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日本史についての雑文その202 吉備国
吉備国というのは古代の山陽道に存在した文化先進地帯で、後に古墳時代には北九州や出雲、大和などと並んだ勢力を形成する地域で、その強大さを大和朝廷に警戒され、律令制施行後は備後、備中、備前、美作の諸国に分割されてしまいましたが、それ以前はそれらの地域を合わせた広大なエリアを占める大国でした。
ここは吉備氏という氏族が開拓した土地なのですが、吉備国を開拓したから吉備氏といわれたのであって、この地はもともと吉備といわれていました。それは単に黍がよく収穫できたから「黍の国」と呼んでいたということのようです。

その中心地が岡山平野で、弥生時代から河川交通を介して発展していたと推測されます。岡山平野は岡山市の東端を流れる吉井川、岡山市中心部を流れる旭川、総社市や倉敷市を流れる高梁川が上流から運んできた土砂によって形成された低湿地帯を干拓したり埋め立てたりして出来た平野で、古代においては現在の岡山平野の南半分は海中もしくは干潟でした。ちなみに現在の地図で岡山平野から瀬戸内海に大きく突き出した児島半島も古代においては独立した島で、後に河川の運ぶ土砂が溜まって更にそこを埋め立てて本土と陸続きになったのです。
分割前の実質的な吉備国一宮であった吉備津神社はもともと岡山平野の高台である吉備中山の山麓にあり、ここより南は低湿地帯であったろうと思われ、この地点の少し北に秀吉による水攻めで有名な高松城があり、後世の戦国時代においてもこのあたりがいかに低湿地帯であったかを示しています。つまりはこの神社より内陸部が農耕を行う共同体の適地ということになり、この神社にはこの地を開拓した吉備氏の祖霊が祀られています。
この吉備の三本の川によって作られる下流の干潟地帯は海人氏とは別ルートで瀬戸内海に進出してきていた南洋系海洋民の吉備氏の活動領域となり、更にそれぞれの河川を遡って内陸とも交易をしていたと思われ、この地域のこの3本の河川沿いには多くの古代遺跡が存在しています。
そして、この吉備地域は河川を遡っていくと日本海側に繋がる河川交易路とも連結する地域でもありました。岡山市東部から吉井川を遡っていくと備前や美作方面を通過して最上流の右手峠で千代川の最上流部に乗り換えることが出来、この千代川を下っていくと鳥取市を通って日本海に注ぎます。
また、岡山市中心部から旭川を遡っていくと備中地域を北上していき、大山の南東部にある岡山と鳥取の県境の犬挟峠で天神川の支流の小鴨川に乗り換え下っていき、倉吉市で天神川に合流して日本海へ注ぎます。また倉敷市から高梁川を遡っていくと総社市や新見市など備中地域西部を北上し、最上流部の桑平峠での石見川に乗り換えて、石見川は日野川に合流し、北に向かって日野川を下っていくと米子市を通って美保湾に注ぎます。

このように吉備の南洋系海洋民の吉備氏は備前や備中地域の河川ルートを支配しつつ、日本海側の物流路とも連結して岡山の下流方面の干潟地帯に物資を送り、更に児島なども含めた備讃瀬戸の島々の島伝いに丸亀、坂出、高松などの讃岐国の海岸線沿いの港との間の物資の輸送も行っていました。
いや、厳密に言うと丸亀や坂出や高松の現在の港というものはこの古代の讃岐国においては存在していませんでした。何故ならそれらを含む讃岐平野そのものが古代においては海の底だったからです。
古代の讃岐平野は海面下で、随所にある小山や高台が島となって海面上に顔を出している状態でした。つまり備讃瀬戸の多島海がそのまま南に拡大して、現在の讃岐山脈のすぐ北側が四国本土の海岸線となっていたのであり、讃岐山脈の最高点のあたりは讃岐国と阿波国の国境でしたから、現在の香川県の大部分は海面下であったということになります。
現在の香川県北部の海岸線付近にある高台である屋島や太平山は古代においては島であったのです。源平合戦で登場する屋島が平氏水軍の根拠地であるのは、それが備讃瀬戸の中にあった島だったからです。そして源平合戦の時代においては屋島周辺の陸地化がだいぶ進んでおり、干潮時には四国本土から屋島まで歩いて渡れる道が繋がっていたので、源義経が干潮時を狙って騎馬隊で屋島を攻めて落としたのです。
どうして源平合戦時代に屋島周辺の陸地化が進んでいたのかというと、讃岐山脈から流れてきた何本もの河川が運んできた土砂が備讃瀬戸の海岸線に堆積していき、どんどん干潟が形成されていったからです。それらの干潟が最終的には讃岐平野になったというわけです。弥生時代は讃岐国にこうした干潟が形成され始めた時代でした。現在の高松市内にある讃岐国一宮の田村神社ももともとは干潟内に存在したようで、水神を祀っていました。
また、香川県の琴平町の象頭山の東南山麓には金刀比羅宮がありますが、古代は讃岐平野は海だったわけですからこの神社は海に面していたようで、海の交通安全、海の守り神の信仰が昔からされており、それが中世以降に神仏習合の影響で金刀比羅宮として信仰されるようになったのです。

