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日本史についての雑文その204 鉄器と青銅器
ところでヤマタノオロチ神話において、オロチの腹が血で真っ赤に滲んでいたとか、スサノヲがオロチをバラバラに斬り裂いたために斐伊川が血で真っ赤になったとか、「血」や「赤」に関連した描写が多いのは、オロチは水神で河川の象徴でもありますから、斐伊川など出雲地方の河川の中国山地の上流域で砂鉄が多く採集できたということを暗示しています。「出雲国」の語源も、「出鉄(いづもの)国」からきたという説もあるくらいです。
そもそも人間など脊椎動物の血が赤いのは血液中の赤血球に含まれるヘモグロビンによるもので、ヘモグロビンは鉄原子を含んだ蛋白質で、鉄イオンが酸素とくっつきやすいという特性を利用して血液中を酸素を運搬します。その際に鉄原子が酸素と結合して酸化すると赤くなるので血液は赤くなるというわけです。それと同じで、砂鉄の含有量の多い河川の水は赤っぽくなります。
これだけの描写ならば、単にオロチの怪奇性を強調する描写であったり、この描写が古事記だけにしか無いことから、文学的修辞に過ぎないという捉え方も出来るかもしれませんが、オロチの尻尾から剣が見つかるという部分に関してはこのオロチ神話の全てのバージョンにおいて共通しており、こうなるとやはり、このオロチ神話にはこの出雲地方における砂鉄を使った製鉄に関連するモチーフが含まれていると考えるべきでしょう。

金属というものは自然中では酸化あるいは硫化した鉱物の状態で存在するものを還元反応によって酸素や硫黄を引き離すことによって金属を取り出して使用します。このように還元反応によって鉱物から金属を取り出す作業を製錬といいますが、この還元反応を起こす最も簡単な方法は、鉱物に高熱を加えて溶解させ結晶構造を破壊しつつ炭素を加えて酸素や硫黄と結合させて金属元素から引き離すことです。つまり窯の中で鉱石と一緒に木炭をどんどん燃やしていけばよいわけで、この方法論の延長線上にあるのが溶鉱炉ということになります。
ただこの方法では、例えば地殻中に最も多く含まれるアルミニウムなどは酸素と結びつく力が強いので取り出された金属は不純物の多いものとなり、実用に耐えるものとするためには電気分解による精錬の行程が必要で、古代においては実用化は無理でした。これに比べ、鉄や銅などはさほど酸素と結合する力が強くないので製錬によって純度の高いものを取り出すことが容易で、古くから実用化されるようになりました。
科学的には純銅は1000度以上の高熱でなければ溶解せず、しかも純銅は柔らかくて耐久材として実用的ではありません。しかし銅鉱石は自然界ではだいたい錫鉱石を同時に含むので、溶解すると自然に銅と錫の合金である青銅を生じることが出来ました。銅と錫を混ぜると融点が700度?900度に下がり、しかも硬くなって耐久材として実用可能となります。木炭をよく燃やすとだいたい400?500度の熱を得られますが、これを更に密閉した窯の中で風を送りながら燃やすと700度や900度にも達します。そういうわけで紀元前2000年頃から古代の世界各地で青銅器が実用化されるようになったのです。
一方、鉄の融点は1500度以上で、鉄を溶解させるための高熱を得ることは困難でした。それゆえ鉄の製錬は青銅の製錬よりも遅れたといわれ、紀元前1500年頃のヒッタイトによって普及し始めたとされています。しかし鉄の利用はそれよりも遥か昔に遡ります。

