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日本史についての雑文その196 宗像三女神
さて東南アジア系海洋民の活動領域である有明海に注ぐ河川としては、南から緑川、白川と続き、更に北にいくと菊池川の河口が玉名市において開いています。この菊池川の上流域の「山都」に相当するのは菊池温泉のあたりで、ここも古くから名族である菊池氏によって栄えた場所です。
この菊池川の最上流は熊本と大分の県境の兵戸峠の徒歩行程を挟んで川原川に乗り換えて、北向きに下っていくうちに大山川に名を変えて、日田市から筑後川となって西へ向かい、久留米市などを通過して有明海の最北部に注ぐことになります。

有明海の最北部の筑後川河口の少し南には矢部川の河口が開いており、矢部川を遡ると八女市を通り、更に最上流部に達すると福岡と大分の県境の竹原峠を徒歩で越えてから鯛生川を下る流れに乗り換えて、鯛生川は川原川と合体して大山川となり、日田で筑後川になって有明海に向けて下ることになります。
また、この筑後川に合流する大山川に川原川や鯛生川よりも少し下流で注ぐ杖立川の上流を遡ると、阿蘇山の北麓で黒川の上流から下っていく流れに乗り換えることも出来ます。この黒川は阿蘇山の西で白川に合流し、白川は先述のように熊本市を通って有明海に注ぎます。ただ、このルートは乗り換え地点の阿蘇山北麓が崩落の危険などもあってリスクの高いルートでもあります。ちなみに肥後国一宮の阿蘇神社はこの阿蘇山のカルデラ内の北側にあり、古くから阿蘇山は霊峰として信仰の対象となっていました。

筑後川は九州地方最大の河川で、しかも河口が極端な閉鎖海域である有明海に開いていますから、河口部には大規模な干潟が形成されます。古代においては久留米より下流は干潟ないしは海中であったと思われます。というか、有明海沿いの現在の平野部は古代においてはほとんど干潟で、外海から入ってきた船は干潟の最も沖合の部分で小船に荷物を移し変える必要があったと思われます。
特にこの筑後川の下流域の現在では筑紫平野や佐賀平野となっている大湿地帯には大小の河川が注いでおり、これらの河川は現在では筑後川の支流になっているものも少なくありません。そうした支流沿いや筑後川本流沿いの干潟より少し上流部分には弥生時代の共同体の遺跡が数多く存在し、吉野ヶ里遺跡などもそうした遺跡のうちの一つです。
そうした筑後川によって形成される下流域の湿地帯と陸地部分の境目にあたる久留米市の高良山の北麓には筑後国一宮の高良神社があり、干潟や河川の航行安全や、陸地部分の開墾や豊穣の守護神となっていました。
また、佐賀県の千栗八幡宮は肥前一宮ですが、ほとんど福岡県との境にあり、筑紫平野の低湿地帯と陸地との境目の佐賀側のほうにあり、高良神社と一緒になって両側から筑後川下流の大湿地帯を挟み込んで見下ろす位置にあり、この神社も航行や豊穣の守護神であったと思われます。
また筑後川より南で有明海沿いの低湿地帯に流れ込む矢部川の河口近くには現在の八女市があり、ここにも古代から共同体が築かれていました。また湿地帯の現在の佐賀平野部分からは六角川を北西に遡ると、武雄温泉の戸坂峠を越えて松浦川に乗り換えて唐津湾まで下っていくことが出来ます。この松浦川の下流付近とその北西にある東松浦半島あたりが古代におけるマツロ国(末盧国)の領域で、北にある壱岐島へと真っ直ぐ延びた東松浦半島の先端の沖合いに浮かぶ加部島の島内東側に田島神社があり、航海安全の神で、唐津湾から玄界灘へ出て壱岐島へ向かう船を見守るような位置にあります。
また、現在では久留米の高良神社付近で北から下ってきた宝満川が筑後川に合流してから有明海に注いでいますが、古代においてはその辺りから低湿地帯が始まっていたので、おそらく宝満川も低湿地帯に直接注いでいたと思われます。その宝満川を逆に上流を北へ向けて遡ると、大宰府市の大宰府天満宮の北側で御笠川の上流部に歩いて乗り換えることが出来、御笠川はそこから北上して博多の市街地を通って博多湾の中央部へ注ぎ玄界灘へ出て行きます。

東西に広がった博多湾の東端には香椎宮があり、ここは神功皇后、つまりオキナガタラシヒメの三韓征伐の際の前線基地であった場所で、それ以前の弥生時代から軍事的な要所であったと推測されます。
この香椎宮の西側で博多湾に注ぐ主な河川は東から順に、多々良川、宇美川、御笠川、那珂川で、宇美川の下流沿いで博多湾の海岸近くには筑前国一宮で日本三大八幡神社の一つである筥崎宮があります。
宇美川の上流の宇美市も古代から栄えた場所で上流沿いには宇美八幡宮があります。これも八幡宮ですが、八幡宮は南洋系海洋民の海人氏の祖霊で、弥生時代においてはこの宇美川沿いを含む北九州エリアは東南アジア系海洋民のテリトリーでしたから、後にオキナガタラシヒメの時代以降にこの地に海人氏、つまり天皇家の勢力が及ぶようになってから八幡宮が分社されてきたのでしょうけれど、おそらくこの筥崎宮や宇美八幡宮の作られた場所はそれ以前から航海安全の信仰が行われていた場所であったと思われます。
宇美八幡宮は日本書紀の記述ではオキナガタラシヒメがホムタ大王、つまり応神天皇を産んだ地であり、それで「宇美(産み)」という地名になったとされていますが、日本書紀の地名起源譚は眉唾ものが多いし、その上、このホムタ大王出生に関する日本書紀の記述には作為的な歪曲がある可能性が高く、あまり信用できません。この地はそれ以前の弥生時代から宇美と呼ばれており、その語源はおそらく「海」であり、この地で海洋神や航海神が信仰されていたのだと思われます。そういう下地があって同じく航海に縁のある八幡宮が持ってこられたのだと思います。

