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日本史についての雑文その194 高千穂峰
では古代の日本列島のイメージをより明確なものにしていくためにこうした海と川の物流路、重要拠点、そして古代に起源を持つと思われる神社などをなぞりながら古代の日本列島を南から北へ眺めていきたいと思います。
まず九州南端ですが、黒潮に乗ってきた南洋系の海洋民は屋久島や種子島を経由して大隅半島の南端の佐多岬、薩摩半島の南端の開聞岳に辿り着きます。開聞岳の北側のふもとには薩摩国一宮の枚聞神社があり、もともとは開聞岳に対する山岳信仰で開聞岳そのものがご神体で、開聞岳の頂上に祭祀場があったのでしょう。開聞岳の頂上に立つと南に太平洋が広がっているのであり、太平洋の航海安全を祈願する神社でもあったのでしょう。


船乗りというものは、とにかく大海原の中で「板子一枚下は地獄」という環境で過ごす仕事ですから、どうしても信心深くなります。現代においても船乗りほどゲンをかつぐ仕事は無いでしょう。そういうわけですから古代においても海洋民や水上民が活用した重要な拠点には航行の安全を祈願するための神社が存在していたと推測されます。それは海への出口、あるいは外海への出口、干潟や河川の航行ルートの重要地点などに作られたことでしょう。
また、そういう航行安全祈願とは別に、海から河川を伝って陸地に根拠地を作るために開拓をするということもあったと思われるので、そういう場合はその開拓民の祖霊を祀って守護神としたような神社も作られたと思われます。それは、当時は山間部が農耕適地で生活エリアであったから、山間部と平野部の境界上にそうした神社は作られたであろうと思われます。
ちなみに「一宮」というのは、それぞれの国で最も重視される神社というような意味で、だいたいは一国につき1つなのですが、諸説ある場合もあります。各地にある「一宮市」「一宮町」という地名は、そこにその国の一宮があったという意味です。

さて南九州で重要地点といえば、まずは天孫降臨の舞台となった高千穂峰です。まぁ実際にニニギという天神がダブル・カヌーで高千穂峰の山頂に降臨するということはあり得ないのですが、この日本書紀における創作である「天孫降臨」の舞台が日本最高峰の富士山でもなく畿内の聖山である三輪山でもなく、あえて高千穂峰となっているのは、日向神話を伝えていた天皇家(海人氏)という南洋系海洋民の一氏族にとって、高千穂峰は氏族の始原に関わる重要な場所であったということなのでしょう。つまり、海人氏はその日本列島渡来の初期において、常に高千穂峰を仰ぎ見て、高千穂峰を聖山として信仰していたのであろうと推測されるのです。
高千穂峰は宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島連峰の最も南東端にあり、連峰の他の部分がゴチャゴチャした山塊であるのに対して、この高千穂峰だけ典型的なコニーデ型火山で美しい円錐形の山容を誇っています。他の霧島連峰の山塊が邪魔にならずに高千穂峰の美しさを単体で出来るだけ近くで堪能できる場所は、高千穂峰の東南方向にある都城盆地にある現在の都城市街地中心部あたりということになりますから、ここが海人氏の最初の根拠地の1つではないかと推測されます。
となると、都城市には大淀川の上流が流れていますが、それを少し小船で遡り、鹿児島県との県境あたりで船を下りて少し歩くと菱田川の中流域に行き当たり、そこから船を乗り換えて下って南下していくと志布志湾に出ることが出来ますから、海人氏のダブル・カヌーは大隅半島の南端の佐多岬に着いてから海岸線沿いに北東方向へ進み、最初に現れる大きな閉鎖海域である志布志湾へ入り、そこで落ち着いてから菱田川を遡っていき、宮崎県境あたりで大淀川の上流に乗り換えて、下ってすぐの辺りの河川近辺、都城一帯に居住区を構えたのであろうと思われます。もちろん志布志湾は内湾でありましたから、菱田川の河口あたりには小規模な干潟が形成されていたとは思いますので、菱田川河口あたりにも海人氏の根拠地はあったでしょう。
菱田川の流域にも狩猟採集民は暮らしていたと推測されますから、海人氏は河川交通を介して彼らと協調関係にあったのでしょう。そして河川交通の性格上、河口付近の湿地帯の少し上の土地と、そして上流域の盆地の2ヶ所の根拠地があったほうが便利であったので、菱田川の何本かある支流のそれぞれの上流域に1ヶ所ずつ海人氏の根拠地はあったのではないかと思われます。