このように讃岐平野が海であった古代においては、現在の香川県の南部を東西に走る讃岐山脈の北麓の海岸線には讃岐山脈から流れてくる何本かの河川の河口が開いており、讃岐山脈は伊予方面で峠越えの障害となっていた四国山地ほど急峻でもないので、それらの河川を遡っていくと何箇所かで徒歩で峠を越えて讃岐山脈の南側の斜面に出て、そこから下っていく河川に乗り換えることが可能です。それらの南斜面の下りの河川は全て讃岐山脈の南麓で四国最大の河川である吉野川に合流します。
吉野川は中央構造線に沿って四国を東西に走る大河で、讃岐山脈の西端あたりの三好町で南に向きを転じて上流へと遡っていき、四国山地の中を縫って走り、最上流部の高知県山中の根曳峠で国分川の上流に乗り換えて、国分川を下っていくと高知市を流れて高知港から浦戸湾へ経て土佐湾、つまり太平洋に出ます。
土佐国一宮の土佐神社は高知港を見下ろす平野の最上部にあり、太平洋に向かっており、これはやはり古代から太平洋における航海安全を祈願する神社なのです。そしてまた同時に、国分川の流域の内陸水路の起点でもあり、内陸水路を開拓した祖先霊を祭祀する場所でもあるのです。
浦戸湾の土佐湾への出口が桂浜ですが、桂浜から海岸線に沿って少し西へ行けば仁淀川の河口があり、この仁淀川を遡っていくと四国山地の山中で重信川に乗り換えて松山へ至り伊予灘へ注ぎ、同じく仁淀川を中山川に乗り換えれば西条から燧灘へ注ぎます。
また、桂浜から仁淀川河口をやりすごして土佐湾の海岸線を更に東へ進んでいき、足摺岬のすぐ北ぐらいまで来ると四万十川の河口があり、四万十川を遡り、更に支流の広見川を遡っていくと肱川に乗り換えて伊予長浜で伊予灘に注ぎ、また広見川から更に支流の三間川を遡っていくと光満川に乗り換えて須賀川に合流して宇和島へ至り、宇和海に注いで豊後水道へ出ることが出来ます。
このように讃岐方面から吉野川の上流にアクセスすることによって、備讃瀬戸の海上路と土佐湾や宇和海、伊予灘の海上路とが内陸水路で繋がることが可能となります。この高知方面の国分川、仁淀川、四万十川の内陸水路と高知港、足摺岬、宇和島などを結ぶ海上路を管理していたのは、おそらく南洋系海洋民の中でも特に外洋への適応性が高い部族で、主に足摺岬に漂着した部族の末裔たちだったのでしょう。
それに対して、高知県山中の根曳峠の吉野川最上流部で彼ら土佐系の海洋民と接触していた吉野川水系を管理していた側の海洋民は、おそらく主に室戸岬に漂着して紀伊水道沿いの四国南東岸を北上して吉野川の河口部に辿り着いた南洋系海洋民部族の末裔だったのでしょう。

吉野川の下流部は讃岐山脈の南麓を東へ向けて下り、徳島平野を通って、河口は淡路島南方の海上に開き、紀伊水道に注ぎます。この吉野川の河口部も古代においては海中もしくは干潟として大きく湾入していたのであり、その入り江の南端が現在の徳島市のあたりで、入り江の北端は現在の鳴門市で、鳴門海峡の南端に接していました。
鳴門海峡は海峡の幅が1km.ほどで、1日に2回の満潮時には紀伊水道側から瀬戸内海側に向けて特に大量の海水が流れ込み、逆に1日に2回の干潮時には瀬戸内海側から紀伊水道側に向けて特に大量の海水が流れ込みます。鳴門海峡は極めて海峡幅は狭いので、そこに満潮時と干潮時に一気に大量の海水が急激なスピードで通ろうとすると一部が通りきれずに跳ね返され逆流して渦潮が発生するのです。
それゆえ、鳴門海峡は海の難所であり、南洋系の海洋民としても通過には危険を伴ったので、基本的には紀伊水道と瀬戸内海の行き来には吉野川の支流で讃岐山脈を遡り、そこから讃岐側の低湿地帯へ下る河川に乗り換えるというルートが基本であったとは思うのですが、渦潮の発生時間を避けて鳴門海峡を通過する危険だが早いルートも使用されていたようです。
阿波国はもともとは「粟の国」といったようで、粟がよく収穫されたのでそう呼ばれたようです。その阿波国一宮の大麻比古神社は鳴門市にあり、現在は鳴門市内の最高峰である大麻山の南山麓にありますが、この神社は阿波を開拓した忌部氏の祖霊を祀ったもので、山頂でもともと祀られていた猿田彦を合祀したものだと言われます。すると元来は山頂に猿田彦の神社があり、そこに後からやってきた忌部氏が自らの祖霊を合祀したということになります。
猿田彦は南洋系海洋民にとっての太陽神であり航海神でもあったわけで、伊勢地方でも信仰されています。この大麻山の山頂からは鳴門海峡を望むことが出来ることから、これは鳴門海峡の航海安全の太陽神を祀る神社であったと思われます。
おそらくは室戸岬に漂着した南洋系海洋民のうち、四国の紀伊水道沿岸を北上して紀伊水道に面したリアス式海岸部や吉野川河口の低湿地帯、そして吉野川を遡った上中流域を結ぶ水路を開拓した氏族が存在し、それが鳴門海峡を通ったり、吉野川経由で讃岐山脈を越えたりして讃岐の低湿地帯で活発に活動もしていたのでしょう。

