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日本史についての雑文その207 丹波と播磨
このような出雲と吉備の関係性と類似していたと思われるのが丹波と播磨の関係性です。日本海沿岸を東へ流れる対馬海流に乗った東南アジア系海洋民から見て、島根半島の次に海流離脱の目印になる地点は丹後半島先端の経ヶ岬です。ここに辿り着いた東南アジア系海洋民は島根半島に辿り着いた部族と似通った文化を持っていたと思われます。
この丹後半島に辿り着いた海洋民は内陸水路を通って現在の兵庫県北部と京都府北部を合わせた地域、つまり但馬国、丹後国、丹波国といわれた地域に広まっていったのですが、これら地域はもともとはまとめて「丹波国」といわれていた地域で、吉備国と同じような大和朝廷に対して独立性の強い大国として後世に知られることになります。その原型が既に弥生時代には形成されていたと思われます。

丹波は古くは「タニハ」と呼ばれ、「谷端」と書いたようです。おそらく畿内の大和王権側から見てこの地は、峻険な地に多くの川が流れるという意味で「谷ばかりある辺境の地」と見えたのかもしれません。
丹波国は出雲方面よりも内陸にある山間部の盆地が数多く発達しており、それらを連絡する河川のルートが豊富で複雑で、より内陸生活に適応した独自の文化を発展させていきました。そしてその丹波国の山地の南に広がる瀬戸内海に面した平野部分が播磨平野だったのです。

丹後半島の先端の経ヶ岬に辿り着いた海洋民が海岸線に沿って海路を西へ進んだ場合、丹後半島の西の付け根の部分の城崎に円山川の河口が開いています。それを通り過ぎて更に西へ向かえば竹野海岸、香住海岸などのリアス式海岸が続きます。これらは天然の良港であり海洋民たちはこのあたりを基点にして日本海での沿岸漁業を行っていったと思われます。この但馬地方のリアス式海岸は鳥取砂丘まで繋がっており、この海域において出雲文化圏と丹波文化圏の接触は行われていたと考えていいでしょう。
一方、丹後半島の東には若狭湾が広がっており、それは東方の越前岬まで続いていました。この若狭湾の中は岩礁海岸が非常に入り組んだ複雑な海岸地形をしており、若狭湾中にまた幾つもの湾が存在し、それらの内部に天然の良港が形成されていました。若狭湾中の主要な湾で西から順に、宮津湾、栗田湾、舞鶴湾、内浦湾、小浜湾、敦賀湾があり、栗田湾には由良川の河口が開いており、小浜湾には北川と南川の河口が、敦賀湾には笙の川の河口が開いていました。

まず城崎で日本海に注ぐ円山川を遡ると下流域で豊岡を通りますが、豊岡で南東方向から円山川に注ぐ支流に出石川があります。この出石川が円山川に合流する直前の地点に但馬国一宮の出石神社があり、天日槍を祀っています。天日槍は新羅の王子であるとか言われていますが、そういう詳細の真偽はともかく、海の向こうから神宝を持ってやってきた者がこの地に定住し祀られるようになったということと、その神宝を大和朝廷に献上したということ、そして出石に落ち着く前に天日槍は播磨、淡路、近江、若狭を巡っており、淡路にも縁があるということ、また、この話に類似の話に敦賀に帰化したツヌガアラシトの話があり、こちらは穴門、出雲、そして朝鮮半島南端の伽耶にも縁があり、古来から日本海側起源で播磨や淡路、近江にまで影響力を有した丹波を中心にした勢力があり、それは朝鮮半島南部の海洋民とも繋がりがあり、それが後に大和朝廷に帰順あるいは合流したということを表しているのでしょう。
天日槍については古事記に関連した説話がありますが、そこでは水辺の女が日光に感じて妊娠する話があり、これは朝鮮半島や大陸の海洋民の説話要素であり、やはり朝鮮半島に関係が深いといえます。そしてこの天日槍の子孫にタジマモリがおり、この人はイクメイリヒコ大王の時代に海の向こうの常世の国に派遣されたとされています。これも朝鮮半島の関連が深いといえるでしょう。そしてこのタジマモリの子孫が三韓征伐のオキナガタラシヒメの母親ということになるのです。

