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日本史についての雑文その201 鞆の浦
そこで日本書紀のイワレヒコの東征伝承の記述に戻りますと、イワレヒコは安芸の「埃の宮」で1ヶ月ほど滞留した後、吉備の国に移り行って「高島の宮」という仮の宮を作って1年半の間留まって船を整備したり兵員や兵糧を揃えたりしてから出発して、その後は一気に大阪湾に進攻していったということになっています。まぁ実際には滞留は3年というふうに日本書紀には記述されているのですが、ここは二倍暦を前提に修正して1年半とします。
問題はこの「高島の宮」の位置ですが、広島県の東端にある福山市から備後灘に突き出した沼隈半島にある高島という海に面した地ではないかと思います。ここは山に挟まれたちょっとした平地で、前方は瀬戸内海の備後灘に開き、背後には八幡山という山があり、その山を祀る神社もあります。海人氏の仮の宮としては適当ではないかと思われます。
何故ここが「高島の宮」だと思うのかというと、まずこの地が古代においては吉備国の西部、後に言う備後国の東端にあり、この位置が先ほどの今治から福山まで延びる「しまなみ海道」の延長線上であり、しかも瀬戸内海の最重要拠点である「鞆の浦」のすぐ北にあたるからです。

鞆の浦は沼隈半島の先端部にある岩礁海岸で天然の良港を形成しており、そして「しまなみ海道」の本州側の起点でもあり、イワレヒコが芸予諸島を通って北東に進んできたならば必ず立ち寄るポイントであります。ただこの鞆の浦が最重要拠点であるというのは他に大きな理由があってのことで、それはこの鞆の浦が瀬戸内海のちょうど真ん中に位置するということでした。
真ん中に位置するということはつまり、満潮時に太平洋から豊後水道から入ってきた潮流は瀬戸内海中央へ向けて東向きに流れ、紀伊水道から入ってきた潮流は瀬戸内海中央へ向けて西向きに流れ、その2つの潮流がぶつかり合うのがこの鞆の浦付近の備後灘の海上ということになります。そして干潮時には逆に、この鞆の浦沖合の備後灘の海上から東西に向かって潮流が流れ出していくことになるのです。
これは要するに、鞆の浦を境にして瀬戸内海は、満潮時においても干潮時においても、潮の流れが異なっているということになります。満潮時においては、鞆の浦の西の海域では東向きに潮が流れ、鞆の浦の東の海域では西向きに潮が流れます。一方、干潮時においては、鞆の浦の西の海域では西向きに潮が流れ、鞆の浦の東の海域では東向きに潮が流れます。このような状態では、鞆の浦を跨いだ船の航行は途中で必ず潮流の逆転が生じて危険が伴いますし、船団を保つのが困難になります。ならば鞆の浦で一旦停泊して潮の流れが変わるのを待ってから再出発するのが良いということになります。こうして鞆の浦は古代から「潮待ちの港」として栄えることになったのです。
そういう意味で、この鞆の浦は瀬戸内海の海運の最重要拠点として重視されたのでした。この鞆の浦には海の神を祀る沼名前神社があり、由緒としてはオキナガタラシヒメが海中から霊石を得たことから始まるとされていますが、それ以前から航海安全の祈願が行われていた霊的な土地であったという意味であり、つまりはそれ以前から海人氏がこの鞆の浦を重要視していたということです。
この沼名前神社から北に5km.ほど行った場所が高島で、しかもこの高島は、古代においては「穴の海」といわれて内陸部の府中市まで入り組んで食い込んでいた内湾の入り口でもありました。この内湾を少し入っていったところの海岸沿い、現在の福山城のある場所にあった小山の上に古くから八幡宮が祀られていたとのことで、これが現在は別の場所に移されて福山八幡宮となっています。
言うまでもなく八幡宮は航海の神であると同時に海人氏の祖霊であり、それがごく近くに祀られており、しかも瀬戸内海の最重要拠点である鞆の浦の近くでもあるということで、この高島の地が日本書紀の言う「高島の宮」ではないかと思われるのです。

