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日本史についての雑文その195 やまと
そうした日向神話関連のエリアは更に西に拡大します。都城から大淀川の支流の庄内川を遡っていくルートは真っ直ぐ高千穂峰に向かう水路です。この高千穂峰の山中にはもともと霧島神宮があり高千穂峰そのものへの山岳信仰が行われていましたが、噴火によって消失して霧島連峰の南麓に遷され、今ではニニギ以下日向神話に登場する神々が祭祀されています。
この現在の霧島神宮の建つ位置は高千穂峰の南の庄内川上流で船を下りて西に少し歩いて霧島川の上流で下っていく船に乗り換える場所であり、この霧島神宮から霧島川を下っていけば鹿児島湾の最北端の最深部に注ぐことになります。この霧島川は下流で天降川に合流しますが、これらの河川が下流では現在は国分平野を形成していますが、内湾の最深部であることからも古代においてはここは干潟が形成されていたはずであり、その低湿地帯とそれを見下ろす高台との境界付近に大隅国一宮の鹿児島神宮があります。この鹿児島神宮は山幸彦の宮であったと言い伝えられています。
この巨大な内湾である鹿児島湾にも海人氏などの南洋系海洋民は佐多岬や開聞岳を入り口として浸透してきていたに相違なく、この湾内にも彼らの沿岸航路は張り巡らされていたことでしょう。その鹿児島湾の中央には桜島が浮かび、それにより湾がひときわ狭くなった部分の西岸に位置するのが鹿児島市ですが、ここを流れて鹿児島湾に注ぐのが甲突川で、この甲突川の上流は鹿児島市の北西にある八重山に発するのですが、八重山の南麓で甲突川を遡ってきた船を下りて少し西へ歩いて八重山の西へ回り込むと桶脇川の上流に乗り換えることが出来、これを下ると薩摩川内市で川内川に合流し、そのまま東シナ海に注ぐことになります。この川内川の下流沿い、河口部の低湿地帯への入り口付近に新田神社があり、これはニニギの墓のあった場所とされています。
また、川内川で東シナ海へ出た後、薩摩半島西岸沿いに吹上浜を南下していけばその南端には笠沙という地がありますが、ここは日本書紀においてニニギが妻のコノハナサクヤヒメと出会った場所であるとされています。この笠沙まで来るともう薩摩半島の南端近くであり、開聞岳からそう遠くはありません。

宮崎方面から薩摩川内に出るルートには別ルートもあり、宮崎市の河口から大淀川を遡って西に向かい、途中で都城方面へ南下する本流から外れて真っ直ぐ西へ向かう岩瀬川を遡っていき霧島連峰北のえびの高原に入って船を下りて少し歩くと、そこで川内川の上流部に乗り換えて鹿児島県西部を突っ切って川を下り薩摩川内まで至り、東シナ海に注ぐことも出来ます。
川内川で東シナ海に出た後、海岸線沿いを北上した場合は黒之瀬戸という九州と長島という島の間の狭い海峡を通過して八代海という、天草諸島と九州の間に挟まれた閉鎖海域に入ることが出来ます。この八代海に注ぐ最も主要な河川は球磨川で、熊本県の八代市に河口を開いています。その球磨川の上流部の盆地は人吉盆地で、ここは古代から熊襲の居住地として知られています。熊襲はニニギの長子、つまり山幸彦の兄の海幸彦が始祖であるとされており、これも南洋系海洋民の一氏族なのでしょう。この球磨川流域や八代海は熊襲のテリトリーであったと考えていいでしょう。
そして人吉盆地から更に球磨川を遡っていくと最上流部で船を下りて宮崎と熊本の県境にある湯山峠を越え、一ツ瀬川の最上流部に乗り換えることが出来、一ツ瀬川は宮崎市の北にある新富町で日向灘に注ぐことになります。この日向灘に注ぐ一ツ瀬川の流域はおそらく山幸彦の系列、つまり海人氏の本流のほうのテリトリーであったのであり、海人氏や熊襲族は湯山峠や、あるいは互いにその少し下の盆地部分で品物の受け渡しなどを行う協調関係にあったのだと思われます。
ちなみに、この一ツ瀬川の中流沿いには日本最大の古墳群である西都原古墳群があります。これら古墳群は6世紀初頭の築造とされていますので弥生時代とは直接は無関係ですが、この地域に弥生時代からの有力な集落があった可能性は高いといえるでしょう。

日向灘の海人氏のテリトリーは一ツ瀬川の河口から更に北方へ延びていき、都農市の日向灘に面した場所には日向国一宮である都農神社があります。これはイワレヒコが東征に出発する際に自ら祀ったといわれる神社ですが、おそらくそれより古い時代から航海安全の祭祀が行われていた場所であったのでしょう。その都農から更に海岸線を北上すると日向市があり、その南には耳川が、北には五十鈴川が河口を日向灘に開いています。
そして五十鈴川の河口から更に日向灘沿いに北へ進むと五ヶ瀬川の河口が開き、その河口部には延岡市がありますが、この五ヶ瀬川の上流域には高千穂峡谷があり、ちょっとした盆地が付属して、ここに集落があり高千穂神社が作られています。
ここで霧島連峰にあった高千穂峰と同じ地名がまた出てくるのは、おそらくここを開拓した海人氏がそのように名づけたからなのでしょう。彼らは高千穂峰を霊峰として信仰していた可能性が高く、「高千穂」というのは彼らにとっての故郷の代名詞そのものであったのでしょう。イングランド出身の移民が開拓した土地に「ニューイングランド」と名づけるようなものでしょう。
あるいは海人氏のコロニーが外部からは「高千穂」と呼ばれていたのかもしれず、それがそのまま地名になったのかもしれません。というのも、この高千穂が「異邦人」に対する海人氏の最前線基地として機能していたのであり、異邦人側から見ればこの高千穂こそが海人氏の勢力の窓口というような扱いであったからです。