そして、讃岐の低湿地帯からそのまま連続する備讃瀬戸を北上して吉備国の内陸水路で活動するようになった南洋系海洋民の一派が吉備の古代文化を担い、後に吉備氏となったのでしょう。ただ、この吉備国に関しては、日本海側の文化先進地帯と非常にアクセスがいいので、むしろ吉備氏は後になって南方から備讃瀬戸から進出してきた南洋系海洋民と祖先を同じくする一派が、もともとこの一帯の水路を管理していた東南アジア系海洋民の部族と一体化して形成した氏族であったかもしれません。
何故なら、もともと内陸河川を航行して交易するというスタイルは、太平洋の島嶼部から日本列島の太平洋岸へやって来た南洋系海洋民のグループよりは、東南アジアや南シナの大陸部から日本列島の日本海岸へやって来た東南アジア系海洋民のほうが経験値が高く、特にこの吉備国に河川ルートでアクセスが容易な日本海側の地域が山陰地方の古代文化の中心地であったことからも、その担い手であった東南アジア系海洋民の出雲族が中国山地を越えて南下して吉備国の内陸水路を開拓していた可能性は高いといえます。そこに南方から南洋系海洋民の一派がやってきて、出雲族と一体化して吉備氏を形成したのではないでしょうか。
互いに共同体を温存して更なる大きな共同体へと統合していくというのが日本列島における異文化との接触時の反応のパターンで、特にそれは弥生時代の瀬戸内以東では顕著であったようですし、また、河川交通の経験値が高い出雲族の領域に後から南洋系海洋民がやって来たとしても、河口部分までは自力で開拓できたとしても、河川ルートの開拓に関しては出雲族の協力を必要としたのではないかと思えるのです。同時に、出雲族のほうも海洋交通路の利用については南洋系部族のほうに協力を求める部分もあったでしょう。そうして自然と共生関係が生じて、それが一体化した氏族の誕生にまで繋がっていったということも大いにあり得ることでしょう。

そして、鳴門海峡を一望する大麻比古神社の元来の祭神が太陽神であり、それが伊勢でも信仰されている猿田彦であったということは、おそらく縄文時代に遡るほど古来から阿波や讃岐を最初に開拓し、ひいては吉備国の古代文化に南から影響を与えた南洋系海洋民が元来は伊勢や紀伊に居住した海洋民と共通の文化基盤を持ち、血統的にも近しい関係にあったということも示しています。
それは、黒潮から室戸岬に辿り着いた氏族と、紀伊半島最南端の潮岬に辿り着いた氏族との間で血統的にも文化的にも共通した部分が多かったということでもあるでしょうし、紀伊水道を挟んで阿波と紀伊の間に交流もあったであろうし、それも含んだ太平洋岸を伝った交易路というものも存在したということでしょう。
ただ、猿田彦も最初から猿田彦であったわけではなく、伊勢国で太陽神が信仰されていくうちに猿田彦として認知されていったわけですから、阿波国の大麻山の山頂に祀られる太陽神にして航海神が猿田彦であるとして認識されるためには、伊勢地方の信仰世界を理解した者の介在が必要となります。
そういう意味で、もともと存在していた南洋系海洋民の南海交易路に乗って伊勢や紀伊から阿波へやって来た存在が必要となります。それこそが伊勢神宮をはじめとした大和王権の祭祀全般を担当していた一族と同族の忌部氏であったのでしょう。おそらく忌部氏が1?2世紀頃に伊勢や紀伊から阿波の大麻山へやって来て、そこに祀られる太陽神を伊勢の猿田彦と同一神として公認し、そのうえで彼ら自身の祖霊を合祀して、阿波国の開拓に加わったのでしょう。また、忌部氏は讃岐国にも勢力を広げることになりました。
問題は、なぜ忌部氏が阿波へやって来たのか、そして何故それが1?2世紀のことであるのかなのですが、それについては紀伊や伊勢に関して考察した時にまた触れることにします。ここではまず、それよりも遥か太古において吉備国の古代文化に北から関わった古代出雲というものについて考察していきたいと思います。
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