何故かというと、産出地が地球上の一部に偏在している銅の製錬には交易路の発達が不可欠であったのに比べ、鉄はアルミニウムに次いで地殻中に多く含まれているため、世界中どこにでも存在し、しかも鉄鉱石は溶解しなくても木炭の燃焼によって生じる一酸化炭素が鉄鉱石中の酸素を奪って二酸化炭素となるという化学反応によって固体のまま還元されて不純物の多いあめ状の錬鉄を得ることが出来、その錬鉄を赤熱状態を維持したまま打ち叩いて不純物を分離させれば純鉄を得ることが出来るという特性があり、その錬鉄を得る化学反応を生ずるのに必要な温度は400度?800度と低く、銅の製錬に必要な装置よりも手軽で小規模な装置で製造することが出来たからです。
金属というものは不純物が多いと融点が低くなり、硬くなります。逆に不純物が少ないと融点が高くなり、柔らかくなります。言い換えると、低い温度で得られる金属は硬くなるということで、そして硬いということは実は衝撃に対して吸収力や粘りが無いので脆いということであり、耐久材としては実用性が低いということです。
そういうわけで錬鉄は実用性は低いので不純物を取り除いて純鉄とするのですが、不純物が少なくなりすぎてしまうと柔らかくなりすぎて、これもまた実用性が低くなりますので、この純鉄を更に炭に包んで熱して適度な炭素分を加えて鋼にすることによって実用性の高いものが生じるのです。
このように、1500度以上の高温を得られない状態で真に実用性の高い鋼を得るためには複雑な手間が必要であり、しかも何度も木炭を燃やす必要があったため、膨大な森林資源を必要とし、青銅器よりも実用性に優れた良質の鉄器を得るためにはヒッタイトのような大きな組織を必要とし、それでいて大量生産はなかなか困難で、鋼は貴重品とされたのでした。

そういう意味で鉄の本格的な普及は青銅の普及よりも遅れたのですが、それでいて、材料の入手や製造装置の手軽さから、硬すぎたり柔らかすぎたりする低質の鉄に関しては、各地の集落で青銅よりも以前から勝手に作られていて、まぁ石器よりは幾分はマシな実用具として使われていたのではないかと思われます。当初、鉄が「悪金」と呼ばれて蔑まれていたのは、こうした低質の鉄の日常的使用によるものでしょう。
一方、青銅のほうは、現在において遺跡などから発見される青銅器は酸化によって青緑色になっているのであり、製錬した当初は光沢のある金属であり、錫の含有量が少なければ赤銅色、錫の含有量が増えると黄金色になり、更に錫の含有量が増えると白銀色となります。青銅も錫の含有量が増えるほど硬く脆くなりますから、鏡のような置物は白銀色のものが使われ、武具などはほどよい硬さと粘りを有した黄金色のものが使われました。銅鐸に関しては用途別に白銀色のものや黄金色のものがあったと思われます。
こうなると、黒ずんですぐに錆びる鉄などよりも、まず見た目の華やかさが全然違います。また鉄器は叩いたり切ったり磨いたりして苦労して整形してもなかなか不恰好なものしか作れませんが、青銅器はドロドロに溶解された状態で鋳型に流し込んで整形することが出来ますから、造形の凝ったものが作れ、しかも同じ規格のものが大量に作れました。
このように、青銅器は祭具や装飾具として使われるようになり、鉄器は日常的な耐久消費材として使われるようになっていきました。おそらく青銅器も鉄器も何度か精錬し直したりして再利用されたと思われますが、最終的には青銅器は国家管理の保管庫や墳墓の中などに安置され、一方、庶民の耐久消費材であった鉄器は最終的には適当な場所に打ち捨てられ錆びて腐食してボロボロになり土中に還元されてしまったのでしょう。古い時代の鉄器が発見されないのはそういうわけなのだと思います。
後に武器や祭具などにも使用可能な良質の鉄が本格的に導入されるようになって以降は、遺跡中などにも鉄器も保管されるようになりますが、それ以前にも低質な鉄は作られ、国家によって管理されていない状態だったので錆びて無くなってしまったのだと思われます。製錬施設の遺跡も、青銅器の場合は国家管理の本格的な施設であったので遺跡として残りましたが、初期の低質な鉄器の製錬施設はごく簡単なもので、しかも村落単位で運用していたようなものであったと思われるので、遺跡として残っていないのでしょう。