そして、ここで留意すべきなのは、この「高島の宮」がこの時に作られているということです。安芸の「埃の宮」のほうは単に「居た」というだけで、もともと「埃の宮」はイワレヒコ到着以前から存在し機能していたようです。だから広島湾のほうは軍司令部機能を持っていたと考えたのです。
しかし一方、この「高島の宮」はイチから作ったようで、しかもその後は船の修理や兵食の備蓄などを行って1年半過ごしています。これは要するに前線基地をまず設営して、その後は補給や訓練などを行って戦闘準備態勢を取っていたということで、おそらくは設営した「高島の宮」では作戦会議なども連日開かれていたことでしょう。
おそらくはこの「高島の宮」の前線本部の近くの鞆の浦やその周囲の因島や弓削島、その他の備後灘の島々にはその1年半の間に海人氏の水軍が随時集結してきて停泊し、兵員は交代で尾道や福山の陸地のほうにも降りてきて業務を行ったり休憩をとったりもして瀬戸内海を東進する準備を整えていたのでしょう。
つまりはこの「高島の宮」は前線基地であったのであり、ということは海人氏の勢力範囲の最前線、東端はこの地であったということになります。いや、より正確に言えば、イワレヒコの東征に際してこの地に新たに進出して、新たに最前線を東に前進させた地点がこの「高島の宮」だったということになります。

何故なら、この高島も含んだ沼隈半島の地、つまり鞆の浦は瀬戸内海の東半分を航行して大阪湾方面に進攻する場合には必ず押さえておかなければならない場所だからです。それは、大阪湾へ向かう海域の潮の流れはこの鞆の浦を起点として始まるからです。
実際、後に足利尊氏が九州から再起を図り京都へ向けて反転攻勢をかけてきた時に最初に押さえたのがこの鞆の浦であり、その子である足利直冬が京都へ進攻してきた際の根拠地もこの鞆の浦でした。また毛利水軍が根拠地とし、信長によって京を追放された足利義昭が幕府再興を図って根拠地としたのもこの地でした。
こういう場所ですから、大阪湾方面への進攻を計画して出発しているイワレヒコがこの地を押さえないわけがないのですが、その一方で、高島の宮を急ごしらえで作っていることから見ても、この時点以前は鞆の浦は海人氏の支配下ではなかったのであり、東征にあたって新たに進出して急速に前線基地化したようなのです。そうした態勢を整えて再出発の準備が整うまでに1年半かかったというわけなのです。
つまりは、鞆の浦が瀬戸内海の最重要拠点だといっても、それはあくまで瀬戸内海全域を支配する場合の最重要拠点なのであって、瀬戸内海の東半分の海域への進出を考えない限りは、鞆の浦は特に必要な拠点ではないのです。つまり、東征はイワレヒコのオリジナルのアイデアなのであって、イワレヒコ以前の海人氏は瀬戸内海の西半分を活動範囲としていた氏族であったということなのです。

いや、日本書紀におけるこの高島の宮の件を見てみても、イワレヒコがこの地を戦い取ったという記述も特に無いようなので、おそらく瀬戸内海で活動するその他の勢力の誰もがこの鞆の浦の重要性を認識していなかったのではないかと思われます。
つまりは瀬戸内海を一体のものとして捉えて瀬戸内海全体の制海権を握ろうという発想がイワレヒコ以前は存在せず、各勢力はそれぞれのテリトリーで上手くやっていければそれでいいという考え方だったのでしょう。
瀬戸内海を一体のものとして捉えるというところがイワレヒコの新しさであったと思われます。これは北九州におけるシナ経済の浸透という新たな事態を受けて瀬戸内海を一体とした防御体制や交易体制というものをこの時初めて意識した集団がおり、イワレヒコはそうした構想を実行するために東征という行動を開始したということを意味しており、つまりは、イワレヒコの行動は時代の要請であったのです。
イワレヒコの発想が斬新であるということはイワレヒコ以前の海人氏は瀬戸内海西部までをテリトリーとしていたということであり、つまりは瀬戸内海の東半分は海人氏にとっても未知の領域であるということであり、鞆の浦より先は敵なのか味方なのか不明な勢力が存在している地域なのであり、だから高島の宮では最前線のような緊張感が維持されていたのであり、また、高島の宮を出発した後、どこにも寄港せずに一気に大阪湾に突入したのも、未知の土地なので不用意に立ち寄るのは危険だと判断したからなのでしょう。
実際、この高島の宮から東の地域は、後に大和王権が成立した後においても大和王権からも一定の独立性を保った有力な地方勢力がひしめいていたのであって、それらはこの東征時のイワレヒコにとっても潜在的な脅威であったので、高島の宮ではイワレヒコの軍勢は常に臨戦態勢で備えることになったのです。また、鞆の浦を出発した後、すぐに第一の難所である備讃瀬戸を通過しなければならず、そのためには船団の整備や訓練は繰り返しておく必要もあったでしょう。

