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日本史についての雑文その203 古代出雲
東南アジア系海洋民が対馬海流に乗ってきた場合、対馬海峡の次に海上から目印になる突き出した部分は島根半島です。この島根半島に多くの東南アジア系海洋民が漂着してきたと思われます。
島根半島は東南アジア系海洋民が断続的にやって来ていた縄文時代においては現在の宍道湖は島根半島の西岸にまで広がっており、島根半島の西で日本海に開いた大きな湾、古宍道湾でした。そのかわり、現在において東にある中海との間を結ぶ大橋川は存在しませんでした。この島根半島の西岸を大きくえぐる古宍道湾の西部には南から斐伊川と神戸川が注いでおり、次第にこの2本の川の運んでくる土砂で干潟が形成されていきました。

この古宍道湾の場合に特殊であったのは、2本の大きな川が東西に細長い湾の出口に近い西部に集中して注いでいたために、湾の出入り口のほうが干潟で埋まり、湾の奥のほうが水をたたえたまま残ったことでした。これにより島根半島の東部に取り残された部分によって宍道湖が形成され、島根半島の西部には斐伊川と神戸川によって形成された干潟地帯が出現しました。干潟地帯ですから一応は干潮時は海から遮断はされますが、満潮時には宍道湖や日本海に航行は可能となります。ただ半分遮断されたようなものですから宍道湖からの水の排出口が不足し、そのため東に向かって放水路が形成されるようになり、それが大橋川となって東の古中海湾に注ぐようになりました。
この古中海湾の東方には日野川が注ぎ、またその東の海岸近くにそびえる大山から多数の川が日本海に流れ込んでおり、それらの河川によって日本海の海中に流し込まれた土砂のうちの砂礫成分が古中海湾の真ん中に打ち寄せられて堆積するようになり、弓ヶ浜砂洲が形成され、それによって西側の中海と東側の美保湾が分けられることになりました。

つまり、弥生時代の島根半島は、半島の最北部は東西に連なる高台になっており日本海に面して岩礁海岸を形成していましたが、その南側は東西に湿地帯や湖や湾などが連なる水路の回廊が形成されていたのです。西端には斐伊川と神戸川によって形成された干潟地帯が広がり、その東には干潟地帯に繋がる宍道湖があり、宍道湖は大橋川で東にある中海に注ぎ、中海は北東部に美保湾への出口である境水道があり、そこから美保湾に出ることが出来ました。
この西端の干潟地帯は次第に土砂で埋め立てられて出雲平野を形成していきましたが、それでも低湿地帯であったので何本もの水路で日本海と宍道湖の間を結んでおり、その出雲平野を貫いて斐伊川と神戸川が島根半島西部で日本海に注いでいました。斐伊川といえば出雲神話のヤマタノオロチ伝承の舞台ですが、オロチは水神でオロチ退治は治水事業の象徴であったという説が有力で、実際、斐伊川は大変な暴れ川でしょっちゅう洪水被害をもたらしていました。
ただ日本書紀ではそのオロチが「高志」からやって来るという設定になっており、この地名は出雲地方に実際にあるのですが、これは日本書紀成立後につけられた地名であるかもしれず、「高志」が「越」、つまり北陸地方である可能性もあります。まぁ実際にオロチが北陸地方からやって来るわけはないのですが、出雲の部族の世界認識では北陸地方は敵対的な地域、あるいは正体不明の異郷であるということであったのかもしれません。

その斐伊川は江戸時代以降の治水事業の結果、宍道湖に河口を開くように変えられたのですが、それ以前は島根半島の西側において日本海に河口を開いていたのであり、もちろん弥生時代においてもそうでした。その河口部を見下ろす北側の高台の西端、つまり島根半島の北西端に出雲国一宮の出雲大社が建っていたのです。
出雲大社はもちろん出雲国を開拓したオオアナムチ、つまりオオクニヌシを祀っている古代出雲文明における最重要地点なのですが、その場所がこれほど日本海寄りの場所にあるというだけでも、古代出雲文明というものが海洋的性格を強く持っていたことが分かります。
この出雲大社の創建伝承によれば、イクメイリヒコ大王(垂仁)の時代に国家的事業で建てられたのが大規模な神宮の最初なのですが、これはそれ以前からこの地でオオアナムチが信仰されており、しかもその神が大和朝廷に祟ったためにそれを鎮めるために祀ったという経緯のようです。もちろん祟られたのには祟られるに足るだけの心当たりがあるわけで、それはおそらく神宝を巡るトラブルに起因するのであろうと思われます。
とにかくオオアナムチ信仰は相当古い起源を持ったものであり、それは本来は祟り神ではなく、地元の人にとっては守護神であり、航海や漁業に関わるものであった可能性が高いといえます。
ちなみに、「出雲大社」というのは明治以降の呼称で、この神社は古来から江戸時代末まで一貫して「杵築大社」という名で呼ばれてきました。それゆえ、古来から「出雲神社」の総本山といえばこの神社のことではなく、京都の亀岡にある「出雲神社」、現在の出雲大神宮のことを指しました。