さて、その出石川を遡っていってみると最上流部の神懸峠で雲原川に乗り換えて、雲原川は大江山の南で由良川の下流に合流してそのまま栗田湾に注ぎます。栗田湾からは、すぐ西が天橋立で名高い宮津湾、すぐ東が近代日本海軍の日本海側の根拠地であった舞鶴湾となります。舞鶴港は現在も海上自衛隊の重要拠点です。
あるいは出石川の支流の太田川を遡って岩屋峠で野田川の上流に乗り換えて、この野田川は阿蘇海に注ぎます。阿蘇海は古代から名所として名高い天橋立という砂洲によって宮津湾から仕切られた内海で、この天橋立の北端、つまり阿蘇海と宮津湾の北岸に丹後国一宮の籠神社があります。
この籠神社の祭神は豊受大神といって伊勢神宮の外宮の祭神と同一で、また、この籠神社は元伊勢の1つです。元伊勢というのは大和、丹波、紀伊、吉備、伊賀、近江、美濃、尾張、伊勢に多数あり、これは後に大和王権の成立期に各地の祭祀を統合していく過程の産物で、要するにこの籠神社では古来からこの地の住人にとっての重要な祭祀が行われていたということです。そしてそれはおそらく、神社の立地から考えて水運や漁業に関する祭祀であったのだろうと思われます。

さて、城崎の河口部から円山川を遡り、豊岡で出石川に入らずに直進した場合、次は養父で南西方向から大屋川が合流してきます。この大屋川を遡っていくと最上流部の若杉峠で揖保川の最上流部に乗り換えることが出来ます。そのまま揖保川を南に下っていくと宍粟を通りますが、ここは先述の天日槍が最初に落ち着いたといわれる場所です。また、この宍粟の揖保川沿いには播磨国一宮の伊和神社があり、ここの祭神の伊和大神は播磨国を開拓した神ですが、出雲から来たとされ、オオアナムチと同神とされています。やはり日本海側との繋がりが強いのです。
そして、この宍粟には鉄の神様である金屋子神が舞い降りて里の人々に恵みをもたらした後で「私はもっと西へ行く」と言って出雲国へ移っていったという伝承があり、出雲のタタラ吹き製鉄の技術者も金屋子神を祀っていたとのことですから、出雲の製鉄技術者集団と宍粟の地は関係があるといえます。また、この伝承は天日槍やその類型のツヌガアラシトの話と似ており、その子孫であるオキナガタラシヒメ一族も製鉄に関連した存在なのかもしれません。そしてオキナガタラシヒメ一族は朝鮮半島にも関係が深いのであり、朝鮮半島の鉄利権とも関係があるのかもしれません。

