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日本史についての雑文その199 関門海峡
地球上の海水は月の重力の影響を受けて毎日2回、干満を繰り返しますが、太平洋と瀬戸内海とではその海水の量が桁外れに太平洋のほうが多く、太平洋のほうが月の潮汐作用の影響を大きく受けますから、瀬戸内海の潮の干満は太平洋の潮の干満の支配下にあります。
瀬戸内海に太平洋の海水が出入りする場所は西の豊後水道と東の紀伊水道の2箇所ですから、満潮時には豊後水道と紀伊水道から太平洋の海水が瀬戸内海に流れ込み、逆に干潮時には豊後水道と紀伊水道から瀬戸内海の海水が太平洋に戻っていきます。

基本的には瀬戸内海沿岸の各所においても満潮時には海水面が上がり、干潮時には海水が引いていくのですが、このような太平洋と瀬戸内海の特殊な関係性や瀬戸内海独特の地形のために、瀬戸内海では独特の海流が発生することになります。つまり満潮時に豊後水道から入ってきた潮の流れは周防灘では西向きに流れて関門海峡にまで至り、伊予灘では東向きに流れて瀬戸内海中央へ向かうのであって、干潮時にはこの流れが逆向きに転じるのです。
また、満潮時に紀伊水道から入ってきた潮の流れは大阪湾では東向きに流れて大阪港に至りますが、それ以外の潮流は明石海峡と鳴門海峡を抜けて瀬戸内海中央へ向けて西向きに流れるのであり、これらの潮流も干潮時には全て逆向きに流れます。このような瀬戸内海独特の潮流のために各所の狭い海峡部では急流が生じることになります。
瀬戸内海に関係する海峡で最も狭いものは関門海峡であり、その最も狭い部分で幅600m.ほどであり、満潮時には東から西へ、干潮時には西から東へ、強烈な潮流が生じることになり、それゆえ海の難所とされるのです。

ここは源平合戦の壇ノ浦の戦いの戦場であり、この潮の干満の切り替え時の潮流の変化に乗じて源氏が勝利を収めたとされていますが、実際は同じ潮流に乗っている船同士の海上の戦い自体は潮流の変化による影響をほとんど受けないのであって、実際のところは西に陣取った平氏の船団が東向きの海流に乗ったまま源氏の船団を押しまくって関門海峡の東の海上まで攻勢をかけていたところ、源義経の「水夫を射る」というやや卑怯な作戦によって平氏の船が潮流に逆らうことが出来なくなった時に潮流が西向きに変わり、再び源平の船団は共に狭い関門海峡のほうに流されていき、それによって既に九州の陸地を制圧していた源範頼軍の関門海峡沿岸から射ちかける弓矢の射程距離内に平氏の船団が入ってしまったことが平氏の敗因でした。
このように潮流も重要な要素ではありますが、関門海峡ほど狭い海峡の場合は、海峡の周囲の陸地を押さえておくのが最も肝要なのであり、それによって海峡の制海権を握ることが出来るのだといえます。
そしてその陸地での優勢を確保するためには、海峡周辺の海上における制海権が不可欠ということになります。それを、少なくとも周防灘方面に関しては海人氏はしっかり押さえていたからこそ関門海峡を越えて周防灘へ外敵が侵入してくることを食い止められていたのでしょう。
そして、それと同様に、響灘方面での制海権と沿岸の陸上勢力の優越を北九州勢力は何時でもその気になれば押さえることは出来る状況ではあったと思います。つまり、狭くて潮流の早すぎる関門海峡を挟んで互いに攻め込むことは出来ず膠着状態であるゆえに互いに平和共存して、一方は朝鮮半島方面に、一方は瀬戸内海方面にベクトルを向けていたのだということです。そういう状態でありながらも、それでも守りに怠りの無いように念を押すためにイワレヒコは関門海峡に立ち寄ったということなのでしょう。