越人によって日本に水田稲作がもたらされた紀元前400年頃、シナ大陸では青銅器も鉄器も存在していましたから、この時に稲作と一緒にひとまず青銅器も鉄器も日本列島にもたらされたと思われます。
それ以前の縄文時代の日本列島で青銅器や鉄器が作られていたのかどうかですが、銅鉱石の採掘がまだ行われていなかったので青銅器はおそらく作られていなかったでしょう。鉄器に関しては砂鉄が各地で産出しましたから作ることは不可能ではなく、低質な鉄器なら作られていた可能性はあります。
ただ、いずれにしても、日本列島における鉄器の使用は紀元前400年以降の水田稲作の普及につれて徐々に浸透していったのだと思われます。日本列島の農業の場合、水田稲作で使う農具は泥地に適用したものが求められますから特に鉄器が必要であったわけではなく、むしろ鉄器が必要であったのは開墾時や治水灌漑などの土木作業時に限られていたので、急速に鉄器のニーズが膨れ上がったということは無いと思います。
低質な鉄の製錬方法であれば、もともと知っていたか、あるいは越人に教えられたかして、とにかく知っていたであろうと思われ、簡単な設備で粗悪な鉄器を作っていたのではないかと思われます。ただ、そうした粗悪な鉄器は武具や狩猟具としてはあまりニーズは高くなかったと思われます。
青銅器のほうは紀元前250年以降、徐々に祭具として使われるようになっていき、北九州では銅鏡や銅剣や玉などの威信財が重宝され、王権のシンボルとして使われ、小国家内のピラミッド構造の共同体の中で下賜品として活用されていきました。また、紀元前100年以降は青銅器やガラスに関しては北九州でも王権の管理下で作られ、王権の権威や宗教的権威を維持するために使われました。ただ日本では銅鉱石を産出しませんでしたから、これらの青銅器は全部、朝鮮半島から輸入したものか、あるいはそれらを窯で溶解して鋳直したものでした。
紀元前100年以降は朝鮮半島からシナ帝国産の良質の鋼で出来た鉄器も北九州へ輸入されてくるようになりました。これらは武器として使われると同時に青銅器に混じって威信財としても使われるようになりました。
この頃は北九州ではガラスの加工も行われており、ガラス加工には1500度ほどの高温が必要ですから、つまり鉄器を溶解して製錬することも不可能ではなかったのですが、そうだとしても良質の鋼を自前で作るのは手間のかかることであり、良質の鋼に関しては完成品をシナ帝国から入手して、列島内では半島から輸入した鉄素材を叩いて鍛え直したり、砂鉄から粗悪な鉄を製錬したりしていました。そうやって徐々に、紀元0年ぐらいには北九州で鉄器は一般化し、50年ぐらいから西日本で武器、工具、農具として普及していくことになりました。
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この記事に対するコメント

 そういえば司馬遼太郎氏が「街道を行く(砂鉄の道)」を取材しているとき、鉄の神といわれる金屋子神社(島根県安来市)を参拝したのだが、この神社の風情が中世的であることを残念がっていた。スサノオ神話より想定される古代鉄の古さとでその手がかりを、掴みたかったのかもしれない。地元のものが「ここは戦国時代、尼子と毛利の激戦があって古いものが多く消失した。」との説明に少し残念そうにしていたと日立金属のかたから伺ったことがある。
 しかし、最近この地域で弥生時代の鉄器が多数発掘されその量も北九州に準ずるものだという。その時代は実は大和は鉄器がほとんど発掘されておらず、この地がいかに先進地域だったかをうかがわせる話で生きていれば司馬遼太郎氏もさぞ喜んだことだろうと思われる。

【2008/06/01 12:20】 URL | 中野ハガネ #- [ 編集]



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