ちなみに、「支流」というのは複数の水源から集まって1本の本流を形成する場合の上流域の異なった水源から発して合流してくる流れのことを指し、これに対して、下流域において本流から分かれて複数の河口へ注ぐ流れのことを「分流」といいます。
河川交通においては河口部と上流域に海洋民の根拠地があり、そして海岸線においては異なった水系の河口と河口の間を結ぶ沿岸航路のために一定の間隔で海洋民の根拠地が作られたと思われます。つまり、菱田川の河口部と上流域だけでなく、菱田川中流域から徒歩で乗り換えることの出来る大淀川の上流域や河口部にも同じように海人氏の根拠地は作られたと推測され、その大淀川の何本かある支流の上流域における最有力の根拠地が都城盆地であったのではないかと思います。何故なら、都城から発する流れが大淀川における最も太い本流であったからです。
そして、都城市から北東方向へ大淀川を下っていった河口は現在の宮崎市で日向灘に注いでいるのであり、古代においてはこの宮崎平野の大淀川河口近辺も干潟を形成していたと思われます。というか、現在宮崎平野と言われている部分は内湾で、その低地部分は当時は海中であったか干潟であったはずです。つまりそこは海洋民である海人氏のテリトリーであったわけで、だいたい河口部が内湾であるという条件が揃っていれば、河川の総延長距離が長かったり総流域面積が広かったりすれば、それだけ大量の土砂が運ばれてくるわけで、広範囲の干潟などの海洋民の活動領域が確保されるわけであり、大きな河川の河口部のほうが小さな河川の河口部よりも海洋民にとって大規模な拠点となることになります。
そして、そのようにして河口部の拠点が大規模になれば、その河川の上流域における海洋民の拠点もそれに連動して大規模になります。何故なら、河川の長さや流域面積が大きければ大きいほど、その流域における共同体の数や規模も大きくなるのであり、取引される物品の総量も多くなるからです。
そういうわけで、海人氏の最有力拠点の地位も、最初は菱田川の河口部や上流域であったのでしょうけど、ほどなく河口部は大淀川河口部の宮崎市近辺に、そして上流域は都城市近辺に遷っていったものと思われます。何故なら、菱田川に比べて大淀川のほうが総延長距離でも流域面積でも格段に勝っており、つまり幹線道路として優秀であったからなのです。

その大淀川の河口部に古代において形成されていた干潟を見下ろす宮崎市北部の台地の突端に宮崎神宮があり、この神宮の北方部分の台地上にイワレヒコの作った最初の宮である高千穂宮があったという言い伝えが地元にはあります。また、宮崎平野の南端の海上にある青島には、青島全体をご神体として青島神社があり、ここでは山幸彦神話に関連する神々が祀られ、山幸彦の最初の宮が作られたのがこの青島であるという言い伝えがあります。そして、この大淀川の河口部と志布志湾内の菱田川の河口部の間を結ぶ沿岸海路の中間地点にあたる日南市のやや北の日南海岸の断崖中腹の岩窟内にはウガヤフキアエズの生誕の地として祭祀の対象となっている鵜戸神宮があります。ちなみにこの日南市には広瀬川が日向灘に注ぐ河口があります。おそらくこの河川の流域にも海人氏の拠点は築かれていたのでしょうけど、これぐらいの河川までいちいち取り上げていてはキリが無いので「幹線道路」的な機能を持った河川のみ取り上げていくことにします。
日向灘は太平洋に開かれた海域ですので、その沿岸部は波が荒く、河川の運んできた土砂が河口部には溜まりにくいので、基本的には岩礁海岸が形成されることになります。ただ、宮崎市や延岡市の河口部に関しては古代においては小規模な内湾に注いでいましたので小規模な干潟を形成し、それが後に平野部になることになったのです。
干潟は水深が浅く干満の差が大きいのであまり大きな船は自由に航行できません。一方、岩礁海岸は水深が深く天然の良港になりやすいといえます。ですから外洋航海用の船は干潟の外にある岩礁海岸の外港で一旦停泊して干潟航行用の小船に乗り換えてから干潟に入って河川を遡っていくことになります。たとえば宮崎近辺においては青島神社の位置が外港にあたり、宮崎神宮の位置が干潟と陸地の境目ということになります。

さて、こうした神社に伝わるイワレヒコや山幸彦などの個々の伝承が事実であるということは、おそらくあり得ないでしょう。ただ、そうした日向神話の伝承を伝えるこれらの神社の場所における祭祀の起源が弥生時代以前に遡る極めて古いものであり、そのようにしてこの地に伝えられた日向神話を始祖神話として天皇家が保持していた以上、これらの伝承を伝える地点を結ぶ水上交通路のエリアが古代において天皇家の祖先の最初の活動範囲であったと考えることは出来ると思います。
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