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日本史についての雑文その193 干潟
そのようにして長い年月、河川と海の交易ルートを使っていくうちに、河口の様子が変化してくるようになりました。もともとは河口は岸壁を削って出来た谷合いの地形から海に注ぐものだったのですが、そこに土砂が溜まる場所が出てくるようになったのです。
日本列島は険しい山岳地帯で形成されていましたから、そこに大量の雨や雪が降るようになれば膨大な量の水が急流になって海へと流れていきます。その水の力は凄まじく、水の流れる谷間の土砂をどんどん削り取って谷間をどんどん深いものにしていったのですが、その削り取った土砂は川の流れに乗って河口へ運ばれていきました。

日本列島はもともと存在した平野部がヴュルム氷期終結時の海水面上昇によって水没して海面上に山岳部分が直接触れてニョキッと顔を出している地形でしたから、縄文時代の最初の日本列島の海岸は全て岩礁海岸でした。その岩礁海岸に河口が形成されて水と一緒に土砂が海に向かって放出されるようになったのですが、外海に面して波が激しく岩礁に当たるような場所や河口付近でも河川の流れの勢いが激しい場所では、放出された土砂は河口付近には堆積せずに海中に攪拌することになります。そうなるとそういう場所の海岸地形は岩礁海岸のままとなります。
一方、河口部ではなく河川の流れに直接曝されることもなく、やや奥まった海岸線で外海の激しい波当たりを受けず、それでいてそれなりの波を受ける海岸線においては、海中に攪拌した土砂の中で波によって特に運ばれやすい砂礫が打ち寄せられて堆積していくことになります。こうしてこういう場所では岩礁海岸の海側に砂浜が形成されることになります。特に近傍に大量の土砂を海中に放出して砂礫を常に供給してくれるような大きな河川が存在する場合は砂浜が形成されやすいといえるでしょう。
そして、河口が内湾の奥深くにあった場合には外海の波の影響をほとんど受けず、土砂がその場に溜まっていくことになります。河川の勢いが強かったとしても湾が奥まっていれば結局は波によってそれが外海に運ばれる量も制限されるので湾内に土砂が溜まっていき干潟が形成されることになります。むしろ河川が大きく勢いよく大量の土砂を運ぶので急速に大きな干潟が形成されることになります。そうなるとその干潟内を河川の水がゆっくり流れることになり、ますます緩やかな流れによって土砂が堆積していって干潟が海側へ向けて広がっていくことになります。そうして湾内が全て干潟で埋め尽くされる場合もあり、そうなるとその最も海側の海岸線に波によって運ばれてきた砂礫が堆積して砂浜を形成することもよく見られます。時には干潟が内湾を越えて沖合いにまで広がるような場合もあります。

干潟というものはつまり海岸線において泥や砂によって形成される低湿地帯で、引き潮の時は陸地ですが満ち潮の時は海面下にある土地で、そのため常に湿っているわけです。河口からの淡水と外海からの海水とが混じり合った環境で有機物が堆積し、それを分解する微生物が多量に発生し栄養価が非常に高い状態なので、珪藻類やカニやゴカイのような泥中の小動物やそれを食べる水鳥などが生息し独特の生態系を形成しており、海の浄化において重要な役割を担っています。
しかし古代の当時の人たちには干潟のそのような価値は知る由もなく、ただ単に泥だらけで臭くて利用価値の無い土地だと思ったことでしょう。ただ干潟内には満潮時でも水没しない場所も点在していたのでそういう場所を海洋民は拠点として、干潟内の水上交通を管理し、河口や外海への船を運航していたと思われます。そのような海洋民の交通路として干潟は利用価値があったのだといえます。例えばイタリアのヴェネチアなどはそういう干潟が発達した都市でした。
ただ河川からはどんどん干潟に土砂が運ばれてくるわけで、そうなるとそれらの土砂が堆積していって干潟の標高は徐々に上がり、終いには満潮時でも水没することがなくなり、乾いた平野部になるのではないかと思われるでしょうが、なかなかそう単純な話でもなく、外海からの影響も潮の干満によってもたらされているのであり、河川によって運ばれてきた土砂と同じくらいの量の土砂が潮の干満によって外海に持ち去られていくことによって干潟は一定規模に維持されているのです。
つまり、干潟というものは河川による土砂の供給と、潮流による土砂の侵食との微妙なバランスによって成り立っているのであり、そのバランスが崩れ、例えば河川の影響力が遮断されて土砂の供給が途絶えたり潮流の勢いが激しくなれば干潟の土砂は全部海に運ばれてしまい干潟は消滅し元の海面下に戻るのであり、逆に海の影響力が減退したり排除されれば干潟にはどんどん土砂が溜まり、とうとう乾いた平野部が出現することになるのです。