こうして博多湾や遠賀川河口方面から関門海峡を通過して周防灘へ出て、海岸沿いに移動して宇佐へ物資を集積して国東半島北岸から瀬戸内海へ出航していくという物流ルートが成立し、周防灘沿岸の重要拠点としては国東半島北岸の諸港、宇佐、中津、豊前、行橋、関門海峡が挙げられることになり、これらの拠点はイワレヒコの時代には全て海人氏の勢力下にあったと思われます。つまり古代においてはだいたい、遠賀川河口?直方?英彦山?湯布院?阿蘇山?緑仙峡?宇土半島を結ぶラインを境界線にして、南部および東部九州が南洋系海洋民のテリトリーで、北西九州が東南アジア系海洋民のテリトリーということになります。

そして、東南アジア系海洋民のテリトリーも、筑後川のラインで南北に分けられ、東松浦半島と塩田川河口を結ぶラインで東西に分けられ、全部で3つのエリアに分けられます。すなわち北部の玄界灘エリア、南部の有明海エリア、西部の東シナ海エリアの3つのエリアに分けられるということになり、このうち紀元前100年以降に朝鮮半島のシナ帝国の直轄郡との交易に特に熱心に取り組んだのが玄界灘エリアの倭人諸国であったということになります。
また、南洋系海洋民のテリトリーはだいたい豊後水道のラインで南北に分けられ、南側が黒潮エリア、北側が周防灘エリアということになります。イワレヒコはこの周防灘エリアの指導者であり、宇佐を本拠地として瀬戸内海交易に積極的であったということになります。なお、南側の黒潮エリアのうち、熊本県南部地方は東南アジア系海洋民の有明海エリアの海洋民が八代海にも進出してきたことで南洋系と東南アジア系の雑居的な状況になったといえます。ただ内陸部の人吉盆地などは南洋系の文化の傾向が強く、熊襲といわれ、鹿児島県東部と合わせて熊襲エリアとしての特色も強かったのでした。

こうして、九州の南洋系と東南アジア系の海洋民のテリトリーは、南洋系海洋民の黒潮エリアと周防灘エリア、東南アジア系海洋民の東シナ海エリアと有明海エリアと玄界灘エリア、そして八代海の雑居エリアに分けられることになり、このうち南洋系海洋民の黒潮エリア、つまり現在の宮崎県と鹿児島県の本土部分が「日の国」と言われるようになり、これが後に日向国となり、律令制の下で更に日向国から薩摩国や大隅国が分かれます。また、南洋系海洋民の周防灘エリア、つまり大分県と福岡県東部が「豊の国」と言われるようになり、後に豊前国と豊後国に分かれます。そして、東南アジア系海洋民のテリトリーは「火の国」と言われるようになり、このうち特にシナ帝国との交易の影響を強く受けた地域である玄界灘エリアと有明海エリア北部を「筑の国」と言うようになり、残りは「肥の国」となり、後にこのうち現在の佐賀県と長崎県の部分は肥前国になり、現在の熊本県の部分は熊本県南部の雑居地域も含めて肥後国になりました。また「筑の国」は筑紫国となり、更に後には玄界灘エリアを筑前国、有明海エリア部分を筑後国と言うようになりました。

この時点の九州の諸地域の中でイワレヒコから見れば、直轄地は「豊の国」であり、「日の国」は同族の地ではありますが、瀬戸内海に向かうイワレヒコの方向性とは異なった方向性を持った地域であり、次第に疎遠になっていく流れであったといえます。そして「火の国」はイワレヒコの動きとは全く別の独自性を持った地域であり、その出自も方向性も違っていたのでした。
後にイワレヒコの勢力が畿内に移動して大和王権の発祥に繋がっていくのですが、「日の国」や「火の国」のような大和王権からの独立性が強い地域は後に律令制度が整備されて中央集権体制が作られるようになると、その勢力が強大化しないように上記のように国を分割されていくようになるのです。
一方、豊の国と関門海峡を挟んで向かい合う長門国は元来は「穴門の国」と言って「海峡の国」という意味です。この国はもともとは豊浦、つまり現在の長府を中心とした「穴門地区」と、萩を中心とした「阿武地区」が合体して出来た国で、このうち穴門地区は海人氏の直轄地だったと推測されます。豊浦という地名も、つまりは「豊の国に面した海」という意味で、豊の国との関係が非常に深い土地であることを表しています。「豊の国」と一体となって周防灘エリアを形成していたと考えればいいでしょう。