そこから更に揖保川を下っていくと龍野市で播磨灘に注ぎますが、この揖保川の河口は播磨平野の西端に開きます。播磨平野は北の中国山地から発した揖保川、夢前川、市川、加古川の4本の主要河川が南の播磨灘へ向けて流れる流域に形成された平野ですが、古代においてはその南半分は西は姫路市網干区あたりから東は加古川市あたりまで海中もしくは干潟地帯でした。播磨平野の干潟地帯と陸地との境目あたりで平野の真ん中を流れていた市川の河口付近に現在は姫路城がありますが、この姫路城の地に古来から射楯兵主神社があり、ここの祭神は先述の伊和大神の分霊であるとされ、伊和大神、つまり出雲系のオオアナムチを祀っていた氏族の平野部における拠点とされています。
この姫路城付近の河口から市川を北へ向けて遡ると、福崎や市川を通過して生野銀山の西の谷で円山川の最上流部に乗り換えることが出来ます。そのまま円山川を下っていくと養父や豊岡を通って城崎で日本海に出るのですが、養父の少し上流の和田山で与布土川が合流してきます。
この与布土川を遡っていくとその上流部で何本かの支流に分かれ、そのうちの1本が兵庫と京都の県境にある夜久野で牧川に乗り換え、これを下っていくと福知山の北で由良川に合流し、そのまま下っていけば大江山の南を通って栗田湾に注ぎます。また与布土川の別の1本の支流は夜久野の南にある遠阪峠で遠阪川に乗り換え、遠阪川はそのすぐ南の佐治において加古川に合流します。
その合流地点から加古川の本流のほうを下らずに遡っていくとすぐに生野峠で最上流部に達し、市川の最上流部に乗り換えることが出来ます。また、遠阪川と合流してから加古川を下っていくと丹波市で黒井川に乗り換えて、黒井川は春日で竹田川に注ぎ、竹田川は北上して土師川に注いでから福知山で由良川に合流し、由良川は栗田湾に河口を開き日本海へ出ます。
丹波市からそのまま加古川を南へ下っていくと、丹波市と西脇市の真ん中あたりで篠山川が合流してきますので、その篠山川を遡っていくと篠山市内で武庫川に乗り換えることが出来ます。篠山市から南へ武庫川を下っていくと三田で六甲山地の北に出て、宝塚、西宮を通って六甲山地の東で大阪湾西部に注ぎます。また、武庫川は三田の南で支流である有馬川の合流を受けますが、その有馬川を遡って南へ向かえば六甲山地の北側の山麓部で古代からの名湯である有馬温泉に行き着きます。
篠山川の合流地点から更に加古川を南へ下っていけば、西脇、滝野、小野を通って加古川市で播磨灘に注ぎます。加古川の下流の流域は播磨平野の東部で、その河口部の湿地帯の東端は明石海峡のすぐ西あたりまで達していました。

この播磨平野に面した海域が播磨灘であり、西は小豆島、東は淡路島、北は本州、南は四国に区切られ、西北部に家島諸島がある以外はほとんど島の無い広々とした海域です。西には備讃瀬戸が繋がり、東には明石海峡で大阪湾に通じ、南東には鳴門海峡で紀伊水道に通じるこの海域は、極めて水産資源が豊富な海域ですが、その原因は明石海峡にあります。
明石海峡では満ち潮の時は播磨灘方面へ、引き潮の時は大阪湾方面へ海水が流れますが、海峡の幅が狭いところは4km.未満と狭く、しかも海峡付近の海深は100m.と非常に深く、狭い海峡に猛烈なスピードで流れ込んだ大量の海水が海峡通過後に一気にあふれ出た海流が海底で反転する渦を発生させます。
この渦が満ち潮の時に播磨灘方面で海底地形の関係で海底からの激しい湧昇流と海面での三角波と西方への凄まじい潮の流れを生じます。これにより明石海峡の西方5km.ほどの海上は海の難所となり、船での通過は危険が伴うようになったのですが、同時にこの湧昇流によって海底にある窒素やリンなどの栄養源を海面に届け、それを西方の播磨灘に運ぶことにより播磨灘の水産資源を極めて多大なものにしているのです。
特に明石海峡の西方の沖合い十数km.から播磨灘に広がる水深6m.ほどの鹿ノ瀬という浅い海域は海底に栄養源豊富な砂の丘陵地帯を形成し、植物性プランクトンを繁殖させて、それにより動物性プランクトンが繁殖し、それを食べる鯛やイカナゴの稚魚やエビやカニなどの甲殻類を繁殖させる産卵生息地になり、それらを食べるタコや鯛が集まり、日本有数の浅い漁場となっています。

