KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その197 宇佐八幡宮
さて、博多湾に注ぐ河川のうち、御笠川と宇美川の上流は大宰府市の大宰府天満宮の北で宝満川の上流に乗り換えて南下していき、久留米で筑後川下流の作る低湿地帯、そして有明海に至ることが出来ます。宝満川こそは玄界灘エリアと有明海エリアを結ぶ大動脈であり、大宰府はその基点であったのです。
大宰府天満宮そのものは平安時代初期に非業の死を遂げた菅原道真の怨霊を慰めるために建てられたもので、大宰府という地名も律令官制に由来するものなので弥生時代には存在しなかったわけですが、これほどの水上交通の要衝ですから古代から重要拠点であったはずであり、実際、太宰府天満宮のごく近くの宝満川と御笠川の水源のある連結地点には竈門神社があり、古来から航海の神として崇拝されてきました。

また、大宰府近辺の米ノ山峠では宝満川の上流から遠賀川の上流への乗り換えも可能であり、遠賀川は北へ向かって下っていき、最終的には玄界灘の東側の海域である響灘に注ぎます。遠賀川の支流である彦山川は直方市で遠賀川に注ぎますが、その源流は福岡と大分の県境にある英彦山に発し、英彦山は修験道の聖地として名高く、山岳信仰のメッカでありました。
シナの史書「漢書」では紀元前20年ぐらいの北九州の倭人国家の状況として、100国ぐらいの都市国家がひしめいている状況が報告されていますが、それはおそらくこの遠賀川、英彦山、筑後川、玄界灘に囲まれたエリア内の描写であると思われます。つまり紀元前100年以降にシナ帝国との交易を熱心に行って楽浪郡にまで出向いていた北九州エリアの東南アジア系海洋民が水上交通を管理していた倭人国家群のテリトリーがこのエリア内に収まっていたということです。

このエリアの特徴的なことは山中に広大な盆地があまり無いということでした。そうなると、平野はそもそも古代においては干潟や海中であり農耕適地でなかったので、河川の流域の谷間の狭い地域に水田稲作をする共同体が多数ひしめき合っている状況であったのでした。
このような北九州の事例は特に顕著な例ではありましたが、だいたい日本ではこのように山地がほとんどであったから農耕は自然に山地適応したのです。こうして段々畑や棚田などが生まれました。そんな状況でしたから当初の農業は狭い谷でやることが多く、特に広い盆地が無ければ生産力は低く、それゆえ当初は狩猟採集と併用となったのです。
その後、農業革命が徐々に進展してマシになっていきましたが、日本人が完全に農業に専念してやっていけるようになったのは江戸時代になってからのことではないかとも思えます。
とにかく北九州のように広い盆地が無い状況ではあまりに余裕が無く、戦争が頻発する原因になりました。そして戦争によって共同体の統合が早く進められ、他の地域より早めに国家が誕生する原因となったのでした。これが例えば同時期の畿内などでは奈良盆地や近江盆地のような広大な盆地が存在したことによって余裕が生じて、戦争にまで至る事態は避けられる傾向にありました。ただ、共同体の統合は遅れましたが、畿内の強みは広大な盆地を使った豊富な生産力でした。

