KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その206 勾玉信仰
そうした出雲由来の祭祀関連の技術者集団の原型は、勾玉製作の技術者集団である玉作氏であったろうと思われます。玉作氏の根拠地は宍道湖の南東端に注ぐ玉湯川沿いで、玉湯川の下流部にはスクナビコナが発見したとされて神の湯として古代から信仰の対象ともなってきた玉造温泉があります。
玉造温泉の東にある花仙山という標高200m.ほどの低い山から良質の青瑪瑙が採取できたため、それを材料としてこのあたりの住人が勾玉を作っていたので玉作氏と呼ばれるようになり、この地も玉作と呼ばれ、温泉も玉造温泉と呼ばれるようになったのです。

勾玉というのは古代日本における装身具で、つるつるした丸味を帯びたCの字型のペンダントのようなもので、代表的なものが三種の神器の1つである八尺瓊勾玉ですが、この八尺瓊勾玉は他の2つの神器である草薙剣や八咫鏡のように特定の神社のご神体になったりはしておらず、本物が今でも宮中に存在しているとされています。ちなみに草薙剣や八咫鏡に関しては本物はそれぞれ熱田神宮と伊勢神宮に保管されており、宮中にあるのはレプリカであるとされています。
つまり八尺瓊勾玉は神道の祭祀の対象となっておらず、純粋に天皇の装身具、あるいは護符のような存在であるということなのです。これはつまり、勾玉というものが神道が生まれる以前の原始宗教由来の存在であるということを指しています。
そもそも勾玉は縄文時代の遺跡から発見されることが多く、紀元前250年ぐらいから北九州などで剣と鏡と共に権力の象徴の3点セットとしても使われるようになり、その後に全国的にそういう傾向は広まっていきましたが、それは勾玉に霊的なパワーがあると見なされていたからです。単なる装身具ではなく何らかの魔除けの護符のようなものであったのでしょう。
勾玉は日本列島と朝鮮半島南部でしか発見されることはなく、そのうち朝鮮半島で発見されるものはほとんど翡翠製の勾玉で、翡翠が東アジアでは日本列島でしか産出されず、そして鑑定結果においてもこれらは日本産であることが確認されており、この朝鮮半島で使われていた勾玉は日本由来のもので、おそらくは4世紀になって大和王権が朝鮮半島南部に進出して以降に現地の有力者に下賜されたものであろうと思われます。高句麗の支配していた半島北部ではこれらは発見されないということもこの説を補強するものといえるでしょう。
つまり、この勾玉に関する信仰は、剣や鏡に関する祭祀とは違ってシナ世界由来のものではなく、日本列島オリジナルのものであるということです。そして勾玉は奈良時代に入ると急速に消えていったのですが、これは仏教の導入によって勾玉による魔除け効果のニーズが急速に消えていったからでしょう。単なる装身具であったなら生き残っても良かったはずですが、呪術的要素が強かったため、仏教の導入による信仰世界の激変の影響を受けて消えていったのでしょう。
鏡や剣に関する信仰は神道と共に仏教に習合していったために生き残ったのであり、勾玉に関する信仰だけが消えていったのは、勾玉に関する信仰がもともと神道よりも古い縄文時代に遡る起源を有していたために本質的には神道とは結びついていなかったからなのでしょう。
つまり、天皇も含めた古代の日本列島の人々にとっては勾玉は、神道のような儀式的な宗教世界のものとは違い、あまりにも身近でポピュラーな存在であったのでしょう。勾玉自体が信仰の対象なのではなく、本当に単なるお守りや護符のような、本質的に「自分の持ち物」であったのでしょう。だから三種の神器のうちでも勾玉だけは割と気軽に本物を身近に置いておくことが出来たのでしょう。おそらく三種の神器の中でも、鏡や剣はやや複雑な権力の象徴的な意味合いが強かったのですが、勾玉については、割とストレートに天皇家そのものの象徴としての意味合いが強かったのではないでしょうか。

