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日本史についての雑文その200 安芸灘
防府を出発して更に瀬戸内海を東へ向かうと、周防灘を過ぎて、防予諸島の間をくぐり抜けると、次は安芸灘に入ります。安芸灘、そしてその更に北にある広島湾を含んだこの海域は、防府を上回る水軍の根拠地としての瀬戸内海エリアでは最高の条件を備えた海域でした。実際、この海域、特に広島湾は旧帝国海軍の一大根拠地でありましたし、現在でも横須賀、佐世保、舞鶴と並んで海上自衛隊の主要根拠地の1つとなっています。
広島湾は瀬戸内海から更に本州側に入り込んだ内湾になっており、いっそう静かな海面状態となっており、湾内には厳島や江田島、柱島など多数の島が点在し、島には大きな河川が無いので河口部での土砂の堆積が無く穏やかな海域でも岩礁海岸が形成されやすく、またこの広島湾においては本土沿岸にも岩礁海岸として西に岩国港、東に呉港など、天然の良港が各所に形成されています。
そして湾岸の西側の岩国市においては錦川が安芸灘に注ぎ、湾の最深部の広島市においては太田川が広島湾に注いでおり、それぞれ河口付近が干潟を形成しており、特に広島市の現在の市街地の大部分は古代には海中か干潟でありました。
岩国で安芸灘に注ぐ錦川の上流は内陸部を遡っていき六日市で高津川の上流に乗り換えて、高津川は島根県の益田にまで達し日本海に注ぎます。一方、広島市で広島湾に注ぐ太田川のほうの上流は広島市の北で江の川の上流に乗り換えることが出来、江の川は中国地方最大の河川で、三次を通過して島根県の江津で日本海に注ぎます。このように広島湾の海域からは内陸河川ルートも発達しており、しかも日本海側の交通網との連結も二通り繋がっているのです。

高津川と江の川の河川交通は日本海側の海洋民の管理下であったのでしょうが、錦川と太田川の流域の交通網と安芸灘、そして広島湾の海上交通は海人氏の勢力下にあったか、あるいは海人氏に友好的な南洋系海上民の支配下にあったと推測されます。
何故なら、日本書紀のイワレヒコの東征伝承を見ると、宇佐を発って関門海峡に寄って、その後に立ち寄ったと記述されているのがこの海域であったようなのですが、ここまで全く妨げるものもなく順調なスケジュールの航海で、おそらくこれは自分の勢力圏内を航行していることを意味するのでしょう。
そして、東征伝承のこの海域に関する記述は「安芸の国に着いて、埃の宮に居た」となっており、この後の行程を見ると、どうやらこの「埃の宮」には1ヶ月ぐらいは留まっていたようです。そこまでの行程はもう本当に立ち寄るだけという強行軍の様相であったので、この「埃の宮」がイワレヒコにとって特に重要な拠点であったことが分かります。
また、着いてすぐに滞留が可能であったようなので、既に以前からこの地が根拠地として機能していたということも想像できます。実際、この海域の水軍根拠地としての優秀性は防府はおろか宇佐さえも遥かに凌駕しているのであり、宇佐が海人氏にとっての政治的な本拠地であるならば、この広島湾の海域は海人氏にとっては軍事的な総司令部的な機能を持っていたのではないかと思われます。

つまり広島湾に浮かんでいる島々が海人氏の水軍の根拠地であり、おそらくは「埃の宮」というのは岩国市と広島市の中間地点の沖合に浮かぶ厳島であろうと思われ、この厳島に水軍の総司令部があり、この水軍への物資の補給や人員の生活を担ったのが錦川や太田川の流域の共同体であり、その河川交通路であったのでしょう。
厳島には言うまでもなく安芸国一宮の厳島神社があり、後になって宗像三女神を祀ったり、また日本三弁天の1つと言われたりしていますが、ともかく元来はこの厳島という島自体が信仰の対象となっていたのであり、航海の安全が祈願されていたのでしょう。
おそらく厳島で1ヶ月間イワレヒコが滞留したのは、その間に東征のための水軍を正式に編成したのだと思われます。ここまでの移動は大軍にしてはやや速過ぎるきらいがあり、おそらくは勢力圏内における直属軍、つまり旗本のみを従えた移動だった可能性が高いと思われ、厳島に到着後、九州方面から追いついてくる軍や山陽道から加わる軍などの到着を待って、改めて東征軍を編成したのでしょう。
この広島湾の海域はおそらく海人氏の直轄地であり、その海域を囲む陸地のうち岩国に注ぐ錦川流域エリアは周防国に属しますが、周防国の中心地である防府からは遠く離れており、むしろ広島湾を通じて広島市に注ぐ太田川流域との繋がりのほうが大きく、この地を開拓した阿岐氏の勢力下にあったのではないかと思われます。つまり、岩国エリアも含めた安芸国は、広島湾の島々を除いては周防国と同じく海人氏に親和的な氏族の勢力圏であったと考えられるということです。広島湾の厳島などの島々は海人氏がその水軍根拠地として直轄地にしていたのではないかと思います。
阿岐氏というのはこの地を開拓した氏族ですが、もともとそういう氏族名だったわけではなく、この地がもともと阿岐国と呼ばれていたから、その地を開拓したから阿岐氏と呼ばれるようになったのでしょう。「阿」は接頭語のようなものですから、もともとは「岐の国」なのでしょう。「岐」は十字路などの分かれ道で、ジャンクションというか、交通の要衝という意味で、この地から瀬戸内海航路や内陸水路でいろんな場所に行ける交通の要衝の地なので「岐の国」と呼ばれ、それが「阿岐国」になり、「安芸国」になったのでしょう。