さて北九州ではこうして紀元前250年頃から戦争が頻発するようになったのですが、それにはシナ系亡命民、つまり渡来人が大きな役割を果たしていました。戦争のやり方について日本列島の住人は渡来人から多くを学んだのです。そして同時に戦争の終え方も学んだのでした。
日本列島における戦争は敗者側の徹底的な殲滅には至らず、敗者共同体を温存させて勝者共同体の下位に組み込んで共同体の統合を図り、共同体内の重層的な権力ピラミッド構造を作っていくことになりました。また、同時期の瀬戸内以東では徐々に戦争を介さない形で祭祀を通じて共同体の統合が進められるようになっていきました。
この「戦争を途中で止めて交渉を開始する」ということを「講和を結ぶ」といいます。「和議を結ぶ」とも言い、単に「和を結ぶ」とも言います。戦争の後で締結される約束事が「和議」で、略して「和」です。「和」によって新たに大きな共同体が生まれることになるのです。この「和」というシナ語を伝えたのは渡来人であったでしょう。その段階では単に「講和」という意味だったのでしょうけど、講和条件を基に新たな共同体が形成されるようになると、「統合する」「合わせる」「足し算する」というような意味でも「和」が使われるようになり、その「和」によって新たに統合されて作られた共同体そのものも「和」と称するようにもなりました。
これが自分の所属する共同体の名乗りになっていったのです。つまり銀行の合併のようなもので、「三菱東京UFJ銀行」のようにどんどん名前が長くなっていくのです。例えばA集落とB集落とC集落が戦争や祭祀を通して「和」を結んで統合された場合、そこの住人は自分の所属する共同体のことを「AとBとCの和」というように名乗るようになるのです。
紀元前100年以降にそうした日本列島住人の名乗りをさんざん聞かされた真番郡をはじめとした朝鮮四郡の華僑たちがいちいち長い名乗りを聞くのが面倒臭くなって、「とにかくワがいっぱいあるんだな」と解釈するようになり、「ワに住む人達だからワ人と呼ぼう」ということになり、夷のことは蔑視した意味の漢字をあてて呼ぶことが通例になっていましたから、「背の低い野蛮人だから倭人でいいだろう」ということで日本列島の住人のことを「倭人」と呼ぶようになったのでしょう。
そういった華僑の呼び方を見て、日本列島の住人のほうも自分たちのことを「ワ人」と呼ぶようになっていきました。もちろん「倭」などという蔑称は使わず、あくまで「和人」でした。そして自分たちの所属する統合された共同体を「和(ワ)」と呼び、それが更に統合されて大きくなったものは「大和(タイワ)」と呼ぶようになりました。
「和」と「大和」の違いは、「和」は単一河川内での統合によって出来た共同体で、「大和」は複数の河川を統合した共同体ということになります。そして後に畿内での典型的な「大和(タイワ)」である奈良盆地東南の統合共同体が、難波という「海都」に対応した典型的な上流域の盆地にある都である「山都(やまと)」として機能するようになり、いつしか「大和」の字をあてて「やまと」と読むようになっていったのだと思われます。

さて、どうしてこの遠賀川、英彦山、筑後川、玄界灘に囲まれたエリアが東南アジア系海洋民の勢力範囲であったと思うのかというと、後に北九州勢力と共に三韓征伐を行ったオキナガタラシヒメが遠賀川の中流沿いにある飯塚市の納祖の森に祭壇を設けて九州の臣との別れを惜しんだという故事があり、それがその地に納祖八幡宮を築くきっかけになったと、納祖八幡宮の縁起伝承に記されており、これはつまり遠賀川あたりまでが「九州の臣」の勢力範囲であり、そこから東は「九州の臣」ではない別の勢力の勢力範囲になるということを暗示していると思うからです。
「九州の臣」とは要するに北九州や対馬海峡の水運を支配していた東南アジア系海洋民たちのことであり、それが各地の地方政権の連合体である大和王権の長であるオキナガタラシヒメと共に朝鮮半島攻撃などを行っていたということで、それが終わったのでオキナガタラシヒメが東へ向かい畿内へ戻ろうという場面であり、この南北に流れる遠賀川流域の西の納祖の森まではオキナガタラシヒメの供は「九州の臣」である彼らの役目であったのが、遠賀川を東に越えれば何か別の地域の政権、さしずめ「山陽道の臣」がその役目を引き継ぐということなのでしょう。
「山陽道の臣」、つまり山陽地方、言い換えれば瀬戸内海の水運を支配していた勢力とは、太平洋方面の水運を支配していた南洋系海洋民であったと思われます。それは、太平洋岸よりも瀬戸内海のほうが漁業を行うのに適しており、古代の海洋民とは漁労民でもあったので必然的に瀬戸内海を根拠地にするようになるからであり、逆に日本海側から瀬戸内海に入るのは関門海峡が現在でも狭く曲がりくねって潮流も複雑で海の難所として有名であり、ここを先に南洋系海洋民が押さえておれば、そこに日本海側の東南アジア系海洋民が侵入していくのは極めて困難だからです。
そういった、南洋系海洋民と東南アジア系海洋民の勢力圏の境界線が遠賀川から彦山川、英彦山あたりのラインで古来から東西に区切られていたのではないかと思われるのです。これなら関門海峡は南洋系海洋民の支配下ということになります。そうなると福岡県の東側三分の一や大分県の大部分は南洋系海洋民のテリトリーということになります。
ただ、有明海に注ぐ大河である筑後川に日田で合流する有力な支流である玖珠川の東から西へ延びる流域は有明海水運を支配する東南アジア系海洋民の勢力圏であるので、その最上流、つまり最東端である九重町あたりまでは流域限定ではありますが東南アジア系海洋民の勢力は及んでいたと思われます。

