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日本史についての雑文その198 国東半島
紀元前250年の時点で海人氏が本拠地を宇佐へと北上させてきていたというのは十分あり得る話で、そもそも漁労民でもある南洋系海洋民の海人氏にとっては好漁場である瀬戸内海への進出は当然のことでもあったでしょう。
海人氏が日向灘を延岡まで北上してきていたことについては先ほども触れましたが、日向灘は黒潮の影響が強くて航海に危険も伴いますし、海水も貧栄養で漁獲量もそれほど多くはありません。やはり穏やかで富栄養な瀬戸内海を目指して北上し、出来ればその瀬戸内海に面した海岸に根拠地を構えたいと思うのが当然というものです。

瀬戸内海を目指して日向灘を西に見て海上を北上すると東に四国が見えてくるようになると豊後水道に入ったということになります。ここに来ると幾分は海が穏やかにはなりますが、ここはまだまだ外洋に近く、それゆえ九州側も四国側も海岸線は荒い波に洗われてリアス式海岸を形作ります。つまり天然の良港が形成されるということで、この豊後水道の両岸には、九州側に津久見、四国側に宇和島などの港が作られました。
しかしこれらの良港は主に太平洋方面の漁労のためのものであり、瀬戸内海での漁労のための基地はやはり豊後水道の北にある豊予海峡の以北に求めなければいけませんでした。この豊予海峡は幅が14km.ほどで潮の流れが速く、別名を「速吸瀬戸」と言いますが、日本書紀のイワレヒコの東征伝承の中では「速吸の門」という最初に出てくる地名として登場します。東征の出発地は記されていませんが、この豊予海峡より南ということになりますから、既に進出してきていた最前線であった五ヶ瀬川の河口の延岡あたりでしょう。
そして日本書紀の東征伝承の記述上ではイワレヒコが最初に上陸する土地は宇佐です。天皇家の宗廟がこの地にあるということ、実質的に東征経路で最初に出てくる上陸地点であることなどから、私はこの宇佐こそが東征の真の起点である海人氏の本拠地であったと思います。

なぜ宇佐こそが海人氏の瀬戸内海航路の九州における拠点にふさわしいのか。他にも豊予海峡のすぐ北には別府湾もあり、ここには内陸からもアクセスがあります。すなわち、玖珠川の上流は湯布院の南で大分川の上流に乗り換え、大分川は別府湾南岸の大分市から別府湾に注ぎます。また、高千穂町から更に遡った五ヶ瀬川の最上流の支流は萌野峠で大野川の最上流に乗り換えて、大野川は大分県南部の山間部の盆地を通過して大分平野に出て、大分市で別府湾に注ぎます。つまり別府湾の南岸には大分平野が広がり、そこに大分川と大野川という2本の大きな川が河口を開いているのです。
この大分平野は現在は陸地ですが、別府湾は内湾ですからこの平野は古代においては干潟でした。豊後国一宮の西寒田神社はこの干潟と陸地の境界部に建てられています。ただ、ここで問題なのは干潟は大型船が入れないので天然の良港の条件を満たしていないことです。
天然の良港の条件を最も多く備えているのは三陸沖や宇和島のようなリアス式海岸なのですが、この別府湾南部の大分市の2本の河川の作る干潟地帯と近接したリアス式海岸というものが無いのです。南の津久見湾にはリアス式海岸がありましたが、ここにまで行くと瀬戸内海からはみ出てしまい、瀬戸内海航路の拠点港としての機能は果たせません。また、この別府湾は豊予海峡のすぐ北であるために、別府湾から出るとそこは伊予灘で、まだ太平洋の影響が残っており、やや海が荒れる傾向がありました。そういう点でも別府湾は瀬戸内海航路の拠点港としては不足がありました。
その天然の良港の条件を備えたリアス式海岸を多数形成していたのが別府湾の北にある国東半島北部の周防灘に面した海岸線でした。リアス式海岸というのは強い波が当たるような場所に形成されることが多いのですが、この周防灘に面した海域は非常に波の静かな海域なのです。どうしてこのような海域にリアス式海岸が形成されたのかというと、ここはもともと山肌がそのまま海に浮かんでいるような地形であった上に、目ぼしい河川が流れておらず海岸線における土砂の堆積もほとんど無かったので岩礁剥き出しのリアス式海岸が形成されたというわけでした。瀬戸内海の数々の小島に天然の良港が多く作られたのも同じ理由によるものでした。
この国東半島北岸のリアス式海岸群のすぐ西に中津平野の低湿地帯が東西に広がり、その東端、つまりリアス式海岸の天然の良港の最も近くの低湿地帯のほとりに宇佐八幡宮があったのです。つまり、この宇佐こそが九州の内陸河川ルートを通って来たあらゆる物資を集積して国東半島北岸の港に小船で運ぶための前線基地に最も相応しい地理的条件を備えた重要拠点なのです。瀬戸内海で漁労をするにせよ交易をするにせよ、まず宇佐を押さえることが必須条件となるということです。