さて、周防灘エリアの南洋系海洋民、すなわち「豊の国」にとっては宇佐に隣接する国東半島北岸のリアス式海岸が瀬戸内海交易の基点となる港湾ということになるのですが、そこから真っ直ぐ北へ向かって航行した本州の対岸にあるのが防府市です。この防府市の大崎には周防国一宮の玉祖神社があります。この神社はやや内陸にあるように見えますが、現在の防府の市街地の大部分は古代においては大海湾内の海中ないしは干潟であったのであり、玉祖神社は干潟と陸地の境界線上にあったのです。湾内の航行安全と佐波川の流域開拓の守護神が祀られていたと考えていいでしょう。ここの祭神の玉祖命はこの地を開拓した玉祖連の祖神とされています。
防府の大海湾の干潟を埋め立てて作られたのが現在の防府市街であり、そこと現在においては繋がっている向島は古代においては大海湾内に浮かぶ島でした。この向島や、湾の西にある岩礁海岸が古代における天然の良港で、国東半島から来た船はここに停泊し、干潟や河川を航行する船に荷物を移し変えて、玉祖神社を横目に見ながら大海湾の干潟内を航行し、佐波川を遡って内陸部へ物資を運んだり、逆に内陸部の物資を防府に運んできたりしました。
海洋民にとって最良の根拠地とは、内陸部との物資の遣り取りが出来る大きな河川の河口があることなのですが、瀬戸内海のような閉鎖海域の場合は大河の河口部は干潟化して大型船の停泊地としては不適格となりますので、その近傍に岩礁海岸や小島のような河川の土砂が堆積しない場所があることが重要な条件となります。防府はそのような条件を揃えた場所であったのです。

更に防府がそれらの中でも重要拠点の1つとなったのは、防府で周防灘に注ぐ佐波川を遡っていくと、上流域で船を下りて少し歩くと阿武川に乗り換え、そのまま阿武川を下っていくと日本海側の萩に至り、萩は阿武川の河口部が干潟化し、その周囲に岩礁海岸や小島を有する天然の良港であり、この防府と萩を結ぶ内陸ルートによって防府は日本海側の物産とも繋がることが出来たからでした。
この防府から遡る佐波川の河川交通を管理していたのが周防灘の水運を支配していた海人氏に関係の深い玉祖連でしたが、萩から遡る阿武川の河川交通のほうの管理をしていたのは日本海側の水運を支配していた東南アジア系の海洋民の部族であったと思われ、これは北九州の玄界灘や有明海で活動していた氏族とはまた別の氏族で、むしろ出雲を中心に活動していた東南アジア系海洋民の氏族の1つであったと思われます。

この防府を中心として成立していた地域が「周防国」で、ここは玉祖氏という氏族が勢力を張っていた地域で、この海域においてイワレヒコが何ら障害なく航行しているところから見て、この玉祖氏は海人氏に友好的、あるいは海人氏の配下の氏族であった可能性が高いといえ、この「周防国」も先述の「穴門地区」と同様に「豊の国」と一緒になって周防灘エリアを形成していたといえます。一方、萩を中心とした「阿武地区」は海人氏から見て独立性の高い地区で、むしろ日本海側の出雲勢力と関係性が強いのではないかと思われます。
ちなみに、「周防国」は「周芳国」とも記述されたりしていますが、おそらく本来は「周豊灘」からきた「周豊国」であったろうと思われます。つまり、「豊の国」の本拠地である宇佐や国東半島から見れば、「豊の国」の周りにある海が「周豊灘」であり、その「周豊灘」の向こうにある国だから「周豊国」というわけなのです。それが漢字が変わって「周防国」になったのでしょう。
また、関門海峡に面した「長門国」は、「門」は古語では海峡のことですから、「長い海峡の国」ということで、曲がりくねって長い関門海峡に面した国という意味です。
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