そしてその玖珠川の最上流部から湯布院の西で少しの徒歩を挟んで乗り換えることの出来る河川には駅館川や大分川があります。また、筑後川のもう1つの支流である花月川の最上流部は英彦山の南で山国川に乗り換えることが出来ます。これらの河川は瀬戸内海方面に注ぐのであり、これらの流域は南洋系海洋民の支配領域ということになります。
湯布院の西で玖珠川から乗り換えた駅館川は宇佐市で周防灘へ注ぎます。この駅館川と、英彦山の南から流れてきて中津市で周防灘に注ぐ山国川とによって宇佐市、中津市、豊前市の下流域、現在は中津平野といわれている周防灘に面した場所は古代においては干潟が形成されていました。豊予海峡より北側の伊予灘は海底が平坦でまだ太平洋の外洋水が流れ込みやすく外界の荒波を影響を受けますが、その北の周防灘はもう完全に閉鎖海域で、外海の荒い波の影響をほとんど受けないので河川の運んでくる土砂が河口部に堆積して干潟を形成しやすいのです。
この干潟の最も東側の、干潟と陸地の境目に建っていたのが豊前国一宮の宇佐八幡宮で、ここは八幡神と宗像三女神を祀っていました。もちろん最初は八幡神のみを祀っていたのですが、同じ航海神の属性を持つ宗像三女神も一緒に祀るようになったのは、おそらくオキナガタラシヒメによって北九州の信仰世界が取り入れられてからでしょう。
あるいは、博多湾の航海神はおそらく最初は全て宗像三女神であったものをオキナガタラシヒメが北九州の住人に八幡神への信仰を勧め、その代わり、八幡神信仰の総本山の宇佐神宮でも宗像三女神も祀るようにするという一種のバーターがあったのかもしれません。そのようにして祭祀を統合していくことによって、大和王権という地域連合政権の求心力を高めていったのかもしれません。
もちろん宇佐で祀られていた八幡神というのは本来は航海神ではなく、あくまで海人氏、つまり天皇家の祖霊でしたが、海人氏の祖先がそもそも航海民であったため、氏族の守護神であると同時に航海の守護神としても祀られるようになり、他の航海神と同一視されるようにもなったのです。
ただ、海人氏は本来は鹿児島や宮崎のあたりを本拠にしていたはずで、日本的神道の世界観では「神様は移動しない」というのが原則であるので、後に宇佐に進出してきたにしても、もともとの本貫の地である鹿児島や宮崎に八幡神の総本山が無いのはおかしいということになりますが、これはつまり、日本において祖霊信仰が生じるようになったのは紀元前250年以降に「シナ帝国以前のシナ文明」の影響を受けて以降のことであり、この時点では既に海人氏は本拠地を宇佐に移動させていたということであり、最初に祖霊を祀ったのが宇佐においてであるので、鹿児島や宮崎に八幡神信仰の総本山が残っていなくても何ら不自然は無いのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。