この鹿ノ瀬を沖合に望むのが明石市の西端にある二見港で、その東の魚住には住吉神社があります。その祭神は住吉三神とオキナガタラシヒメで、三韓征伐の際に播磨灘で暴風雨に遭ったオキナガタラシヒメが魚住に非難して住吉神に祈願したら嵐が収まった故事に由来するらしいが、要するに古代からここが重要な港町として機能していたということで、また、福岡から大阪に分霊した住吉神を最初に勧請したのがこの魚住の住吉神社であったとのことで、ここが瀬戸内海海運にとって重要な拠点であったことが分かります。
実際、このあたりは明石海峡が引き起こす急激な海流の影響で海岸線に土砂があまり堆積せず天然の良港が形成され、しかもこの二見や魚住の地は、明石海峡西方の沖合5km.ほどの海の難所のやや西方にあたり、満ち潮の時に危険な海流が発生している時に潮の流れが変わるまで待つための寄港地として重要な場所でありました。つまりは明石海峡における潮待ちの港であったわけですが、この二見や魚住と明石海峡を挟んで逆側で同じような位置関係にあったのが神戸港ということになります。
この二見や魚住は播磨平野のすぐ東にあり、鹿ノ瀬だけでなく播磨灘全体が水産資源が非常に豊富であったので海洋民の活発な活動領域となり、二見や魚住以外にも多くの漁港が必要だったのですが播磨平野は干潟地帯でしたから天然の良港はあまり無く、播磨平野の西にある相生や赤穂、その沖合の家島諸島、小豆島に天然の良港が豊富にありましたので、海洋民はそのあたりを拠点にして播磨灘で沿岸漁業を行っていました。そして、このあたりになると備讃瀬戸の多島海とほぼ連続しており、吉備方面の海洋民も播磨灘に進出して、この海域の海洋民と交流していたと推測されます。
こうして、播磨灘は漁業が活発な海域となったのですが、播磨はもともと「針間」と言ったのであり、この「針」というのは、もしかしたら釣り針の「針」なのではないかとも思われます。
また、鹿ノ瀬漁場にごく近い天然の良港として忘れてはならないのは淡路島西岸の岩礁海岸です。特に淡路島北西部の海岸近くには淡路国一宮の伊弉諾神宮があり、この地が重要地点であることを示しています。この地点は鹿ノ瀬漁場に向かう漁港としても、また、明石海峡の潮待ちの港としても重要な地点でした。

だいたい、明石にしてももともと播磨国からも摂津国からも独立した明石国という国があったのであり、また淡路にしても一島だけで淡路国という国の扱いであったのであり、これらは、これらの地が独立してやっていけるほどの生産力を有していたということを示しており、その生産力はその立地条件から見て漁業以外にはあり得ないと見ていいでしょう。そしてこれらの明石国、淡路国はその特別に重要な立地条件から、おそらく大和王権成立後は穴門や鞆の浦と同じように大和王権の直轄地という扱いになったのではないかと考えられます。
それは後のこととして、イワレヒコの東征以前の段階ではこれらの地は南洋系の海洋民の活動領域であったと思われます。何故なら、淡路はその語源が「阿波路」であるように、本州から阿波国につながる回廊なのであり、おそらくは室戸岬や紀伊水道方面から鳴門海峡を通過した南洋系海洋民が淡路島の西岸を北東方向に伝ってきて播磨灘に展開し、播磨平野にもやって来たと考えられます。
こうして、阿波や讃岐を経由して淡路島や小豆島、備讃瀬戸などから播磨灘に入ってきた南洋系海洋民が、播磨灘で獲れた水産資源を捌くために播磨平野の干潟地帯を経由して揖保川、夢前川、市川、加古川を遡り、それらの流域の農村共同体と取引をしつつ共通の経済圏を築いていこうとするようになったのであり、それ以前から日本海側からこれらの流域に進出してきていた東南アジア系海洋民と一体化して播磨族といえるような新たな集団を作り上げていったのではないかと思うのです。
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この記事に対するコメント

いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な出雲の青銅器時代がおわり四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。

【2008/10/16 22:32】 URL | 大和島根 #- [ 編集]



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