そういうわけで、紀元前250年頃、祖霊信仰が生じる頃には海人氏はこの宇佐を根拠地として瀬戸内海での活動を開始していたと私は思うのです。つまり紀元前100年にイワレヒコが生まれた頃には、海人氏は宇佐を根拠地にしてから150年以上は経過していたということになります。もちろん、日向灘や鹿児島湾もその勢力範囲ではあったとは思いますが。
そして、この宇佐が瀬戸内海交易の最重要拠点であるとしても、宇佐だけが重要であるというわけではなく、東端に宇佐を含んだ中津平野の東西に広がった干潟地帯全体が国東半島北岸の港へ運ぶ物資の輸送路として重要なのであり、そういうわけでこの干潟地帯の西端にあたる場所の豊前市の四郎丸には大富神社があり、ここはもともとは宗像八幡宮と称して、宇佐八幡宮と非常に関係が深く、航海安全の神を祀っていたのでした。
この中津平野の干潟地帯の東部には山国川を通って、西部には駅館川を通って、それぞれ有明海や筑後川を経由して全九州から運ばれてきた物資が集められ、それらが干潟内の輸送によって宇佐に集積され、宇佐から国東半島北岸の港へ運ばれて瀬戸内海航路に乗ることになるのです。
また、この中津平野から更に海岸線沿いに北上したところの行橋市で周防灘に注ぐ今川を遡っていくと、赤村で船を下りて少し歩いて彦山川に乗り換えることも可能で、この彦山川は直方で遠賀川に合流して響灘に注ぎますから、このルートを使えば内陸河川ルートで北九州や朝鮮半島方面の物資を周防灘に運んできて、それを宇佐まで運んでくることも可能なのです。

もちろん海のルートで北九州方面からの物資を周防灘方面に運んでくるルートもあり、もちろんそれは関門海峡という難所を通るルートになるのです。
まず周防灘方面からの関門海峡の入り口にあたる場所の本州側、つまり下関市の長府あたりの海岸線に忌宮神社があります。ここは日本書紀によればタラシナカツヒコ大王(仲哀天皇)とオキナガタラシヒメの夫婦が熊襲征伐時に建てた豊浦宮の跡地なのだとされますが、場所的に考えて、関門海峡を渡る前の最終ベースキャンプ的な場所、そして関門海峡への侵入者の監視場所なのだといえるでしょう。そして同時に航海安全祈願の場所でもあったでしょう。
この関門海峡の入り口あたりは日本書紀のイワレヒコの東征伝承の中では「岡の水門」という名で宇佐の次の寄港地として登場します。こうしたことからも、イワレヒコの時代、紀元前77年時点では既に関門海峡は海人氏の勢力範囲内であったことが分かります。ちなみに「岡の津」というのが遠賀川の河口にある港のことですから、周防灘からそこへ向かうために通らねばならない水門が「岡の水門」である関門海峡だということです。
なお関門海峡に突き出した本州側の先端部の内陸部、現在の新下関駅近くにある長門国の一宮の住吉神社は、どうやら大阪の住吉大社と対になった存在のようで、関門海峡の航海安全というよりは瀬戸内海航路全体の航海の守護神としての役割が強いようです。
日本三大住吉とされる古来から信仰される3つの住吉神社のうち、最も祭祀の起源の古いものは博多の住吉神社で、これは対馬海峡の航海安全の神で、住吉神というのはそもそも宗像三女神と同じように三神一体となったもので、宗像三女神から派生したものなのでしょう。その住吉神への信仰を取り入れて瀬戸内海航路の守護神として活用したのがオキナガタラシヒメで、彼女によって瀬戸内海の東西の端である下関と大阪の2つの住吉神社が作られたというわけです。
むしろ関門海峡の航海安全の守護神としては、本州側であり周防灘側の入り口の守護神である忌宮神社と、それと対になる存在として九州側であり響灘側の入り口の守護神である若松恵比寿神社のほうが重要だといえるでしょう。
この若松恵比寿神社は北九州市若松区にあり、洞海湾の入り口にあります。響灘方面から見れば関門海峡の入り口にあたる場所で、その祭祀は先述の日本書紀の豊浦宮の件の続きのエピソードでタラシナカツヒコ大王とオキナガタラシヒメが洞海湾から岡津(遠賀川河口部)へ移動中に光る石を発見して祀った故事に由来します。つまり豊浦宮とセットで関門海峡の航海安全を祈願し信仰する場所であったと考えればいいでしょう。
それはそれだけ関門海峡が海の難所であるということを意味しており、また同時に、玄界灘方面から周防灘方面への物資輸送において重要拠点であるということも意味しているのです。日本書紀のイワレヒコの東征伝承を見ると、宇佐を発った後、イワレヒコは関門海峡に立ち寄っているのですが、東を目指すルートからは外れた行程といえます。これはそれだけ関門海峡が重要拠点であり、おそらくはイワレヒコが東へ向かっている間に関門海峡から外敵が侵入してこないように関門海峡の水門の留守居役に念を押しに立ち寄ったのではないかと推測されます。
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