この厳島から江田島、倉橋島を伝って南下して安芸灘に出て、中島、興居島という順番に島伝いに安芸灘を南下して横断していくとその延長線上にあるのが愛媛県の松山市です。
この安芸灘から松山へ繋がる島々も海人氏の直轄地であったと思われ、松山もこの安芸灘海域と島伝いの海上の道で直結しており、四国の物資を安芸灘から広島湾方面に送る窓口の役目を担っていました。
その発着場となったのが興居島と向かい合った岩礁海岸部に作られた天然の良港である松山港でした。松山港が面する伊予灘は海底地形が平坦なので太平洋の海水が多く入り込み、海流が速かったので身の絞まった良質の魚が獲れる海域だったので漁業が栄えました。その松山港の後背地の少し高台になった部分が松山市街の中心部となります。
内陸からの幹線道路である主要河川が河口を開いているのは松山港よりやや南で、重信川が瀬戸内海南西部の伊予灘に注いでいます。これによりその河口付近は広く干潟を形成し、干潟の北に松山港が接する形になり、干潟に流れ込むもう1本の川である石手川が松山市内を流れ上流部は道後温泉を流れます。
道後温泉は日本最古の温泉で、その歴史は縄文時代に遡ると言われます。温泉というのは古代においてはその治癒効果などから聖地とされ信仰の対象となってきました。伊予国ももともとは「湯の国」から訛って命名されたとも言われており、松山は道後温泉と共に発展してきた町といえるでしょう。
重信川に沿って、河口部の干潟と陸地部分の境目に伊予豆比古神社があり、この地を開拓した久米氏の祖霊が祀られています。そこから更に重信川を遡っていくと表川となり、最上流部で船を下りて、絵皮峠を越えれば中山川に乗り換えて西条まで下って瀬戸内海の燧灘に注ぎます。また、表川の最上流部で船を下りて黒森峠を越えれば面河川に乗り換え、それを下っていくと仁淀川となって土佐湾の中央部へ注ぎます。
また、松山港から海岸線沿いに重信川の河口を越えて更に南下していくと伊予長浜で肱川が伊予灘に注いでおり、その肱川を遡っていくと、御在所山の東の最上流部で広見川の支流に乗り換えることが出来ます。そのまま広見川を下っていくと四万十川に合流して足摺岬の北方で土佐湾に出ます。鬼北町で広見川に合流する三間川を遡っていくと窓峠で光満川に乗り換えて、最終的には須賀川に合流して宇和島港から宇和海に出て、豊後水道や豊予海峡方面に向かうことができます。

ポリネシアやミクロネシア方面から黒潮に乗ってきた南洋系海洋民の中には高知の足摺岬に辿り着いた集団も多く存在したと思われ、それらの中の多くは土佐湾や宇和海、それらに注ぐ内陸河川での漁労や交易活動に従事していたと思われます。
特に宇和島はリアス式海岸が複雑に入り組んだ天然の良港で現在でも港の数では日本一の漁業の町であり、四国を東西に貫く中央構造線の南側にあるので黒潮の影響が強く、ここには日向灘方面で活動していた海洋民も移り住んでくるものも多くいたと推測されます。これらの太平洋側地域の共同体は周防灘エリアの海人氏などからは独立性を持った地域であり、むしろ「日の国」のほうが親和性は強かったでしょう。
これら宇和島や土佐湾のような太平洋方面の海洋民の活動によってもたらされる四国南部の物産が、上記のような四万十川水系、須賀川水系、肱川水系、仁淀川水系、重信川水系、中山川水系を使って松山や西条のような瀬戸内海沿岸の海洋民の根拠地に集められ、松山からは安芸灘を島伝いに北上して江田島や厳島を経由して広島湾の海人氏の根拠地に運ばれました。

また西条からは燧灘沿いの高縄半島の海岸線を北上して半島北端にある今治へと物資は運ばれました。今治は瀬戸内海の海運の要衝で、今治の北側の安芸灘の海域は瀬戸内海の中でも最も狭く、しかも最も島が密集している芸予諸島の海域で、芸予諸島は今治を基点として北西から北東方向に扇型に広がったような形で安芸灘を埋め尽くしている島々で、この海域は海底地形が凸凹であるので水産資源に富み、島々の沿岸は岩礁海岸であるので無数の天然の良港を形成しているため、漁業や海運、そして水軍の根拠地となりました。
今治から芸予諸島伝いに北西方向へ航行すれば呉に至り、そこから広島湾にアクセス可能であり、今治から芸予諸島伝いに北東方向へ航行するルートは別名を「しまなみ海道」と言い、現在は西瀬戸自動車道が通っているルートで、尾道や福山へ通じています。
この今治から尾道・福山方面へ連なる「しまなみ海道」の中央に位置する最大の島が大三島で、狭くなった瀬戸内海の真ん中を塞ぐように屹立しています。ここもやはり天然の良港で古来から水軍の根拠地として有名で、伊予国一宮の大山祇神社はこの大三島の西岸にあり、古くから山の神、海の神、戦の神として信仰されていました。広島湾がイワレヒコの時代における海人氏の軍司令部であったとしたなら、この大三島を中心とした芸予諸島は最前線部隊の宿営地というところだったのではないでしょうか。
伊予国そのものは周防国や安芸国と同じように、松山を開拓した久米氏などのような海人氏に親和的な幾つかの海洋民氏族がその河川交通路を勢力下に置いていたのでしょうけれど、今治とその北部に広がる本州と連結する芸予諸島などの島嶼部は海人氏の直轄地となっていたと思われます。
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