実は古代の日本列島には現在あるような「平野」というものはほとんど存在せず、現在の平野部は古代においてはほとんどがこの干潟、あるいは海の底でした。そうした干潟やそれに隣接する海中を埋め立てたものが現在の平野なのです。
それはどのようにしたのかというと、意識的に上記のような微妙なバランスを崩して干潟の存立条件を無くして、干潟を乾いた陸地に変えたのです。まず海岸線に防波堤を築いて潮流の侵食作用によって干潟の土砂が減ることを防いで、干潟に土砂を運んできて盛り土したのです。しかしそうなると河川の水の出口も制限されるので大雨の時には干潟において河川の氾濫による被害が発生しやすくなります。そこで河川の流れを変えて干潟ではなく別の場所に主流を誘導して海に向かって放水するようにするのです。こうして干潟は乾燥した平野部となり、農耕地としても利用できるようになるというわけです。
こういった自然の改造が盛んに行われたのは江戸時代以降のことで、江戸時代という時代はある意味、こうした治水や干拓ばかり繰り返していた時代であったと言って過言ではないでしょう。内戦を終結させて人力や財力を全て動員して幕府や各藩は治水や干拓によって農耕地を飛躍的に拡大し、それ以前には農耕地としては使用できなかった干潟を広大な平野に生まれ変わらせて、平野における大規模な新田開発によって生産力を向上させ豊かさを実現し人口を激増させることに成功したのです。
そうした江戸時代の流れを近代日本も受け継いで治水や干拓事業が行われて現在のような日本の国土が形成されているのです。もちろん江戸時代より前の時代の為政者たちも治水や干拓は常に試みていたのですが、技術力の限界もあり、また社会的制約も多かったのでなかなか進んでおらず、本格的に現在の平野部が有効利用されるようになるのは江戸時代以降ということになります。

そうした人工的な土地改造の試みが本格化するのは江戸時代以降なのですが、海岸線における微妙なバランスが自然に崩れていくということは古代においてもありました。紀元前1500年ぐらいから太陽黒点の慢性的な減少期が続き地球は寒冷化するようになり、地球が寒冷化すると海水が縮小しますから、その分海水面が下降します。つまり内湾においては海側の影響力が自然的に減少しますから、河川による土砂の供給能力が潮流による土砂の侵食能力を上回り、今まで干潟だった部分が陸地になり、今まで海中だった部分が干潟になりました。
そうなると平野部分が増えてその分河川の下流の流れが緩やかになりますます土砂が溜まり、河川の氾濫が増えて、新しく陸地になった部分も水浸しになることが多く低湿地帯になっただけでした。
そういうわけですから、紀元前400年ぐらいに日本列島西部において水田稲作が受容された際にも、それは現在の稲作のイメージのような平野部に一面に広がった水田ではなく、山間部の河川沿いに存在した縄文時代以来の狩猟採集民の集落において水田が形成されるようになったのです。この時代においてはその下流の平野部はまだ低湿地帯か、干潟か、あるいはまだ海の底だったので、水田など作ることは出来なかったからです。
現在の平野部はこの時代においてはまだ海洋民のテリトリーで、干潟内を縦横に海洋民の交易用の船が行き来しており、それが河川を遡って農耕民の集落へ塩や海産物を届けたりして交易を行っていました。いや、それだけではなく、そもそも紀元前400年以降の水田稲作の普及自体に海洋民の海上や河川の交易ルートが一役買っていたのではないでしょうか。

そして紀元前250年ぐらいから太陽黒点周期が久しぶりに増加局面に転じ、地球は温暖化し始めます。そうなると、すぐに影響が出るわけではありませんが次第にじわじわと海水面が上昇しますから内湾の河口近辺では干潟が再び海面下になり、低湿地帯が再び干潟になり、その上にあった農耕地の下流域のほうが低湿地帯になり農耕に適さないようになります。
これによって河川の流域に存在していた稲作民の複数の共同体の勢力の住み分けに影響が生じることになり、その再編がなされるようになります。瀬戸内から山陰、畿内にかけてはまだそれぞれの流域内の農耕適地の範囲が広かったので再編に戦争が伴うまでにはなかなか至らなかったと思われますが、北九州などはそれぞれの流域内の農耕適地の範囲が狭く余裕が無い状態であったので戦争に至ることも多かったようです。それには更に温暖化による耕作地拡大の欲求や渡来人の影響なども存在したとは思いますが。
そして、太陽黒点周期のローマ最大期が紀元後の0年?100年のことであり、その後も150年ぐらいまでは温暖局面であり、だいたい気候変動が海水面変動にまで影響を及ぼすタイムラグを50年ほどと見れば、この海水面上昇は紀元前200年ぐらいから始まり、紀元後の200年ぐらいまで続いたのだと思われます。この間、特に紀元後100年ぐらいまでは年々、海水面は上昇し続けたのであり、それはつまり河川の下流域の海洋民の活動するテリトリーが拡大し続けたということを意味します。
そして、河川の流域の上流域や中流域に沿って存在する複数の農村共同体の再編には、それが戦争によるものであったにせよ、祭祀の統合や交易によるものであったにせよ、河川の交通路が果たした役割は大きかったはずであり、それには海洋民、いや水上民が大きな役割を果たしたことが想像されます。つまり、紀元前200年以降は日本列島全域で共同体の統合において水上民のイニシアチブが高まっていった時代であるということなのです。漢の武帝が朝鮮四郡を設置し、イワレヒコが生まれた紀元前100年頃というのはそういう時代であったのです。
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