筥崎宮と同じく筑前国の一宮とされる住吉神社は博多湾の海岸線の真ん中にあり、那珂川の河口近くにあります。現在の福岡市の中心部でキャナルシティのほど近くにあります。住吉神もオキナガタラシヒメに関係の深い神で、日本書紀では三韓征伐の際に筑紫でオキナガタラシヒメに憑依して現れた神ということになっています。つまりは筑紫地方の古来からの航海神であったのでしょう。それが三韓征伐時の縁で天皇家が崇拝するところとなり、大阪にも航海神としての住吉神を祀る住吉大社が作られたわけで、もともとはこの福岡の住吉神信仰のほうが元祖ということになります。
博多湾の航海神としては、博多湾の沖合いの海上にある志賀島の南東岸にある志賀海神社も有名で、海の神である綿津美三神を祀ります。また博多湾の北方にある宗像市には最も有名な海上交通安全の神である宗像三女神を祀る宗像神社があります。その辺津宮は宗像市内を流れる釣川の河口付近にあり玄界灘に面しており、中津宮はその沖合いに浮かぶ筑前大島にあります。そして沖津宮は更にその延長線上の玄界灘の遥か海上に浮かぶ沖ノ島という小島にあり、この沖ノ島全体が宗像三女神のご神体となっています。
この沖ノ島は九州本土から対馬への中間点ぐらいにあり、宗像三女神への信仰は明らかに対馬や壱岐などを経由した対朝鮮半島の航海路の安全を祈る信仰であったことが分かります。もちろん対馬や壱岐にも航海神信仰は存在し、壱岐国一宮の住吉神社は壱岐島北側に対馬方面に向いて建てられており、対馬国一宮の海神神社はもともとは木坂八幡宮といって、朝鮮半島へ向けて上島の西海岸線に建てられています。住吉神も八幡神も航海神の属性を有しており、元来、対馬でも壱岐でも航海神信仰が行われていたことが推測されます。

この北九州の玄界灘エリアで活動していた海洋民は、東シナ海から対馬海流に乗ってやって来た東南アジア系の海洋民の部族で、もともとはスンダランドからシナ大陸沿岸伝いに北上してきたグループです。そういう人達の一部が長江下流域にまで達して東シナ海に出て対馬海流に乗って五島列島や西九州、北九州、日本海側に散らばっていったのです。
同じ部族でシナ大陸に残った人達は戦国時代以降、シナ帝国が勢力を拡大して南下してくるにつれて、それに押されて南下して広東省や福建省、そして福建省から台湾へも移住していくようになりました。
ところがこの広東、福建、台湾などでは航海安全の女神への信仰が盛んで、おそらく元来の東南アジア系海洋民の航海神は女神であったようで、となると、北九州地方における様々な種類の航海神信仰も、その原初の形に最も近いものは宗像三女神への信仰なのではないでしょうか。そしてそれらの中から宗像三女神と違って男神に変えて畿内方面に分霊されたのが住吉三神であったのでしょう。
これらの玄界灘エリアの航海神への信仰は太古から存在したのでしょうけれど、特に盛んになったのはおそらく紀元前100年ぐらいから始まった朝鮮半島南端の真番郡との交易開始以降、シナ帝国との取引が増えてからのことでしょう。この過程において御笠川や那珂川、宇美川の中下流域、つまり博多湾岸の東半分の領域において交易用の物資の運搬を通じて統合し発展したのがナ国(奴国)であり、博多湾岸の西端から糸原半島にかけて対外的窓口として発展したのがイト国(伊都国)でした。そしてこのナ国とイト国が統合して更に周辺の小国とも連合して、「倭国」と呼べる北九州の国家連合の単位までも作るようになっていくのです。
玄界灘は日本海の南端に位置することになりますが、日本海岸というのは太平洋岸に比べて波当たりが極端に激しくないので岩礁海岸よりも砂浜が形成されることが多く、入り江や島の対岸などの波の影響の特に少なくなる海域では干潟が形成される傾向も強かったといえますが、それらの傾向も一概のものではなく、河川の有無や規模の大小、海岸地形などの要素によって結果は大きく変わってくるのでした。
そして、これらの北九州の倭人の諸国家では、朝鮮半島のシナ帝国直轄地から輸入した銅製の鏡、鉄製の剣、玉という宝石で作った勾玉などが王権を象徴する威信財として重宝されるようになり、王権継承に不可欠なものとなっていくのです。
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菊池温泉でまったりと

菊池温泉でまったりと
旅を連想するようなページにしようと思います。【2007/07/04 06:21】






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