そしてこの出雲大社が見下ろす出雲平野の低湿地帯の水路を使って斐伊川や神戸川から宍道湖に船で移動することが出来ました。そして宍道湖を東へ航行すると、その北東岸で大橋川の放出口のあたりには松江市があり、そこから大橋川を下って中海に出て東へ進み、中海の北東部の弓ヶ浜砂洲の先端部にある境港市の北に開いた境水道を通れば美保湾に出ることが出来ます。
この境水道の出口の先にある美保関、つまり島根半島の東南端にあって美保湾を見下ろしているのが美保神社で、漁業と海運の神を祀っています。美保神社を左手に見ながらそのまま弓ヶ浜砂洲の海岸線沿いに南東方向に移動していけば米子市に至り、日野川の河口があります。
この美保関は出雲神話の中でスクナビコナが船に乗って上陸した地であり、この他、海上を照らしてやって来たオオモノヌシなど、出雲神話の神々は海の向こうからやって来るものが多くいます。またスクナビコナなどは海の向こうの常世の国に渡っていったことになっています。
これは元来、主宰神のスサノヲからして海の彼方の根の国の王であり、また出雲に来る前に新羅に寄ってきたという伝承もあり、やはり大陸や朝鮮と縁が深いのだといえるでしょう。
実際には島根半島や美保関に船でやって来る場合、北九州方面その他の日本海沿岸地域からやって来ることのほうが多いのでしょうが、なんにしても対馬海流を使う以上は、その起源は東南アジアや南シナ、経由地として朝鮮半島南部などというパターンは十分あるのであり、こうした日本海を通じた交流は出雲神話の世界観の構成要素の1つではあります。

美保神社はオオアナムチの子であるコトシロヌシとその妻神を祭神としており、また全国のコトシロヌシ系のエビス信仰の総本社でもあります。スクナビコナもエビスと同一視されることがあり、どうやらコトシロヌシとスクナビコナは同一視される傾向があるようです。エビスは海の神で、スクナビコナは海から美保関へやって来たし、コトシロヌシも美保で釣りをしてから海中に没したりしていますから、互いに美保にも海にも関係があります。そういうわけでこれらは同一視されやすいのでしょう。
エビスというのは七福神の1つで、ヒンドゥー教や仏教、道教に起源を持つ他の6神とは違い、エビスは日本古来の土俗信仰で、海の向こうからやって来る水の神で、海神であり、エビスはエビスとして土着で信仰されていたパターンが多く、後になって海に関係の深い神と同一視されるようになり、もともとエビスを祀っていた場所でそれらの神が信仰されるようにもなったようです。
その同一視される神が出雲文化圏ではコトシロヌシである場合が多く、美保神社はその典型であり総本社というわけです。この「海から神がやってくる」というモチーフは実際の海洋民の活動とも合致した部分もあり、スクナビコナもスサノヲもある意味ではエビスそのものであったのですが、それらを代表する形でコトシロヌシがエビスと同一視されるようになったのです。一方、瀬戸内や太平洋のほうの南洋系海洋民の世界では、海に流し捨てられたという蛭子神がエビスと同一視された場合が多く、この蛭子系エビス信仰の総本社が西宮戎神社となります。
このような経緯で美保関の先端にある美保神社でコトシロヌシが祀られるようになったのですが、おそらく古事記などでコトシロヌシが釣りをしていた場所が美保に特定されるようになったのは、東南アジア系海洋民がこの地に定着してエビスとコトシロヌシが同一視されて美保で信仰されるようになって以降のことでしょう。それが古事記における記述に影響を与えたと考えるのが自然というものです。
その美保神社の社伝では、コトシロヌシは美保神社で同居する妻神の目を盗んで中海の対岸にある揖屋に住む溝咋姫に会いに行くために中海を渡って通うことを習慣としており、ついにはワニに足をかじられたとされています。実際は中海にはワニはいませんから、これはいかにも東南アジア的モチーフだといえます。
この揖屋は中海に南から注ぐ意宇川の河口付近にあり、溝咋姫はこの意宇川の守護神であったのかもしれません。この意宇川を遡って中海の南に広がる意宇平野を見下ろす上流部の川沿いに出雲大社と並ぶ出雲国一宮である熊野大社があります。この熊野大社の祭神はスサノヲとされ、この熊野大社の社伝によれば紀伊熊野の熊野三山の元津宮はこの熊野大社だということとされています。この熊野大社を過ぎて更に意宇川を遡っていくと松江市と雲南市の境目の山中で斐伊川の支流に乗り換えることが出来ます。
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この記事に対するコメント

 縄文風の国土創成神話をもつ語部を擁したところが、初期の王権を確立したと思われます。弥生期には大和王朝とちがう王朝があったと考えることも出来ます。
 島根県安来市には記紀の国生みのはなしと出雲風土記の国引きの話が並立して残っているところでこのような得意な場所に初期の(出雲)王朝みたいなものが発生したとみると、考古学的な証拠などともある程度整合性がでてくるのではないかと考えております。

【2007/10/07 20:43】 URL | クナト #IixxghL. [ 編集]



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