おそらく勾玉は、その形状から推測するに、月の神秘パワーを込めた護符であったのではないかと思います。古来より月は太陽と並んで人類にとって重要な信仰対象でありました。特に太古においては太陽神よりも月神信仰のほうが先行していたとも言われます。
考えてみれば月ほど地球や人類に複雑かつ多岐にわたる影響を与え続けている天体はありません。もちろん太陽の影響は絶大なものですが、太陽はあくまで不変の存在であり絶対的なものです。それに比べて月は毎日その形や軌道を変化させ、それに一定の法則性があり、それによって暦を支配します。暦を支配するということは人類の生活を支配するということです。人々は必然的に太陽の運行や変化よりも月の運行や変化に注目し観察するようになります。そうしていくうちに月に対する信仰が生まれてくるのです。
また月は潮の干満を支配し、それによって瀬戸内海などでは潮流や海流までも支配します。それは地球上の全ての水を支配するということであり、水神信仰とも密接に関係してきます。地球上の水には人体内部の水も含まれ、人体は7割が水で出来ていますから月の影響を強く受け、女性の月経周期のみならず人間の精神も月の影響を受けます。
人間の精神にも影響を及ぼすということから、月の神秘のパワーはある意味では確かに存在するのであり、古代から月神への信仰は根強く存在しました。神が現れるのは大抵は夜なのですが、その夜に天空を支配しているのは太陽ではなく月なのです。
日本神話でもツキヨミという月神が出てきますが、ほとんど事跡が語られることはありません。だからといって日本列島に月神信仰が無かったというわけではなく、神道以前のあまりに根源的な信仰であったので、神道の世界を描いた日本神話の中では語られることが無かったのでしょう。
縄文時代以来の日本列島における月への信仰は素朴な自然神信仰の形で存在し、縄文時代の日本では農耕が重要視されていませんでしたので、月信仰と穀霊信仰が結びつかずに月信仰は純粋に月の神秘パワーを用いた呪術として発展し、魔除けの護符としての三日月型の勾玉を生み出し、日本列島の住人はそれを身につけることで災難を避けて幸運を得ようとし、また一族や共同体の繁栄を祈願したのでした。
勾玉は護符ですから簡単に壊れてしまうようではいけませんので、丈夫な素材で作られました。特に地位の高い人ほど丈夫で造形の綺麗でいかにも神秘力の込められていそうな勾玉を求めたことでしょう。そこで勾玉は翡翠、瑪瑙、水晶などで作られ、それらは産出地が限られ、しかも加工には高度な技術と膨大な手間が必要であったことから、次第に専門の技術者集団が育っていったのです。その代表的な存在が、青瑪瑙の産出地の近くであった宍道湖南に居住していた玉作氏であったというわけです。

こうして魔除けの護符である勾玉の製作技術者集団としての玉作氏が縄文時代の出雲において生まれたのですが、この玉作氏が同じ意宇平野において銅鐸や銅剣などのような他の祭祀器具などの製作も行うようになり、タタラを使った製鉄なども次第に手がけるようになっていったのでしょう。この祭祀関連の技術者集団である出雲の玉作氏と他の製鉄技術者集団や土木技術集団などは出雲の地で密接に協力し合って国作りを行っていったのだと思われます。
そしてこの玉作氏が忌部氏と同族なのです。勾玉はシナや朝鮮半島からはその原料も含めて入手できないわけですから、その最大消費地である紀元前250年以降の北九州は出雲をはじめとした日本列島内から勾玉を調達せねばならなかったのであり、そこに必然的に玉作氏との関係が生じ、北九州に移住した玉作氏の一派が筑紫忌部氏になったのだと思われます。そして筑紫忌部氏はその祖神を鍛治の神の天目一箇神としており、おそらく金属器の製作も行っていたのでしょう。
そして玉作氏の同族である忌部氏には他に、筑紫忌部氏と同じく天目一箇神を祖とする伊勢忌部氏、他に紀伊忌部氏、阿波忌部氏、讃岐忌部氏などがいて、彼らは出雲の玉作氏が勾玉、銅鐸、銅剣、銅鏡などの銅製品の製作技術や製鉄技術などを出雲神話と共に携えて、他の技術者集団と共に各地に移住していって忌部氏と名乗っていったものだと思われます。