この高島の宮や鞆の浦などを有する福山や尾道という土地はそういう意味でも優れた土地で、三方を山地に囲まれており陸路も河川ルートも遮断されており、備前灘にのみ開いているため港町としてのみ特化しました。それゆえ、沖合に船団を集結させて制海権さえ握っていれば防御は鉄壁となるのです。
敵がもし福山や尾道に陸路で攻めようとすれば、海沿いのごく狭いルートから攻め寄せるしかなく、警戒ポイントが最初から絞ることが出来て防御側に有利です。そして防御側は制海権を握っているわけですから、敵の姿を見ながら海上を自由に移動して敵の背後に兵員を上陸させて味方の陸上部隊とで敵を挟み撃ちにすることも自由自在なのです。
このように制海権さえ握っていれば非常に有利な地形であるという点では神戸によく似ており、実際この戦法で後に神戸においては湊川の戦いで足利尊氏軍が楠木正成軍を撃破しています。ただ、それとほぼ同じ場所でそれよりも時代は遡る一の谷の戦いで、源義経が船より早い騎馬戦法を駆使して制海権を握る平氏を撃ち破っていますが、これは例外的な事例で、しかもイワレヒコの時代には馬は日本に存在しなかったわけですから、福山や尾道の守りは堅固なものであったでしょう。
福山や尾道は古代においては吉備国に属し、元来は海人氏の勢力圏ではなかったのですが、おそらくイワレヒコ以降はこの福山市や尾道市、府中市のあたりは海人氏の直轄地となったと思われます。

さて福山市の沖合の、瀬戸内海の中央で、芸予諸島の東、笠岡諸島の西の比較的に島が少ない海域が備前灘で、その南の同様に島の少ない四国の高縄半島と荘内半島に挟まれた海域を燧灘といいます。笠岡諸島と荘内半島のラインより東の海域が備讃瀬戸ということになります。
この燧灘に面している四国沿岸の中心地が今治や西条、新居浜などだったのですが、西条や新居浜などの燧灘南岸の海岸線一帯は古代においては元来は平野部分は海中に没しており、海岸線の背後にすぐに四国山地が迫っており、平野部分の中では標高の高い小山の部分が島となってあちこちの海面から顔を出している状況でした。そして四国山地から流れてくる河川の運んでくる土砂が海中に溜まって無数の干潟が随所に形成されている状況でした。
つまりこのあたり一帯は海洋民の活動範囲であったわけで、安芸灘や備後灘から南洋系の海人氏に近しい海洋民がやって来て活動して、河川で四国山地を遡って内陸の共同体との交易も行っていたと思われます。ただ、この地域においては四国山地は非常に険しく、山地を越えて四国の太平洋側へ交易路を広げることは難しい状況でした。
瀬戸内海方面から四国の太平洋側への内陸におけるアクセスが容易であったのは先述の松山方面からの四万十川を使ったルートと、もう1つは讃岐国、つまり現在の香川県方面からのルートでした。そしてこの讃岐国と山陽道方面を結ぶ海路が備讃瀬戸といわれる笠岡諸島と荘内半島のラインを西端として小豆島を東端とした瀬戸内海がひときわ狭くなった多島海で、ちなみにこの備讃瀬戸の真ん中の最も瀬戸内海の幅が狭くなった児島と坂出の間を現在は瀬戸大橋が架かっています。そして古代において、この備讃瀬戸の制海権を握っていたのがその北方にあった吉備国を根拠地とした、海人氏とはまた別系統の南洋系海洋民であったのです。
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