので、もともとそうした性格を持った伝承を更に適当な年次に放り込んで、全体のストーリーが破綻しないように微修正も加えていると推測されますので、そのあたりは注意して読まなければいけません。また、伝承が伝えられていくうちに新しい時代の文化や習俗などの要素が加わって時代考証的にあり得ないような内容になることもあります。
しかも更にその上に日本書紀全体の文脈や目的に沿った改変や潤色が加えられていると推測されます。例えばイワレヒコの東征伝承にやたらと天照大神が登場したりするのは、これは元来の東征伝承にはおそらく含まれていなかった要素であり、神代のストーリーの流れを受けて、また天照大神からの王権の継承を強調するための日本書紀編纂時の追加潤色であると見ればいいでしょう。

このように見てみると、結局はオハツセノワカサザキ以前の記述に関しても全く出鱈目であるという印象を持つ人も多いかと思いますが、しかしそれでもこれらの時代の伝承も、少なくともそれぞれの大王の時代の出来事の何らかの反映であるのはほぼ間違いないのであり、それらの時代のイメージを復元する際に考古学的知見などと併せて活用することは十分に可能であり、活用すべきものです。
そして同様に神代の部分の記述についても、これは具体的な時代を特定することは不可能ではありますが、それでもイワレヒコから見ても更に古代の日本の姿を復元する際に貴重な情報をもたらしてくれるものであり、大いに活用すべきものなのです。
そういうわけで、引き続きそうした姿勢も加えて古代日本の姿を復元していくことにします。
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