さて、こういった古代出雲の存在した島根半島エリアを中心に日本海の海岸線沿いに出雲文明圏は更に東に広がっており、倉吉、鳥取などは出雲地方と類似した古代の遺跡が発見されていますので、同じ部族による同じような文明が営まれており、島根半島エリアと海上路で繋がっていたのでしょう。また、出雲よりも西に移動した海岸線沿いの江津、益田、萩なども天然の良港が形成されており、出雲方面と交易関係があったと推定されますが、これら石見国や長門国の方面は考古学的にはそれほど強い出雲文明との繋がりは認められていませんので、とりあえず出雲文明の中心は出雲平野以東と考えることにします。
この古代出雲の領域である出雲国、伯耆国、因幡国の日本海の海岸線へ注ぐ主要な河川は西から順に、出雲に河口を開く神戸川と斐伊川、米子に河口を開く日野川、倉吉に河口を開く天神川、鳥取に河口を開く千代川あたりということになります。

神戸川と斐伊川との水系、それに中海に注ぐ意宇川と飯梨川と伯太川の水系で出雲国の山間部のほとんどはカバーしますが、これらのうち中国山地を越えて瀬戸内海方面へ向かおうとするのは斐伊川のみで、その斐伊川も最上流部の出雲国と備後国の国境にある王貫峠で神野瀬川に乗り換えて、その神野瀬川を下っていくと三次で江の川に注ぎますが、これを下っていくと出雲と同じく日本海側の江津に戻ってしまいます。そこで三次から江の川を遡っていくと広島市の北で最上流に達してしまい、瀬戸内海まで達するにはここでまた太田川に乗り換えなければいけません。
このように出雲国からは瀬戸内海方面へのアクセスは非常に悪く、これによって安芸以西については出雲勢力の影響はあまり受けずに、むしろ豊後水道方面から進出してきた南洋系海洋民の影響を大きく受ける形となったのです。また逆に言えば瀬戸内海方面から出雲へのアクセスも困難なのであって、その分、比較的後のほうの時代になっても出雲国が大和朝廷から独立した勢力として残存出来た要因の1つでもあったのでしょう。

一方、伯耆国を流れる2つの大きな河川である日野川と天神川は吉備国へのアクセスが良好でした。伯耆国はもともと「伯岐国」といい、「阿岐国」の場合と同じく「岐の国」であり、交通の要衝の国だったのです。
米子を通る日野川の支流の石見川は桑平峠で高梁川の最上流部に乗り換えて、そのまま高梁川が新見市や総社市を通って下っていき、倉敷市で備讃瀬戸に注ぎます。また、天神川の支流の小鴨川を倉吉を通って遡っていくと犬挟峠で旭川に乗り換えて、備中地域を下って行って岡山市中心部で備讃瀬戸に注ぎます。また、因幡国を流れる大河である千代川の最上流部は右手峠で吉井川の最上流部に乗り換えて備前地域を下って岡山市東部で備讃瀬戸に注ぎます。これらはいずれも吉備国の古代文明が栄えた地域です。
このように、古代出雲文明の内陸河川ルートを担った東南アジア系海洋民の出雲族の主要な活動地域からは、安芸や備前方面にアクセスするよりは吉備方面にアクセスするほうが容易なのであり、内陸河川を使った交易に秀でた彼らが吉備方面まで進出していたとしても不自然ではないといえるでしょう。そして、そこに室戸岬から阿波、讃岐を経て南洋系海洋民が進出してきて、旧来の東南アジア系海洋民と合体して吉備氏を形成していったのではないかと思うのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。