つまり、古代においては現在の地図にあるような河口部に広がる平野というものはまだ存在せず、存在したとしても低湿地帯で農耕適地ではなく、古代における農耕適地は山間部の谷間や盆地であったわけで、特に中上流域に広大な盆地があればそこは河川交通を管理する勢力にとっての重要拠点になり、更に上流の山岳地帯において峠を越えた別の水系を管理する異邦人部族と遣り取りする領域への入り口、すなわち「山への門」、略して「山門(やまと)」と呼ぶべき地点であったのです。それに対比して河口部付近の海の領域への入り口は「海門(あまと)」とでも呼ぶべき地点であり、この「山門」は更に発展して「山都」とも言われるようになり、「海門」は「海都」とも言われるようになりました。
この同一水系における「海都(海門)」と「山都(山門)」の二都制が古代のスタンダードであったとするなら、例えば先述の大淀川の水系においては宮崎が「海都」であれば都城は「山都」に相当するのであり、球磨川水系においては八代が「海都」で人吉が「山都」ということになります。
そして、「山都」のほうが峠を挟んで別の水系の「山都」と近接することによって、他の水系を管理する部族との交渉窓口機能を備えた前線基地になる可能性が高いということは、相手側から見れば「山都」こそがその水系の交通を管理する部族そのものに見えることにもなります。
五ヶ瀬川における「山都」は高千穂であったのであり、そこを管理している氏族が「高千穂」という言葉を大切なものとして尊重していたのを見て、相手側は自然にその土地のことも「高千穂」と呼ぶようになったのかもしれません。
となると、その相手側というのは、球磨川を管理していた熊襲のような、海人氏と同じ南洋系海洋民で海人氏の正体出自についてある程度の予備知識を持った勢力ではなく、全くの異邦人であるということになります。五ヶ瀬川の上流と連絡する別の水系を辿っていけばそれが分かります。

五ヶ瀬川の上流と連絡する河川ルートには2種類あり、1つは高森峠を徒歩で越えて阿蘇山麓南側の白川の上流に乗り換えて熊本市を通って有明海に注ぐルートで、もう1つは宮崎と熊本の県境の山都町で船を下りて徒歩で少し行って大矢川に乗り換えて、それが緑川に合流し、宇土半島の北にある宇土市で有明海に注ぐルートです。
この2ルートのうち、白川ルートよりも緑川ルートのほうが連結ポイントが阿蘇山から遠く地形も平坦で、労力が少なく安全性も高いので、緑川ルートのほうが一般的なルートであったと思われますが、いずれにせよ宇土半島よりも北側の有明海に注ぐ河川を使ったルートであるという点は共通しています。
熊本県の西岸に広がる閉鎖海域はその海域に突き出た宇土半島を挟んで南北に分けられており、南部が八代海、北部が有明海ということになります。八代海に面した熊本県南部は北半分は九州山地に閉ざされており、集落が集中していたのは球磨川流域、特に南部の人吉盆地であり、熊襲の領域でした。つまり、有明海に面した熊本県北部とは九州山地と宇土半島によって分断されていたわけで、古代からあまり交流は無く住民の気質も違ったようです。実際、古代から熊本県の北部と南部は別々に統治されることが多く、明治維新後もしばらく別々の県であった時期もあったぐらいです。
では熊本県南部が南洋系海洋民の熊襲の領域であったとして、熊本県北部の水上交通を担っていたのはどういう人達であったのかというと、それは五島列島から西彼杵半島、長崎半島から島原半島を回りこんで早崎瀬戸を通って島原湾に入ってから有明海に北上してきた東南アジア系海洋民であろうと思われます。この東南アジア系海洋民が有明海から緑川や白川を遡り、阿蘇山の南方の上流域の彼らの「山都」で海人氏を見て、彼らが「高千穂」というものを深く信仰しているのを見て、彼らを「高千穂族」と呼び、彼らの「山都」を「高千穂」と呼称したという想像も成り立つといえます。
ちなみに緑川の上流域にある有力な盆地は阿蘇山の南の麓にあり、このあたり一帯を古来から「山都町」といいます。こここそが彼ら緑川水系を管理する東南アジア系海洋民にとっての「山都(山門)」であったのです。

この「山都(山門)」「海都(海門)」の二都制は後に畿内において正都であり山都としての大和と副都であり海都としての難波という二都制へと受け継がれていきますが、海都のほうは都市機能よりも港としての機能のほうに特化していくようになり、「海都」というよりは「海門」の側面のほうが強くなっていきますが、一方、「山都」のほうは都市国家的な機能を強めていき、いつしか「やまと」が日本列島における河川沿いの都市国家を指す一般名詞となっていき、それは上流域の盆地に存在し、更に上流域に別の水系への連絡口を備えた都市国家、あるいは共同体ということになります。畿内におけるその典型的な地域が奈良盆地の東南部であり、後に「やまと」と呼ばれるようになっていきます。
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